治験そして事件
培養液を含んだ軟膏はあっさり出来た。
鉱物油であるワセリンほどの粘度は出ないが、植物油でもローション以上の粘りはあるので、長時間の保湿は期待できる。
鼻がねじ曲がる程の培養液の臭いは香油を入れることでかなり抑えられた。まだ心地よい香りとは言えないが、うんこの臭いですらチョコレートの匂いに変えられるのだ。何種類かの香りのブレンドを試みれば実用に耐えるものになるだろう。
これを全身に塗れば培養液に浸かっているのと同じ状態を再現できる!
ラドは試作品の軟膏を詰めた広口のガラス瓶を、獣油ランプの灯りにすかして、ためつすがめつ眺める。
この瓶の中には可能性が詰まっている。イチカを忍土の軛から解き放つ可能性。広い世界に一歩を踏み出す可能性。自分やアキハと一緒に暮らせる可能性。
しっとりと照らされた緑色の軟膏はイチカの世界に色を与えてくれるハズ……。
「これなら」
――これなら彼女に普通の人と同じ人生を歩ませてあげることができる。魔力のない僕には出来なかった普通の人生を。
ラドはガラス瓶を握りしめて眠りについた。
翌日。
治験は早いに越したことはない。早速イチカに試すために今日は遅出で工場に出勤することにする。
帰宅中のウィリスにかち合いたくないので時間は十分ずらして夜も更けてからアキハと出勤だ。
夜道に左手を腰の革バックに当てれば、そこには試作品の軟膏瓶の感触がある。
これがイチカの命と未来をつなぐのだと思うと、何とかうまく行ってくれという祈りと、それと同じくらいきっとうまくいという慢心にも似た高ぶりを感じる。
右手は一緒に工場に向かうアキハの手。
ここまで二人でやってきた、だからイチカのことは二人で一緒に見届けたい。それはアキハも同じなのか互いに頷き合って街を出る。
ポツポツと降り出した氷雨に濡れ、真っ暗な田舎道を晩秋の寂しい虫の声を聞きながら急ぐ。
珍しく降った雨のせいだろうか、工場への道に出てからなんだか妙に気がせく。いや胸騒ぎか?
それはアキハ同じらしく神妙な面持ちでライトの魔法の小枝をラドに差し向ける。
「なんか重苦しいね」
実に正確な感想だ。寒いのに蒸し暑いような。ペトリコールとは違う埃っぽい臭いと圧迫感。
「うん、アキハ急ごう」
アキハは目で頷きラドの手を引っ張っる。
夜の工場はいつも静かなものだか、今日の工場は特別恐ろしい程に静まり返っていた。だのに変な雑踏感がある。
僅かだが工場の重厚な大門が開いている。
門外の両脇にある門番小屋にはすっかり仲良くなった門番がいない。
「ラド、下みて」
目を落とすと、足元の砂利が異様に暴れている。
「ここで誰か暴れたか、それともたくさんの人が通ったんだ。アキハ気をつけたほうがいい」
「うん」
アキハは声をひそめて身を縮め、ライトの魔法を止める。
あたりは墨を落としたように真っ黒になり自分の手すら見えなくなる。これが晴れならば星明かりで足元くらいは見えただろう。
「脇道から行こう。イチカが心配だ」
育成棟は工場内の敷地にきっちり二列に配されている。脇道は工場の塀沿い、育成棟の扉のない側の普段は使わない道だ。
育成棟を壁伝いに歩き、裏から闇に紛れて奥へと進む。
工場の敷地に街灯はない。燈火に使う油がもったいないからか、どうせ人はいないのだから不要なのか……。
魔法の世界なのに油を使うのは魔法は貯めることができないからだ。ライトの魔法で明かりを取るには魔法士を朝まで燈下の下に立たせなければならない。だからこの世界は折角魔法があるの夜は暗い。
普段は余り使わない脇道をちょっと歩いて、ラドはこの工場に満ちる違和感の原因に気づいた。
「警備員がいない」
足音がないのだ。人数こそ多くはないが夜は輪番警備がライトの魔法を施した警棒を持って巡回しているはずなのに彼らの気配がまるでない。彼らはどこに行ってしまったのだろうか。
高まる緊張を諌めて息とともに静かに吐き出し、また一歩と足を進める。
「はうっっっ!」
ラドより少し前を歩いていたアキハが両手で口を押さえて悲鳴を飲み込んだ。
そのままおずおずと後退り、おぞけ震う体をピタリとラドに寄せてくる。
「どうしたの。なにかあった?」
小さく発したその問いはアキハの無言の行為によって肯定された。おもむろにラドの手首を取るとグイグイと引っぱり来た道を引き返す。
「ちょっと!」
「しっ!」
