魔法創
『目が覚めたか? ラド殿』
凛々しくも優しい声に導かれて目を開けると、そこはふかふかの雲の上だった。
包まれるような肌触り。
懐かしい暖かさ。
とろけるような甘い香り。
ここは……どこ。
『おっと、寝返りをうつなよ。背中はひどいものだ。せっかく治りかけてきた皮膚がまた剥げてしまう』
もやのかかった頭では何を言われているのか分からなかったが、動くなと言われたことは理解できた。
言われて体に意識が向くと、失っていた感覚が急に蘇ってくる。
痛い!
何処と言えず全身が刺すように痛い。
「うっう!」と、自然に声が出た。
『やはり痛むか。いま医者を呼ぶ。レジーナ、ラド殿が目を覚ました。医者を呼んでくれないか。アヘンを使いたいのだ』
『本当ですか! よかった。お医者様を連れてきます。皆さんにもお知らせしますね』
『済まない、頼む』
体がふわふわする。
ここはどこだろう?
天国かな。
いや、こんなに痛いんだ、きっと違う。
でもどこか、とても良いところ……。
足音……。
遠くからバタバタと近づく音がする。
ああ、アキハ……。
すぐにわかる。ガサツさが足音にまで出ているから。でもアキハの足音は好きだ。安心する。
『ラド! 起きたの!?』
世界を包むベールが勢い良く開かれ、眩しい光が入ってきた。その向こうに濃緑色のスカートが見えた。
顔が見たい。でもうつ伏せで首が動かないから見えない。
アキハが雲の端に手をついたのだろう。それに合わせて雲の絨毯はふかふかと揺れる。
視界に入ってくるアキハの顔。
「ラド! ラド!!! わたし、わかる? アキハよ!」
分かっている。忘れるわけないだろ。
そう言おうとして体に力を入れて、また痛みに顔が歪んだ。
意識が戻るにつれ痛みは明確な形をもって、襲い掛かってきた。
声を出すのは無理だ。しょうがないので口の形だけで「アキハ」と伝える。
「そうよ。アキハ。わたし……」
そこまで言って、アキハの顔は涙に歪んだ。
いい大人が、ひっくひっくと声を殺して泣いている。
その横に誰かが立つ。
「よかったな。アキハ」
凛々しい声は天使じゃなくて、ロザーラだったか。
「火傷がひどくて動かせなかった。それでも運良く噴水に落ちたのだ。アキハが助けてくれなかったら、ラド殿は多分、死んでいたぞ」
火傷? 火傷ってなんだ……。
ぼんやりと、だが確かに眼前に迫る火球を思い出す。
あれは……そうだ。火の魔法の標的となり直撃を受けたんだ。
けど生きている。普通なら黒焦げになって死んでいるのに。
そうか、だからアキハが助けてくれたと言っているんだ。アキハがいてくれて本当に良かった。
感謝を伝えたくて声にしようと、また口をパクパクする。
「あ……り、が……と」
その続きは痛すぎて口も動かないが、『アキハには助けられてばかりでごめん』、そう言いたかった。
だがアキハはそれを聞いたように、首を横に振る。
「違うよ。私のせいだから。私がダメダメでラドが頑張んなきゃいけないから」
また、ぽろぽろと泣き始め、もう後半は何を言っている分からない。
『なんで、そんなに泣いてるんだよ』
「わたしバカでラドに甘えてばっかで」
声にならないのに、アキハとは通じる。
通じ合うくらい、この子は自分の事を大事に思ってくれて、それと同じくらい自分の無力を責めている。慈しみに胸がかきむしられる。
「ラド殿は十日も目を覚まさなかったのだ。その間、アキハはつきっきりで看病をしてくれていた。最初の三日は熱もひどくて、アキハは一睡もしてない」
本当にバカなヤツだ。バカ……。バカすぎて愛おしい。
手を伸ばして、茶色い髪を撫でてあげたい。僕は元気だと言って安心させてやりたい。僕が元気じゃないとアキハは悲しむ。僕が無理をするとアキハが心配する。
そんな負担をずっとかけてきたのだ。
だが腕は動かなかった。
うつ伏せの体勢でずっといたからだろう。全身がガチガチでまるで石を彫った体のよう。
カラカラの喉を駆使して音を出す。
「なく……な」
かろうじて出したカスカスの声に、アキハはいよいよ声を出して泣いた。
これじゃ逆じゃないか。
なんとかしたいが、動くのは目玉だけ。
