雪崩打つ
「奇襲成功の報です!」
山頂の凍るような寒さにも負けず、エマストーンを握り締めた魔法兵が元気よくラドへの報告に来る。
「ありがとう。それは朗報だね。下がっていいよ」
ハイの返事も小気味よく持ち場に駆け戻る兵を見送りつつ、ラドはティレーネに語りかける。
「ここまで作戦通りかい?」
「ええ、でも状況の仔細は分かりません。もし大成功ならライカ大隊長の差配の妙でしょう」
「謙遜だねぇ。なんでシンシアナは裏を読むと思った?」
瞳を覗き見て問うラドに、ティレーネは恥ずかしそうに答える。
「雪だるまの兵を見たあとです。敵は疑り深くなっていると思いました。雪面の動かぬ剣の反射は手練なら一目瞭然でしょう。ならば企みがあると考えるのは自然だと思ったのです」
「大分自信があったようだね」
「? そんなことは……ないですけど」
「キミは確信がある時はスラスラ喋るようだから」
ティレーネは目を丸くして両手で口を押さえる。そして僅かに顔を赤らめた。
他人の思考を読む力を褒められた本人が、いとも簡単に得意になっている心を読まれたのだから、当然と言えば当然の反応だ。
「照れるのは早いよ。ここからが本番だ。下ごしらえに満足して手を止めるようでは料理人とは呼べないからね」
「はいっ!」
奇襲の失態を冒したゲニアは全軍を雪原に留め、休憩を取らせていた。
クールダウンには時間が必要だ。冷静さは時を味方に付けねば得られない。
そして今、最も時間を必要としているのは自分。
『軍を立て直さんと欲すればまず将から』
立て直すべきは己の心だ。
雪原にあぐらをかき、三十分ほど一人の時間を取る。
真っ先に浮かぶ後悔は、怒りや驕りから冷静さを欠いていたこと。こんなメンタルで追撃をすれば罠にかかるのは当然だ。
雪原に刺さるガウべルーアの剣を見る。
「この程度の偽装で騙されるとは……」
戦闘中の敵が武装を捨ててまでしてやる事なので、過大評価してしまった。
ゲニアは雪原に刺さる剣を引き抜く。
「軽い、この薄さでシンシアナの剣と互角か」
森で斬りあった半獣兵とのやり取りを思い出す。
早かった。今までのガウべルーア兵にはない別次元の機動力だった。あの鋭さはこの剣だからできる技か。
この剣があれば我々も更なる強さを手に入れるだろうか。いや慣れぬ事は考えるものではない。それで失敗したばかりではないか。
武器の強さではない。ようは相性だ。この剣と半獣兵の相性は抜群に良い。半獣兵と魔法兵の相性もだ。もし敵が連繋して奇襲していたなら我々は大損害を被っていただろう。
だが敵はその選択をしなかった。
何故なら奇襲の後が続かないからだ。
奴らは持久に弱い。速さと打撃力はあるが長期間戦えない。
たから持久となる雪の長城を捨て、打撃力を活かせる杵の峰の高所を取りに行った。圧雪の跡が山に続く事がそれを物語っている。
ならば下手な小細工はしない。だが油断もしない。信じるべきは自分達の粘り強さ。
体力と胆力を活かして堂々と勝つ!
