プロローグ
夢見がちな少女に『お姫様願望』があるように、夢見がちな少年に『ナイト願望』があって、何がおかしいだろうか。
“剣と魔法の世界でドラゴン相手に戦う王国を救うヒーロー”
ファンタジーの王道! 鉄板ストーリー!
凪野尚もそんな熱き冒険に胸焦がす少年の一人だった。その想いは三十路を超えてなお……。だが人生とは分らないものである。
「ここ、どこだ?」
気がつくと尚は、薄緑の靄につつまれた見知らぬ土地に佇んでいた。霧はほのかで薄いのだが、なぜか遠く向こうを見通すことはできない。
視線を遠方より手前に落とすと眼前には大きな河が流れている。川幅は極めて広く対岸はやはり霧の向こうで何も見えない。
河岸は翠の瑞々しさを湛えた日本の原風景のようで、河原には大小の白石がゴロリところがっている。だが、ゆったりとした河の流れはガンジスのようで急峻な日本の河川ではない。
河岸を沿って見渡すと、遠くで何人もの子供がしゃがみこんで石を積んでいるのが見えた。その横には腕を組んだ赤い顔の見事な躯体のおっさんが一人。
「上半身裸ってボディビルダー? いや鬼?」
そのおっさんが子供の積んだ石めがけてボディプレス!
悲しそうにおっさんを見上げる子供。だがまた健気にも石を積む。
するとまたおっさん、ボディプレス!
「なんのプレイだ? 楽いのか? そんなに楽しいのか? それともあの赤鬼は悪質な○ープファンか?」
そんな異様な光景に目を奪われていると、横からしわがれた声がやってきた。
「聞こえるじゃろ。アレはあんたの彼女かいや? 向こう世界で泣いてるのは?」
尚は思わずその声の方を見た。
婆さんがいる。
川面に佇んで。
川面に?
浮いている!? 足が水面に着いていない!
「可哀想にのう。まぁいっちまったら仕方が無いが、そのうち彼女もお前さんの事を忘れるじゃろうて、ひひひひひ」
婆さんは老人とは思えない鬼鋭い眼光を外さず、ゆっくりと滑るように尚のもとにやってくる。尚は驚いたが不思議なほど素直に老婆の存在を受け止めた。そして言われるがままに耳を澄ましてみる。すると確かにすすり泣く声が聞こえた。この声は――
「彼女っていうか、秋葉は僕の幼馴染なんですけど」
「そうかい、そりゃ今日び残念じゃのう。だが泣いてくれる奴が一人くらいいてよかったのう。結構多いんもんじゃ、末期の別れを静かに旅立つ者もな。ひひひひ」
そこまで状況証拠を突きつけられれば、どう否定しても答えは一つしかない。
「もしかしてここって三途の川ですか?」
「正解じゃ」
「……」
「……」
「……でえええ、なんで!!!」
「死んだのじゃよ」
「じゃなくて、なんでココにいるんだよぉぉ! 僕は!」
「死んだ原因が分からんのじゃな、お前さんは運悪く頭の血管をブチっと」
「じゃなくて! なんで三途の川なの!? 僕のイメージだと死ぬときはワルキューレが迎えに来るはずだったのにぃぃぃぃ」
「なんじゃ、そっちかい!」
老婆は軽く裏手で突込みをかまし、あっけらかんと受け流す。
「軽く流さないでください! 大事ですよ僕にとって。だって行き先が浄土かヴァルハラじゃ大違いじゃないですか!!! 浄土なんて考えるだけで抹香臭い」
「お前さんは死んでから何を言っとる」
老婆は歩くでなくススッと尚の正面に立ち、骨と皮になった枯れ木のような手を尚の胸の上に置いた。
「どりゃ、お前さんの胸の中を見せてみぃ」
老婆は尚の胸の中に手をもぐりこませ、壺の中の宝物を探るようにグリグリとまさぐる。尚はVR映像のように手が体をすり抜ける非現実的な光景にビクリと体を硬直させるが別段痛みは無い。
「なるほど、お前の中にあるのは剣と魔法の世界なんじゃな。そこで大活躍して――ふむふむ。死の間際に超かっこいい女騎士が迎えにくる予定だったと」
「そうです! 羽冠なんか装着した」
「来んわ! だいたいお前さんは戦っておらんじゃろ」
「戦いましたよ! 企業戦士として!」
「戦いの矛先が違うわ。それにお前さん想像するようなビキニアーマーは若い頃のわ――」
「あ、いいです。その先は聞きたくないです」
尚は両手を老婆の前にかざして冷静を装って老婆を静止する。
「いや知りたいじゃろ」
「いや断じて知りたくないです。続きは聞いてはいけない気がします」
「言わせてもらうぞい! あれは若い頃のーぉぉ」
「あーーーーーーーーーーーーー!」
「わしのーぉぉ」
「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
聞かんとばかりに、大きく息を吸って声を張り上げる。
「どうしても、聞かんつもりじゃな」
だが息が続かない。次第に絞り出す声がかすれ、細り、遂に途切れる。
「ピチピチのわしじゃ」
「ヒドイ!!! ドイヒィ! いたいけな青年の夢を壊すなんて」
「なにが青年じゃ、お前さんもいい歳じゃろ、いいかげん夢から覚めい。三十一歳、独身、彼女いない歴三十一年、アニオタでミリオタで鉄オタ。巨乳好きで好きなAV女優は高――」
「やめてっ! それ既に地獄の仕打ちじゃないですか! 個人情報責めなんて八大地獄にもないですよ!」