「お医者さまをお連れしました」
「よろしく頼みます」
「大丈夫なの? ラド、また寝ちゃうの?」
「痛みを抑えるためだ。かなり辛そうだからな」
「わたしも心配ですが信じましょう」
何名かの女性の声が入り乱れて、雲の上の世界はいよいよ白いものに包まれていく。
それがレースのカーテンか煙なのかは、分からない。
分からないまま、誘われるように、また眠ってしまった。
次に目覚めたのは、さらに二日後だった。
「起こしてしまいましたか?」
魔法光の仄かな明かりに照らされた、しっとりとしたテクスチャの卵型の顔が、陰影をもって立体的に見える。
髪飾りの小さな宝石達が、キラキラと光を散らして頭の上で遊んでいる。
「よ…る?」
「喋れるようになりましたね。順調に回復しています」
落ち着いた雰囲気を漂わせて女性は小さく微笑む。
「あめ……おう……ひ」
「ええ、ここは私のプライベートルームです。安心してください。ラド殿は私が匿っていますから」
アメリーの声が途切れると、そこには夾雑物のない静かな時間が顕れた。
アメリーはまっすぐこちらを見ている。ラドも視点の合わない目を凝らしてまっすぐアメリーを見る。まるでピンと張られた糸のように。
「うなされていました」
ラドはゆっくり頷く。
自覚がある。長い夢を見ていた。
暗い森にいて多くの裸の男が黙々と歩いている。その誰もが目から鼻から口から火を吐いていた。
僕はハーメルンの笛吹きのように男たちを導く。意思もなく何処かへ歩く。
のそのそと、だらだらと、重々しく。
行く道の全てを破壊する。踏みつけ、瓦解させ、燃やし、消し炭にしていく。
僕の中にある圧倒的なエネルギー。
その力に怯えながら、だが燃え尽きて、木々も土も空も真っ白く無になるのを清々しく見ている。
気がつくと男たちは、燃える手で僕の手足を掴み引き裂こうとする。
灼熱の手を払い、掴まれた手足を振りほどく。掴まれた所は火傷で爛れ、骨まで見えて崩れ落ちる。
だのに僕はどこまでも彼らと共に歩く。
その夢の繰り返し。
まるで無限地獄だ。だがそれは夢。
夢だよな。本当に夢なのか。
そう思い痛みに堪えて我が手を見る。
肌色の血の気をもった小さな手。ただそれだけのことに安堵し、肺の底から深い息を吐き出す。体に淀んだ重苦しい疲れが喉を締めつけながら外に出てきた。
「どうしましたか?」
「手…です」
「そうです。手です。偉大なことを成し遂げてきたあなたの手です」
アメリーの声が温かい。昼間の彼女は冷たく話すのが常だ。優しい響きを帯びるのは夜がさせるのか、間際から生還した者を思うてか。
だが優しく言われても、この手が素敵な未来を作ってきたとは思えなかった。
アメリーは小さな手を両手でそっと挟んだ。ほっそりとした指先は、この世界では見たことがないほど手入れが行き届いており、爪も皮膚も白く煌めくほどに輝いている。
暖かく包み込む心地に、次はどんな優しい言葉をかけてくれるのだろうと思ったが、アメリーはそれ以上優しくはなかった。
「でも、まだまだです。皇衛騎士団長も、王立魔法研究局長も、あなたにはやらねばならぬ事がたくさんあります。早く良くならなければなりません」
これが身動きも取れぬ者に言う言葉かと一瞬ぎょっとするが、すぐにアメリーの立場が言わせる言葉だと分かり心が痛くなる。
ゆっくり休めと言えば偽善になる。誠実であることが彼女の優しさなのだ。
ラドが悲しく笑ったのが分かったのだろう、アメリーは「ごめんなさい。こんな言い方で」と枕言葉を添えて、「ラド殿が無事で本当に良かった。私にとって戦中一番の朗報です」と言い直す。
無事と言われても、十日以上も意識を失い、身動きも取れない。そのうえアヴェリアは……アヴェリアはどうなったのだろう。
「アヴェリア…は」
アメリーは話していなかった事に、はっとして説明をする。
「逃げおおせました。アキハさんが全てを話してくれました。家政婦に扮したアヴェリアはワイズ卿と通じており何かを画策していたと。その証拠を探しにラド殿がワイズ卿の書斎に忍び込んだことも」
アメリーはラドが目で続きを言うように促すのを読み、言葉を続ける。