ゲニアは徐に立ち上がり、ぬぉーと雄叫びを上げる。
「将を集めろ、我々は杵の峰に向かい敵と正面からやり合う!」
「敵、来ます」
通信兵がエフェルナンドに報告する。
ここは夫婦杉の分岐を左に折れた、少々木々の空いた森の切れ目だ。前日にダーバラン隊が混成部隊が動きやすいように地ならしをしたコンバットゾーンでもある。
「やっとかよ、待ちくたびれたぜ」
「魔法兵に準備の指示を出しますが、よろしいでしょうか」
「任せた。もうやる事はやってる。俺の出番は――」と言ってエフェルナンドはパチンと指を鳴らす。
「号令を出すだけさ」
エフェルナンドは考えていたであろう決めゼリフを吐くと通信兵の尻を叩いて「頼んだぞ」と送り出す。だが笑顔の目元にはクマがあった。
エフェルナンドが疲れるには、疲れるだけの訳がある。
ラドは『戦う前に勝敗が決まる』と常々エフェルナンドに言っていたが、その戦う前の準備を実地でやったのだ。
隊列の組み方、移動の練習、詠唱の速度まで事細かに全兵と合わせる。挙句に撤退の順番まで二百五十名全員に割り付ける程の徹底ぶり。
たかだか数撃の魔法を食らわせるために、これ程準備に時間を費やした事はエフェルナンドには無かった。
だが準備した分、感じる不安が違う。
そして準備に参加した兵の安定度が違う。まるで今晩の夕食のうさぎでも狩りに行くようなゆとりがあった。
――確かに自分が何をすればいいか分かっているのは大事だよな。
言われた事をやってみてエフェルナンドの内面には変化が生じていた。
アズマ団長には、この方に付いて行けば間違いない『威厳』があった。だがそれは依存であったとも思える。
ラド連隊長は、目標と作戦は与えるが後はお前らが役割を果たせという『目標管理』を用いる。
今回自分に与えられた目標は、「兵を危険に晒さず」「出来るだけ多くの敵兵にファイアバレットを被弾させ」「最終作戦に間に合うように持ち場に戻る」の三つだけだ。
その目標を達成するために、リレイラとティレーネで具体的な作戦を立案した。
「敵、目標木に到達! 射程に入ります!」
木の上にいる監視役の斥候兵のサインが次々と伝達されて届く。
「よし! イーブンライン詠唱開始! 二秒後にオッドライン詠唱!」
声をかけると踏み固められた雪面にくの字に展開する魔法兵が一斉に詠唱を開始する。
百名以上が同時に詠唱しているというのに、呪文が一つに聞こえる!
これぞ訓練の成果!
詠唱がズレないようにするには反復訓練だけでは難しい。そこで呪文のポイント、ポイントに手振りを入れて、各々の魔法兵が自分の詠唱が合っているかズレているかが分かるようにした。
またコンダクターという詠唱はせず手振りで詠唱タイミングを合わせるリーダーも用意している。その成果がコレだ。
――美しい。
まるで混声合唱団だ。
詠唱終了と同時に、一斉にファイアバレットが魔法兵の手元から飛んでいく。少し離れた自分の場所から見ると、それはまるで雪原に開く菊の花弁のように思える。
半包囲され逃げ場を失ったシンシアナ兵は、魔法の一斉攻撃に混乱に陥り、我先にと魔法弾を避ける。だが避けても魔法は二方からやって来る。しかも二秒の時差をつけて次弾も隙間なくやってくる。だから避けるのが難しい。
「もう一度いく。ラインを変えつつイーブンライン詠唱開始! 三秒後にオッドライン!」
戦列歩兵による完全同時の時差攻撃はガウべルーアで一度も取られた事のない戦い方だ。
その効果は絶大で、敵の被弾率が全く違った。本当に連隊長やティレーネが言うとおり、同時だと逃げられないのだ。
その事実に攻撃を仕掛けたのは我々だというのに愕然とする。
――今までバラバラと攻撃していた戦いは何だったのだろう。
それでもシンシアナ兵は上着を脱いで火の魔法の防ぎ対応し始める。
あれはゾウフルの毛皮を仕込んだ対魔法防寒着だ。ゾウフル毛皮ならばファイアバレットの一撃ごときで火だるまにはならない。
だが、そんなことは折り込み済み。最終目的は別にある。
「イーブンライン撤退! 杵の峰へ向かえ! オッドラインも後に続け! コンバットゾーンを外れたら足場に注意しろ! 踏み外せば雪に埋まるぞ。埋まっても助けは来ないと思え!」
どいつもこいつも練習通り見事な隊列を作って撤退していく。この撤退だけで何度練習しただろうか。