手首が痛い、手形が付くだろう程の握力だ。その女の子とは思えない握力がふっと緩む。
「ふんじゃったの」
「なにを」
聞こえる聞こえないかのギリギリの音量の会話。
アキハがゴクリとツバを飲む音がした。
「ぬるっとしてた」
そのオノマトペに犬の糞でも踏んだかと一瞬思ったが、そんなおかしな想像は言下に否定する。この驚きようとはあまりに合わない。
「わたし知ってるの。あの生暖かいやわらかさ」
そこまで言われてもラドには何を踏んだのかが分からなかった。経験がなければ言葉で伝えられても想像ができない、特に感覚は言葉にし難い。
「あれ、お腹の中の感触。母さんとヤギをさばいたとき触ったのと同じ」
そういえばパラケルスでは『籠り前夜』という秋祭りでヤギを振る舞う風習がある。女集は丸々一頭のヤギをさばいて、頭を街長に、肉を男に、内臓を女に、手足を子供に分け与える。子供に手足を分け与えるのは、『よく働くように』という意味だそうだ。『触った』とは、そのときの事の感覚を覚えての事だろう。
「なにかの動物の?」
薄々ではなく分かっていたが、認めたくない想いが先立ちそんな遠回しな言葉を使う。
「考えたくない」
それはアキハも同じらしい。だかそうは行かない。いまここでは何か異常なことが起こっているのは確かなのだ。それを確認しなければならない。
「戻ろう。戻って確認しよう」
「でも……わかった」
「少しだけライトの魔法をつけて。誰かいるかもしれない、もしもを考えてバレないように」
「うん」
燐光のような黄色い微かな明かりを頼りにまた来た道を戻る。アキハは明かりついた棒だけを前に突き出してラドの背中にへばりつく。
そのラドの足が止まった。
薄明かりが闇に紛れる境界、その際に見えたモノの正体は――。
死体
体を正面から切り裂かれ、血の海に内臓をぶちまけた不自然に折れ曲がった人の体だった。
それが数体、投げ出されている。
「ラド……」
「ホムンクルスの死体だ」
ラドの視線は体からだらりと伸びる腸を辿る。
すると更にその奥、もう一つの塊を見つけた。
「と、警備員さんだ」
「まさか口ひげのコルオロさん? 太っちょのレイズルさん? それとも」
「アキハは知らないほうがいい」
これ以上はアキハに仔細を教えたくなかった。どの警備も門番もないのである。ラドの知っている全員がここに横たわっているのだから。
それらは酷いことにどれも五体満足ではない。鋭利な刃物で切りとられ、腕や足が見当たらない遺体もあった。
「遠回りだけど別の道を行く、イチカが心配だ」
アキハの答えはなかった。
工場の入り口側に戻り、逆周りに石塀を辿って一番奥のイチカがいる育成棟に向かう。
途中、錆びた蝶番が隠しきれない軋みを空に放つのが何度か聞こえる。
誰かが育成棟を一つ一つと開けているのだ。その誰かがみんなを殺したに違いない。目的は分からないが。
「急ごう」
促されたアキハは頷き足を早める。
不幸な事に育成棟には窓はなく扉も一つのみだ。イチカを連れ出すためには相手とかち合わないように先回りして、先に育成棟に入らなければならない。
なんとか軋み音の先を行き、イチカがいる育成棟に到達点する。
大扉の前に立ち、開け慣れた取っ手に手をかけて静かに引く。小さな二人なら僅かに扉を開けるだけでこっそりと潜り込めるはずだ。
そーっと、そーっと――。
音は……。
音は鳴らない。
息を吐き出して出来るだけ小さくなった二人はカニ歩きに扉を抜ける。まずラドから。そしてアキハが後に続く。
「ミキッ」
静寂を切り裂く音にラドは鳩のように機敏に振り返った。
アキハが肩をすくめて縮こまっている。
隙間を抜ける時に、お尻が扉に当たったらしい。
ラドは舌打ちしたい衝動を抑え、アキハの手を取ってグイっと引っ張る。
ひそひそ声で。
「バカ!」
「だって当たっちゃったんだもん」
「気づかれたかもしれない、急いてイチカを連れ出そう」
「ええ」
「僕はイチカを起こす」
「じゃわたしは見張りをするわ」
ラドは扉に戻ろうとするアキハを呼び止めて「アキハ、これ」と培養液用に獣の血を採取するためのナタを手渡す。
「気休めにもならないけど」
「手ぶらよりましよ、まかしといて」
汚名挽回と意気込むアキハ。
刹那!
「アキハ! 後ろ!!!!!!」
ラドの叫びとともに、振り上げた白刃の煌めきが闇に迸った!!!