「愚かよのう、そんな神代の頃のわしに憧れても詮無き事よ、どうにもならんわい」
「今のあなたには憧れてません! 僕の憧れはファンタジー世界の騎士になることなんです。オークやドラゴンを倒して王国を守る的な」
老婆は空中に片膝を立てて座り、繁々と尚の顔を眺める。
「そんなに騎士になりたかったのか?」
「もちろん! 今度生まれ変わったら僕は絶対モンスターを倒しまくります。そして成り上がって伝説の騎士になる!」
ぎゅっと拳を握って決意を表すも、「実社会でマネージャーにもなれなかった奴がか?」と、老婆の対応は冷たい。
「だからぁぁぁ、辛い過去と個人情報を原泉垂れ流しはやめてください! 出世は上司との相性だってスタンフォード大学の論文にもあるんですから!」
「それを言うなら掛け流しじゃ。それにスタンフォードだ? そういういらんことばかり知っとるから便利に使われて過労で死ぬんじゃ」
「ああ、やっぱり過労死だったんだ! でもでも、そのくらい僕は僕なりに一生懸命生きたんですぅ。なのになんで夢半ばで過労死だなんて」
「まぁ天寿を全うしても、夢半ばだったと思うがな」
「努力したら夢は叶うなんて嘘じゃないか! 文部省のバカ! シュウゾウさんのバカ!」
「シュウゾウさんはそんこと言っとらんぞ……、だがお前さんが懸命に生きたのは確かなようじゃな」
老婆は「うむむ」と唸り、少々考えるような仕草をした。だがそれも束の間、直ぐにニヤリと歯の抜けた口を見せて笑う。
「そうじゃのう。そんなお前さんにチャンスをやろう。そうじゃ、わしをヴァルキリーと見抜いた褒美じゃ」
「いえ、それはあなたが勝手に言い出した事なんですけど」
「いいじゃろ、わしはお前が気に入ったんじゃ!」
老婆は奪衣婆の仕事は地味で辛気臭いという。死んだヤツを相手にするのだから当然の感想だが、そんな退屈な日常に暑苦しいアホがやって来たのが楽しかったらしい。
「三途の川は向こう岸に渡るものだと思っておるじゃろう。そこが常識に囚われた愚かな衆生の思考じゃ」
「まかさ、川上や川下にいけるんですか」
「そうじゃ。時々いるのじゃ、三途の川を遡行する面白い奴がな。そいつらは大抵歴史に名を残しておる。お前さんの知ってるあたりならば、織田――」
「信長ですか!」
「有楽斎じゃ」
「そっちかよっ!!!」
「だが歴史に名前の残しておるじゃろ」
「いやそうですけどーーー。有楽町とか地名にもなりましたけどーーー、結構酷く書かれてましたから、某局の真田○で」
「少なくともお前さんのしがない人生より格上じゃ。ほかにも諸葛亮孔明やリンカーンなども川上に漕ぎだした奴等じゃぞ」
有楽斎と聞いて一瞬げんなりした尚だが、次の飛び出した名前を聞いて胸に熱いモノが込み上げてきた。その変化を敏くも見とり老婆がググッと身を乗り出す。
「お前さんもやってみるか?」
老婆の言葉に促されて大河を見る。流れはゆるやかだが時々河上から遺物が流れてくる。ルイヴィトンのバッグくらいなら大丈夫そうだが、時々一戸建てとか流れてくる。これに当たると確実に危ない。というかヤバい。というか更に死ぬ。
「これ、泳いで行くんですか? 泳ぐのかぁ、泳ぐのって舟を漕ぐのに比べて約八倍のカロリーを消費するんだよなぁ」
「……」
「いざ泳ぎ出して、いきなり溺れたら死んじゃうしなぁ」
「……」
「舟とは言わないけど、せめて足ヒレがあれば大分楽になりそうだけど、そういう道具ないかな。便利なポケットからポロリと。いやそういうが欲しいわけじゃなくて、道具を使うのが人間の知恵っていうか」
「素直に舟が欲しいと言え!」
「まさか、あるんですか?」
「はぁぁぁ……、お前さんはなぁ。まぁ有る。あるが代償も…」
「じゃ下さい! その舟に乗って川上に向かえばいいんですね」
「ああ、そうじゃ。じゃが……」
「どこにあるんですか?」
奪衣婆は深々とため息をつく。そして仕方ないのうと口走りながらも人差し指を天に向けくるんとひと回しした。すると渡しの船着き場に高瀬舟が現れる。センスがとことん和風だ。
「これがお前さんの舟じゃ、だがこの舟に乗ったが――」
「ありがとうお婆さん!」
「聞けい! と言ってもムリか。それもお前さんらしいがの。舟には魂しか持っていけんぞ。それに失うものもある」
「いいんです。もう全て失ってますから。僕にあるのは魂に刻まれた夢だけですし」
「そうか。そうじゃな、ならば行ける所まで行け、漕げる所まで漕げ、そして魂の赴くままに行え! その先にお前の望む世界がある」
「ありがとうございます。元ワルキューレの奪衣婆さん、僕、行きます!」
尚は手を振って船着き場に駆ける。
「元ではない、今でもヴァルキリーじゃ!」
尚は何のためらいもなく舟に飛び乗ると、さっそく力強く漕ぎ出した。その姿を老婆は目を細めて見送った。
次第に小さくなる舟影をどこまでもどこまでも。
「さて、あやつはどこまで行くものか。しっかとお前さんの夢、見せてもらおうかのう。楽しみじゃわい」
薄ら笑いを口元に浮かべた奪衣婆、いやヴァルキリーはゆらゆらと緑の霧の中に消えていくのだった。
誤植訂正