かつての自分ならば、この撤退は早いと言っただろう。だが敵がこちらに迫れば隊列は崩れる。そうすれば一斉攻撃は出来ず、いつもの混戦状態となる。そんな乱戦の二百五十名など、ただ死に急ぐ命に過ぎない。
それが分かるから、とっとと撤退する。
追いかけようとするシンシアナ兵が、ズボズボと雪に埋まるのを見つつ、我々は楽々と撤退に成功しラド連隊長と合流を果たす。
負傷兵ゼロ、多くの敵にファイアバレットを当てて、時間通りにラド連隊長の元に参集する。
これで魔法兵二百五十のミッションは完了だ。
尤もシンシアナもほとんど被害はないだろう。それでいい。それが作戦というものだ。
ゲニアは杵の峰に至るまで道中で敵の攻撃を覚悟していた。そのためエフェルナンドの攻撃に焦ることは無かった。ただ敵の余りに整った斉射に驚きはした。
皇軍兵も慣れたもので、初弾には慌ててバラバラな回避行動を取ったが、すぐに回避はむしろ危険と悟り、雪中行軍衣を脱いで魔法を受ける対応を取った。
不意の流れ弾に当たれば仲間はタダでは済まない。ならば見据えて魔法攻撃を受ける方が全体としては被害が少なくなる。そのための雪中行軍衣でもあるのだから。
早々に退却する敵を見て、追撃に移ろうとする兵を諌めて止める。
敵の一撃離脱は先ほどと同じ作戦だ。ならば追っても意味はあるまい。
どのみちこの先で奴らは構えを取っている筈。
「深追いはするな、敵はこの先の斜面にいる。そこで仕留めればよい」
ゲニアはガウベルーアの斥候兵に気を配りつつ足を進める。
するとついに杵の峰の西斜面の中原に出た。
自分はここらの地理には詳しい。雪が深くなる前に、何度も訪れて地形偵察している。西斜面の中原は夏は野花が咲き乱れるお花畑だが、冬は雪溜まりとなり隠れるに丁度よい場所となる。斜面は急なので木々は僅かな低木しかない。それが明るく華やかな野原を演出している。
その斜面のまだゆるい吹き溜まりに、半獣兵と魔法兵の一個中隊が待ち構えているのが見えた。
「一段目---! こうーげきーーー!」
敵隊長とおぼしき声が冷たい空気に乗って直接耳に刺さってくる。同時の一列に構えた半獣兵が飛び出してきた。
背後からは三連の火の魔法攻撃。これは初見の新魔法だ。
魔法弾が初速も早く三方向に発射されるので、多人数の魔法兵が攻撃を始めると射線がクロスし避けるのが非常に難しくなる。
――連携攻撃。ここで仕留めるために新魔法も投入してきたか。先の魔法攻撃で雪中行軍衣を剥ぎにきたのはそのためだな。
だが外套だけではなく中着にもゾウフルの毛は入っている。一、二発の被弾なら致命傷にはならない。
「攻め込め! 本体は奥にいるぞ!!!」
友軍を鼓舞し足を進めさせる。
飛び出てきた半獣兵の先頭を走っている猫には見覚えがある。雪原で自分の横を通り過ぎたヤツだ。
早かった。風のように早い奴だった。そして武人なら分かる。あいつは半獣兵の隊長級の奴だと。
「あの猫は俺が倒す!」
部下に告げて、手持ちのナイフを猫に投げる。
あわよくば当たることを期待するが、殺気に気づいたか、猫は腰の辺りから取り出した白銀の武器でナイフを払い落とす。
目がいい。雪の白さで飛び道具は見えにくい筈だが、的確に危機を察知している。
向こうもこちらに気が付いた。
どうやら自分がこの隊の将と気づいたのだろう。隣のガタイのいい獅子獣に何かを言伝てるとこちらに向かって来る。
最初に口を開いたのは向こうだった。
「おまえ、この部隊の親分だな」
「しかり。貴様は半獣兵の将か?」
「しょう? なんにゃ? ライカは皇衛騎士団だぞ」
何やら話が通じん。やはり半獣は知能に劣るか。だが強いのは間違いない。
「雪原の奇襲は見事だった。まったく嵌められた。だが今度はそうはいかん。シンシアナが貴様らに劣らぬと証明してやる、一戦! お相手願おう!」
「お相手なんかしないぞ、おまえ強そうだし、戦ったらライカが負けそうだ」
何やら調子が狂うと思えば、この声、女か。
ならば一層負けられん。拒絶しても敵とは斬りあう!
ゲニアは居合で剣を抜く、だがライカは左腰のショートソードを半身出して刀身を受け、バク宙して衝撃を吸収する。
「おっとととと」
「よく受けた!」
「急に来るな! あぶないだろ!」
ちらりと後ろを見るライカ。
「次はそうはいかん!」
ゲニア、踏み込みの突き!