呼ばれたアキハは後ろを向くより早く、右足を軸にダンスのターンのように体をさばく。
カキーーーンと石に跳ねる鋼の響き、同時に床から火花が彼岸花の花弁形に広がる。
まさに紙一重。アキハの後方から垂直に振り下ろした太刀筋が、アキハの鼻先をかすめていったのだ。
「アキハ!!!」
叫ぶラドの声を無視して、アキハは怯まず次の行動に出た。なんと今敵を把握したばかりだと言うのに、すっと体を落とすと大またを開いた敵の足をくぐり抜けたのだ。
これには敵も驚いた。間の抜けた顔で自分の股間をみる。アキハはもうくぐり抜けた後だというのに。
敵の男は途轍もなく大きい。培養液の薄明かりでは暗くて詳細は把握できないが、六十七シブ(二メートル)はくだらない巨躯で、隆々とした筋肉のつき方は親方の体格とそっくりだ。
「シンシアナ兵!」
大胸筋がはちきれんばかりに存在を主張する黒革なめしの胸当てには、二本の剣が獅子の上に被るシンシアナの国旗が掘られている。腰には大剣の柄がぶら下がり、スネは自分の胴回りよりも太く見えた。そのシンシアナ兵が気を取り直して後ろにいるだろうアキハを探す。
「ぐああああ!」
だが突然の叫び。
雄叫びかと思えたが、うずくまり足を抱えている。
何が起きたのかと周囲を伺えば、その向こうにナタを凪いだ格好で片膝をついたアキハの姿が見えた。そのナタにはべっとり血糊がついており、敵が抱えた足首からは血が吹き出している。
アキハは小柄を活かして、股を抜けると同時に相手のアキレス腱か内股を切ったのだ。
そう理解した、理解はしたが、あの瞬発力と度胸のよさ、恐ろしい程の冷静さは何なのだ。初めて会った森の時もそうだが、アキハは自分が知っているどの人物よりも肝が座っている!
そのアキハがくわっと顔をあげナタを正に構える。
「あ、あれがアキハか!?」
顔を上げたアキハを見てそう思う。異様な鋭さを放つ目はまるで獣そのものだったからだ。
アキハから意識を離そうと思っても離せない。
状況は空気を詰めるだけ詰めた風船のようにパンパンになり極度に緊張している。シンシアナ兵とアキハはそれを感じてか、ピクリとも動かす殺気だけの戦いを演じている。
その均衡が突如破れる。
男はしゃがみこんだ体勢のまま、振り下ろした剣を力任せに真横に振り出した。
ラドの背幅はあろうかという鉄塊は敷石を削り取り、ジャラジャラと尻上がりに音階を上げてアキハに迫る。
その音に混じって小ぶりなナタが鉄塊を受け止める甲高い音がした。
いや受け止めたのではない、アキハごとふっ飛ばしたのだ。
「アキハ!」
ぶっ飛ばされたアキハは宙を飛び、着地ですべってゴロリと転がる。だが「いやぁ!」と気合をかけて受け身をとると、「やったな!!!」と髪を逆立てすぐさま臨戦態勢に移った。
――別人だ、まったくの別人だ。
そう感じ、アキハに畏怖しつつも、擦りむいた肘と膝から血を流すアキハが心配で声をかけずにはいられない。
「アキハ、無事か!」
「大丈夫、問題ない!」
なんてアホな質問に大胆な答えだ。
初手でアキハは敵の足を殺して動きを止めた。足が使えなければどれほどの大男も大したことはできないと思うが、それで問題がない訳はない。相手は見るからに戦いの手慣れで、もはや不意打ちにかけることは出来ないと思われたからだ。
戦況は依然不利に動いている。
アキハは今度はナタを眼前に持ち上げ横に構えて、目だけで周囲を伺う。
彼女の目が何倍にも大きく見えるのは、それだけ自分の存在丸ごとがアキハに吸い寄せられているからだ。
アキハはナタを逆手に持ち替え、そして剣先を部屋の奥側に向けた。
「イン エルジャル コピルスレフテン……」
剣先が光輝を放って暗闇に踊る。
なぜライトの魔法を詠唱する? それもゆっくりと?
「はっ! そうか!」
これはサインだ。アキハにとって魔法と言えば自分しかいない。魔法で自分に呼びかけているのは――、そうだ! この部屋の奥にあるイチカの石槽!