「事は内密に処理しています。ラド殿の内調も、ワイズ卿の何らかの計画も、アヴェリアに奪われた王家の証も。ラド殿はこの件には絡んでいない事になっています。アンスカーリ公すら、その事を知りません」
さすがアメリー王妃、正しい判断だ。政治的権力の再配分として、王族は正しく機能している。
ガウべルーア王国は、アンスカーリとワイズの二大派閥の鍔迫り合いの中にある。
その環境下、アンスカーリ派の自分がワイズの悪巧みを暴き、それが帝国スパイに繋がると分かれば、アンスカーリは容赦なくスタンリー・ワイズを蹴落とす。
なぜアンスカーリがそこまでスタンリーを嫌うのかは分からないが、その悲劇が現実となれば王国の分断は決定的となる。
そしてアンスカーリの力が強大になるほど、王家転覆の内戦が勃発する可能性が高まる。
アヴェリアの王宮潜入もそれを狙ったのだろう。大貴族が混乱すればその間隙を狙ってシンシアナは攻め込むことができるのだから。
まずは回避できてよかった……。いや回避できていない。逆に隠蔽したせいでスタンリー・ワイズの企みはまだ残っている。このまま放置はできない。
「アメリー王妃、スタンリーはシンシアナと繋がっています」
アメリーはネグリジェのようなひらひらのナイティを丁寧に折ってベッドの横に置かれた大振りな装飾椅子に腰掛けた。
「分かっています。魔法鋼がムンタムで生産されていることが確認されました。ガウベルーアの技術がシンシアナに流れているのです」
ムンタムで? 魔法鋼の魔法陣は門外不出なのに。
「思うにムンタム略奪の目的はそれだったのでしょう。あれ程のコストをかけてムンタムの奪ったのは、領土や食料だけではなかったのです」
何たる計画性。
恐ろしいほどに冷徹に戦略が立案されている。
そして損失を恐れない大胆な実行力。こんな事ができるのはシンシアナ広しといえど――
「皇帝が動いているのでしょう。これほど用意周到なのですから」
その通りだ。そして事はシンシアナ皇帝の書いたシナリオ通りに進んでいる。
ということは、早々ムンタムを奪還しないと事態は時間が経つほど深刻になっていくということではないだろうか。
「アメリー様。苦しい決断ですが、いかなる犠牲を払ってもムンタムを奪還しないと。国王陛下に進言を……」
だがアメリーは悲しげに首を振る。もうその嘆願はブルレイド王にしているのだろう。王妃に貴族会議での発言権はほとんど無いが、議場の外では王と話すことは出来る。
そこでアメリーは、この件を話しているに違いなかった。
それでも悲しげに目を伏せるのは、その努力が徒労だったということ。
「フォーレスでは無理です。フォーレスは……」
アメリーは躊躇う。そして、能面の内側で何らかの激しい葛藤を経た後、喉のつかえを押し出すように声を出した。
「彼は王には向いていないのです。フォーレスは優しすぎます。厳しい決断ができない。それが怖いのです。彼の優しさが、いつか誤った道を選ばせるのではないかとわたくしは思うのです」
この告白に何が言えるだろうか。だがこんな死に損ないに心境を吐露しないとやりきれないほどに、アメリーは現状に打ちのめされているのだろう。
「大貴族は狡猾です。だのにフォーレスは曖昧な決断をしてしまう。アンスカーリは派閥の安定を求めます。そして己が亡き後の安穏たる世界を描いています。その世界に臣民はいません。ワイズは野心が強すぎます。好戦的で北の脅威を打ち払う力を手に入れようとしている。
危うい力学の中にいるのに、フォーレスは二人が揺らす振り子が命ずるままに騎士団を動かしてしまう。ムンタム派兵もそうです。昨年の会談もフォーレスの意思ではなかった。フォーレスには公正な立場から諫言できる者が必要でした」
非難と同時にアメリーが王を愛していのが痛いほど伝わってきた。自分の心がアメリーと共振して、痛みとなって伝わってくる。
ラドは痛みを堪えて手を伸ばす。そしてアメリーの膝の上に手を置いた。
「ならば、かならず、ぼくが……」
そう伝えてもアメリーは、いつぞやのように笑顔になってくれることはなかった。