足場が悪いなかでの突きは避けにくい。受けるにも面の小さな突きはガウベルーアの小さな剣では不利だ。ゲニアはそれを織り込んでいる。
だがライカは女子体操の平均台のような華麗なバク転で避ける。
そんな突きを続けて二撃。
「その身軽さ、まったく器用だな」
「褒められてもうれしくないぞ! 死んだらどうするにゃ!」
「その軽口はいつまで続くか!」
ゲニアがじりっと一歩詰める。
「もうあぶないから、止めたほうがいいぞ」
「そうはいかぬ。我々にも我々の大儀がある。危険は百も承知。それが皇軍の役割だ」
「役割より命の方が大事だろ。やっぱり引き返した方がいいにゃ」
「この戦で武勲を上げねばならぬ! いざまいる!」
ゲニアは腰を落として斜めに降ろした剣に力を込める。だがそれはフェイク! 剣先で雪面を引っ掻きライカに雪煙をあびせる。視界が曇ればたとえ身軽な半獣兵でも判断が遅れる、その隙をつけば腕でも足でも一撃が入る。痛みがあれば素早さも落ちる!
「にゃぁ!」
急に雪をかけられて目を覆うライカ。寒さに耐えられるパーンでも雪を浴びせられれば条件反射で目を閉じてしまう。
「そこだぁぁぁ!!!!!!」
と言ったきり――ゲニアの一撃は飛んでこなかった。
雪煙が晴れたあとには、前のめりに雪に埋もれて大の字に倒れ込むゲニアがあった。
「だからいったろ。そこは足場がないんだって」
ゲニアは急いで立ち上がろうとするが、すっぽり雪に埋まった体は宙を掻くのみで簡単には抜けない。いくら力があっても足場が無ければ、身動きが取れないのだ。
敵が戦闘不能になったと見極めたライカは視界を左右に開く。
戦いの間に戦線が大分上がっている。作戦通りパーン兵は敵の攻撃を押さえながらじりじりと下がることに成功しているのだ。
峰の上を見てもまだサインは上がっていない。
「まだ時間があるか。ライカが一番下だな。じゃ遅れた兵を拾って山登りする――」
「皇軍!!! 足元を見よ!!! ガウベルーアの撤退路がある、踏み外すさず追撃しろーーー!!!」
「うああ、こいつ! 余計なことを!」
だが雪に埋まった敵将の口封じに留めを差しに行けば自分も雪に埋まってしまう。ライカはお喋りな敵将を放置するしかなかった。
その頃、杵の峰の山頂付近では。
「連隊長、ほぼ時間通りにシンシアナ来ました」
「おおー、すごいな。時間までティレーネの読み通りだ」
ラドとティレーネ、リレイラは西斜面、中原の山頂部で戦いの趨勢を見ていた。
「影の長さより現在、想定午後二時。天候は晴れ。気温も緩んでいます。敵の多くは雪中行軍衣を脱いでいます。ティレーネの想定どおりの状況です。なぜティレーネは未来が分かったのですか?」
感心げなリレイラ。
「天候はここらへんに住んでいれば山の機嫌で分かります。敵の武装は作戦が成功している報がありましたし、この気温ならば敵は邪魔になる焼けてボロボロの雪中行軍衣を置いてくると想定できました。時間は歩測から。雪原の奇襲のあとは彼らは迷うことなくココにくると想定していました。もう二度と罠にかからない意気込みになってると思いますから」
「想定ね。どこでそんなスキルを?」
「私の前のご主人様が、気まぐれな人でして。機嫌が悪いとぶたれるんです。ですから今日の出来事を皆から聞いてご主人の気持ちを想定して――」
気恥ずかしそうに鼻の頭を指先で掻いて俯くティレーネがなんとも寂しそうで、ラドもリレイラもその先は聞けなかった。
人が得る能力やスキルは、本人が選んで鍛えられるモノばかりではない。不幸の中で生きるために鍛えられる能力もある。
『好まざるスキル』だったとしても、スキルは必ず意味あって獲得するもの、いつかは誰かを救う力になる――なんていうのは厳しい世界を生きるために自分を騙す詭弁だ。
前の世界でもラドはそう考えてシニカルに考えていたが、今般、ティレーネが持つ『好まざるスキル』がこの窮地を救うのをみて、スキルは欲する者の元に降りて来る加護かもしれないと思えた。