ラドは大きくうんと頷き了解のサインを伝えると、ジリジリと後ろに下がる。
アキハは満足したように口角を上げると。ぺろっと唇を舐めた。
「こんな子供にやられて悔しいわね、でくのぼう。外の死体はあんたがやったんでしょ。よくも友達を切り裂いてくれたわね」
子供とは思えない深い声の挑発が始まった。
「このガキがァァァァァァ」
大男は腿筋を隆起させて、切られていない片足で立ち上がる。
「かかってらっしゃい」
ライトを帯びたナタを構えるアキハ瞳がキラリと光った。ラドはそっと明かりの範囲から身を退け闇に紛れた。
ナタ先が示した方向へ向かう途中、護身用として石槽を動かすときに使うテコ棒を手に取る。
あのサインの意味は、魔法は「ラド」、ライトは「見る」、ナタ先が示す位置は「イチカの培養槽」に違いない。なら『イチカを助けろ』以外に考えられない。
アキハはあの足を痛めた兵士を相手にする自信があるのだ。だがもし敵が二人いたら相手をするのは無理だと考え、足止めができるうちにイチカを助けろと言っているのだろう。
奮闘するアキハから目を離すことに罪悪感があるが、これはアキハが望んだことだと言い聞かせて激戦の二人に背を向ける。
屈んで石槽に身を隠しつつ、居るかもしれない敵に見つからないようにイチカのもとにむかう。
イチカは育成棟の一番奥にいる。ウィリス工場長がひょっこり入ってきたときの事を考えて、時間稼ぎに遠くに置いたのだ。今回はそれが裏目に出た。救出までにアキハはより長い時間、戦ってもらわなければならない。
何とか持ちこたえろよと鬼神と化したアキハに念を送る。
遠くから聞こえる打撃音が聞きつつ、アキハ健在を信じて匍匐前進を続ける。
そうして、やっとのことでイチカの元にたどり着いた。
「ほほう、そいつがうわさのホムンクルスか」
ぞッとするダミ声が耳朶に響いた。
「っ!!!」
「ご苦労さん。なめしの黒甲冑てのは、本当におめぇらには見えねーようだな。どいつもこいつもこうもあっさり」
見上げると大剣を肩に担いだ男が見下ろしていた。
柄から抜かれた抜き味の剣はブロードソード。幅がラドの頭ほどもあるシロモノだ。
「じゃ俺はこいつを頂いていくぜ、お前はあの世で後悔しな」
青白い明かりに照らされた男は白目を妖しく光らせて、やあと剣を振り下ろした!
「ちょっ! わわわっ」
ラドは這いつくばった体勢から、転がるように避けるが、そこは向こうが上手でその動きに合わせて剣先が追ってくる。それがしっかりラドの目に入る。
余りに突然のことで全身が粟立つ間もない! ブロードソードはまるで重さを感じない速さで頭の上に落ちてくる!
「あーーーーーーー!」
もう悲鳴しか出ない!
あっさり過ぎる終わりを覚悟したが、ギャンンンンンの打音とギラつく刃紋がスレスレ自分の額の上で止まっている。
遅れて、ブゥオォォォと分厚い鋼が身を震わせる唸りが聞こえてきた。
そして背後の石槽が、パッカリとひび割れそこから滲み出た培養液が背中に染みてくる。
「くぁぁぁーーー、しびれたーーー」
男が右手を柄から離しハグハグ。
軽く一刀両断にしようとして、ギリギリ剣先がラドの背後の培養槽の縁に当たったのだ。
石でよかった。これがガラスだったら軽々と破壊されて死んでいた。誰だか知らないが培養槽を石にした美的センスのカケラもない錬金術師に感謝する。
「こんのガキ、うまく逃げやがって」
そんな勝手な文句を!
正気を取り戻したラドはあたふたとブロードソードの影から抜け出す。どこかに逃げられるわけではないが此処よりマシだ。
「小僧、どこに行く気だぁ~」
手をジンジンとさせていても喋る口調は余裕そのもの。いつでも何処でも殺れる自信があるのだ。
男は大またでのしっと一歩を踏み出しラドを追い掛ける。
男の一歩がちょうどラドの三歩だ。
それでも懸命に逃げる。
どこに、どこにっ逃げる! とにかく一旦まかなきゃいけない。使える武器は知恵と小さな体だけだ。うまく隠れて一度でも敵の死角に入れば、見つけるまでの少しは時間が稼げる。
ラドは身を低くとり、するっと石槽の蔭にかくれると余裕をかまして距離を取った敵の死角にうまくはいる。そして物陰から偶然ポケットに入った石槽の破片を遠くに投げた。
「そっちか、小僧」
敵がそなたを向いたところで、また死角から死角へと飛ぶ。
幸いここは身を隠すところが多い、明かりも暗く一度見失えば簡単には見つかるまい。
なんとか敵から一定の距離を取れたが、それはまさに束の間の休息に過ぎない。
とりあえず素手はムリだ。武器がないとヤツは倒せない。倒せないとイチカを助けられない。
武器になりそうなものはないのかと辺りをきょろきょろ探すが、ここは育成棟であり武器庫ではない、そんな都合のよいものなどある筈も――。
ラドの目が一点にとまった。