それは魔力が無かった自分にも当てはまる救いなのかも知れない。
「辛かったね」
ラドはそれだけを言って、雪の階段に座るティレーネの頭を撫でる。
「あっ、いえ、そんなことは」
「僕みたいな子供に撫でられるのは不愉快だろうけど、こうして色々を受けとめて生きて、僕の元に来てくれてありがとう」
「そんな、私こそ皆さんのお役に立てて嬉しいです」
ティレーネは哀愁に満ちていた顔をほころばせ、ブンブンと頭を振って話を続ける。
「あ、あの! わたし騎士団に入って魔法局にあった戦闘記録を読みました。シンシアナは伏兵と攻城戦を嫌います。遠距離攻撃に利があるからです。同じ理由で高所を取った戦いではガウベルーアは有利な戦いをしています。そして我々もそこに利を見出しています。ですからこの局面では敵はこの峰の登頂付近に大戦力があるだろう事を予想している筈です」
「思い込みを利用するのですね」とリレイラ。
「はい、彼らはある程度我々を追い込んだ後は、包囲作戦に移行するでしょう。高所は有利ですが逃げ場がない。我々が食料や物資を持っていないのも知っています。持久に活路はないと知っているのです。そのため脱出を阻害する包囲を作るため軍編成を整える筈です。その停滞が雪だるま作戦の狙い目です」
この前まで農奴だったとは思えない鋭い分析をする。この子はもともと地頭が良かったのだ。だが環境に恵まれなかった……。
「それを見越して高所を取る雪だるま作戦に至ったのか」
「はい、止まれば狙いが付けられますから」
淡々と答えて奢りがない。だがリアルな戦いを知らないのも伝わってくる。
「キミは優しい子だね。だから僕はキミの作戦はちょっと変えさせてもらったんだ」
「えっ? あ、あの連隊長、どういうことでしょう」
「詰めが甘いんだよ。シンシアナほどの強靭な兵が上から落ちてくる雪だるまごときで混乱しないだろ」
「で、でも戦いは有利に……」
「この戦いは北進騎士団の解放が目標なんだ。そのためには敵に引いてもらわなくちゃいけない」
「ええ、分かっています」
「分かっていないと思うよ。ここからはキミに任せられないから僕が指揮を執る。ティレーネは一切口を出さないでくれ!」
ラドはティレーネの肩をポンと押して突き放す。ポカンとするティレーネは拍子に雪の階段からお尻を滑らせ横に倒れるのだった。
「リレイラ、指揮権が移行した。状況報告。敵の距離はどうだ?」
「だいぶ近づきましたが敵はまだ四線手前です」
「一線から四線の混成部隊とパーン部隊は?」
「偽装退却を開始しています。現在五線です。敵からは攻勢に耐えきれず上に逃げているように見える筈です」
「よし、敵速度は?」
「分一ホブに上がっています」
「想像より早いな」
「我々の撤退路がバレたようです」
撤退路とはラド達がここに来たときに、踏み固めた山頂に向かう直線の足場だ。夜に雪が降って見えにくくなっているが、ここの上を歩いていれば深雪に埋まることはない。逆に言うとココ以外はとても歩ける状態ではないと言うことだ。
「ちょっとマズいな、計算し直す。一線約三ホブ。五線からここ頂上の十線までは十五ホブある。友軍の脚力が分八十スブ登坂だからココまで来るのに十九分、敵は十八分か。あれ? ダメじゃん! 今すぐ全軍の撤退命令を出さないと九線目で追いつかれちゃうよ」
「あ、あのっ」
ティレーネが声を出そうとするのをラドは無視する。
「最後でしくじった。リレイラ! 照明弾を上げろ、全員に撤退命令を出す」
「承知しました!」
リレイラが高速詠唱を開始すると、十秒もかからず魔法照明弾はネズミの尾を引いて空に上がる。そしてカッと光ったかと思うと轟音を発して爆発した。
以前行ったスラスト用の空気圧縮機を暴走させたのだ。
その爆音にシンシアナ兵は一瞬足を止めるが、天を仰ぎ見て何もないのを確認すると、また追撃を再開し雄叫びを上げて走り出す。
「敵の大型魔法は失敗だぞ! 攻めろ攻めろ!!!」
ほうほうの体で逃げる魔法兵を見て、シンシアナ兵は大喜びである。
みるみる敵大軍が迫ってくる。その景色は逃げる友軍もだが、上で待つ点火係も恐怖である。なにせ巨漢が煌めく武器を振るって迫ってくるのだから。
「師匠、トラップは発動しない可能性があります。私達は上に」
「いや、ここにいよう。将が動けは軍が動揺する」
「しかし……」
「もしも時は全力で突破して長城まで逃げる。その指揮を執るから僕はここに居なくちゃいけない」
そんな事は出来ないと知っているリレイラは顔を曇らせるが、目力も強く撤退状況を確認するラドを見て諌言は無理と諦める。ここで変心するような人なら、連隊長などやっていない。
「わかりました。では私もここに残ります」
ラドは左右に並ぶ点火係りに声をかける。
「さぁ、ここからが勝負だ。みんなロープを持て! 仲間達が戻ってきたら、みんなでこのロープに魔力を流す。一気にだ!」
誰もが神妙な顔でロープを握る。そして一人一人と逃げてきた兵も早いものからロープにたどり着き、しっかり自分のロープを結び付けて行く。
目測線は一番足の遅いジャンセンという女性の魔法兵に合わせている。だから計算上は全員が規定時間でロープに到達するはずだった。だが先ほど撤退路がバレたせいで、その計算は狂っている。そしてあって欲しくない事だが予想通りジャンセンは遅れていた。
「ジャンセン! 走れ!!! もっと早く、もっと!」
「た、隊長ーーー」
ジャンセンの声はまだ大分下にある。
火の魔法を何度も使った体力で急峻な雪原を武装したまま何分も走るのは、健康な男子でも想像以上に過酷な行動だ。
「ジャンセン! 武装を捨てろ! 排膿も剣も捨てるんだ」
先に上がってきた仲間達が、ジャンセンに対して同じ事を言う! ラドも声を張り上げる。
「ジャンセン! 連隊長命令だ! 一度足を止めてもいい、荷物は全部捨てろ!」
「ダメです、私のために支給してくれたんですから」
「バカ! そんなもん幾らでも作ってやる! 僕は誰も犠牲にしない! ジャンセンが来るまで作戦は発動しないぞ」
「やってください! もう無理です!」
ジャンセンはよろけながら走る、だがもう足が前に出ない。だが敵の手はもう背中まで来ている。
「ああもう、見てられないにゃ。イオ」
「はい!」
何名か遅れた仲間を引き上げて十線まで来ていたライカがストっと立ち上がり、ぴょんと飛んで屈伸を始める。それをみてラドにはライカが何をするか想像がついた。
「誰か魔法で援護しろ」
「は、はい」
「みんな! ライカとイオが出ると同時に作戦を開始する!」
了解の敬礼が左右を走って伝搬してく。
「カウントダウン! 三、二、一、発破!!! 行け! ライカ、イオ!」
「がってんにゃ!」
二人はジャンセンのもとに飛ぶように駆ける降りる。
ライカは走りながらイオに話しかける。
「イオはスキーって知ってるか?」
「スキー?」
「しゅにんに教えてもらったんだ。足に板をつけて雪山を滑るんだ。ライカはなかなかうまいぞ」
「やったことがあるの? ライカ」
「ああ、子どもたちとやってるぞ! でもちっこい子の方がうまいな」
「それを使うのかい? でもそんな板なんて」
「イオももってるぞ」
「えっ? えっ?」
「もうお話は終わりにゃ、あとはやるとき教える。イオは左をやれ。ライカは右にゃ!」
と言っている間にも、「だぁーーーー」の声も勇ましく、二人はほぼ同時にジャンセンに襲いかかる二人を蹴り上げる。蹴られた敵兵達は、上から襲いかかる勢いにもんどり打って倒れるが、その後ろには続く次のシンシアナ兵が待っている。その兵の目が驚愕に見ひらかれた。
「雪崩だ!!!!!!」
やっとのことで雪の中から助けられたゲニアはここに至り全てを悟った。
完全にはめられた。
ありえない可能性だった。だから考えもしなかった。
敵はこの斜面に真冬だというのに雪崩を起こす方法を思い付いたのだ。
雪崩を使って我々を一網打尽にする。その算段だったのだ。
だから四肢を傷つけ動きを鈍らせ、雪中行軍衣を脱がせた。
巻き込まれた雪崩から脱出させにくくし、動ける者をも凍死させるために。
真冬に雪崩……。その可能性を考えるべきだった。なぜならやつらは魔法使いなのだから。
ゲニアは地鳴り響く雪山の頂上を見上げ、力なく立ちすくんだ。
退却の声も出なかった。
雪崩の前では、もはや生存を決めるのは運しかない。
「ジャンセン! 手を出すにゃ」
その力強い言葉にジャンセンは無意識に、だが力強く手を出した。ライカは手早くジャンセンの排膿と武装をぶら下げたベルトを手裏剣の刃で切り落とす。
魔法鋼の剣が雪の中に消えるのを目で追うジャンセンを、ライカは肩が抜けるほどの勢いで抱き上げた。
「しがみつけ!」
引っ張られたジャンセンは持てる力の全てを振り絞りライカの背中に抱き着く。その圧を認めてライカは自分の左手に嵌めたバックラーを慣れた手つきで片手で外す。
そして雪面にぶっ刺し、
「イオーーー! こうするにゃーーー」と、大声でイオに呼びかけ視線を求めると、ジャンセンを背負ってバックラーの上に飛び乗った。
「えっ! えっ!!!」と、驚いたのはイオ。
「やっほーーー!」と言っのが早いか、ライカは猛スピードで斜面を滑り落ちていく。
「ら……ライカ、ちょっと! そういうのはやる前に教えろよ!」
あっという間の出来事にイオはぽかんと取り残される。だが上を見やると雪崩が怒涛の勢いで押し寄せてくる。もう見様見真似でやるしかない。
慌てて右手でバックラーを外し、見たように雪に刺して片足を乗せ滑ろうと試みる。だがそんなものパーンの運動神経でも一発で上手く出来るはずもない。
そんな苦戦をしているうちに雪崩は迫る。
「イオーーー、腰を落とすにゃ、バックラーと一体になるにゃーーー」
もう、聞こえるか聞こえないかの距離から声がする。
「できるか!!! こっちは必死だって!」
だが言われたとおり腰を落とすと、
「あっ、乗れ……うわぁぁぁーーー」
重さを受けたバックラーは、水を得た魚のように猛スピードで暴れ始める。
「ちょっとーーー! ライカーーー、たすけてーーー、おたすけーーー」
「にゃははは、イオうまいにゃ」
そうして三人は一気に杵の峰の西面を駆け下りたのだった。
下界には何名もの命を飲み込んだ白い悪魔が、茫漠たる白煙をあげて怒り狂っていた。
頂上に陣取ったラド達は雪崩というものを始めて肉眼でみた。
静の代表のような雪が怒り狂う姿は恐怖以外の何者でもなかった。
嵐にたけり狂う波濤が地響きを轟かせて、猛スピードで斜面を駆け下りていく。
アレに飲み込まれて生きて帰ることはできないだろう。
シンシアナを退却させるには、圧倒的な損害を被らせる必要があった。それはつまり可能な限り敵を殺すということ。
そのためには「雪だるま」などという甘っちょろい物ではなく、位置エネルギーを最大限に使う雪崩の方がよかった。雪だるまは点だが雪崩は面だ。威力は桁違いだろう。
騎士団の誰もが生唾を飲んで眼下に広がる悪魔の暴虐を眺めた。
当然だが皆、悪魔の腹の中を想像する。
春になればここには数多の死体が上がってくる。何千もの死体がこの中原に転がっているのだ。
その責任をラドはティレーネに取らせたくはなかった。
自分が立案した作戦が数千の命を一瞬にして奪う。きっとこの優しい娘はこの作戦の成功を称賛されるたびに、自分が作った屍の量に恐れ後悔するだろう。
こんな集団にいれば殺しは日常茶飯事だ。だが初めて戦い、初めての作戦立案で、千の命の重さをいきなり背負わせたくはなかった。
せめてその重さは自分が背負ってあげたい。
ティレーネは自分の作戦の功績を奪われた事に恨みを持つかもしれない。
それでいい。それが自分の仕事なのだから。
そんな自分でもこの戦いは重かった。
今までは降りかかる火の粉を払う戦いだったが今回は違う。意図して大損害を与える戦いだった。
『己が歩む道は死体の上に成り立っている』
その選択は思いの外、心に痛かった。
退却の誤用を修正。