05
「今度包帯なんか巻いてたら、僕と代わってもらうから」
そしてすこしだけ意地の悪そうな笑みを浮かべてそんなことを言うラルフに、呆気したフレディはきょとんとする。
言葉の外に込められた意味に気がついて、嬉しくなったフレディは破顔した。
「心配してくれてありがとう。わかった。ちゃんと気をつけるね」
「……本当に分かってるの?」
「うん、大丈夫っ。それに、これでも最近は怪我しなくなった方なんだよ」
笑顔のまま答えるフレディに、ラルフは複雑なため息をついた。
「…全っ然説得力ないけど。で、これはどうしてこうなったの?」
飽くまでもそこを聞かないと納得しないのか、ラルフは頑として引き下がらなかった。
かいつまんで説明すると、聞き終わったラルフは眉を寄せてこう言った。
「――つまり、そのチビの所為ってことか」
そのチビ、とフレディの肩で目を瞑るハクに視線を向ける。その目には批難の色が灯っていた。
「いや、私の話きいてた…?」
飽くまでも自分の不注意だったのだと言ったはずだけど、と困った顔になるフレディを一瞥して、ラルフは平然と答える。
「ちゃんと聞いてたよ。間違ってないだろ?」
「大いに違うよ! 私がうっかりして暴れてるのに無理矢理触ったからだって言ったじゃんっ」
そう、なのになぜか敵意むき出しで剣呑な視線を引っ込めないラルフに、思わず声を張ってしまう。
彼もアリアディス同様に竜種には――ラルフに至っては竜種に限らずだが――優しいのに、なぜこんなに目の敵にするのか分からなかった。
口調は穏やかだが、明らかに醸す空気が敵意に満ちている。
なぜだ。
「いや、なんでかわかんないけど…、なんか気に入らないんだよね。そいつ」
「?? なぜ、」
疑問に首を傾げるフレディをよそに、うーんと考えるラルフは過去を思いふける。
「…なーんか、以前にも似たような気持ちになった気がするんだけど…」
どこだったっけ、と首を掻くラルフは、首を傾げるフレディを見て唐突に思い出した。
(…そうだ。あの時と同じだ)
ラルフはとある人と初めて会ったときに感じた、あの理由のない倦厭と同じだと気がついた。
おそらく、彼と同じ空気を感じたからだ。この白い竜に。
なぜかは分からなかった。けれど、どうしてか自身の直感が鳴いていた。
(まあ、色合いは似てる気がするけど…。でもそれだけ、だよな。彼は人間だし、単なる印象ってだけだ)
その真っ白な色が、あの品行方正を絵に描いたような人を連想させただけだと思った。
ディリア公爵の嫡男で、騎士団の副団長。直接ではないけれど自身の上司に当たる人を思い起こして、ラルフは思った。
初めて会ったときから、ラルフは彼があまり好きではなかった。
間違いなく人格者だということは分かっているし、周囲とのつきあい方も仕事の仕方も、模範にすると良いと思うほど出来た人だというのも分かっているし、認めている。
しかし、周囲が感じている印象以外のもの彼の内側を感じるラルフは、出来ることならあまり関わり合いになりたくないと思っていた。
(確かに良い人だし、頼りになるけど…)
そこに明確な理由なんか無い。周りに言えば自分の方が叩かれるだろうこの気持ちを、ラルフは人に打ち明けたことはなかった。けれどそれを必要以上に隠すこともしていなかった。つまり、周りよりずっと無関心を貫いている。
騎士団の中でも彼を賞賛する者は多く、ともすれば単なる嫉妬だと言われても仕方ない感情だが、そんな単純なものではないと自分自身で分かっていた。
有り体に言って、そりが合わないのだ。
だからラルフは、皆に好かれているのだから、自分一人くらいが気に入らないと思っていても別に問題ないだろうと構えていた。吹聴するわけでもないのだし、彼の誠実な性格と仕事の速さは分かっている。仕事には持ち込まないのだし、別に問題ないと思っていた。これは自分個人の気持ちの問題だ。
きっとその気持ちが、この生き物の雰囲気を彼に重ねて感じ取ってしまったのだろう。
だからこの竜を見て、気にくわない人を連想してしまっただけだとラルフは思うことにした。
はあ、とため息をついてこのことは考えるのを止めようと思ったラルフが、フレディになんでもないよと口を開きかけたとき、何かに気づいたフレディは遠い場所を見たまま言った。
「あ、ラルフ君、呼んでるんじゃない?」
「え?」
振り返ると、自身の同僚が遠くから呼んでいる姿が見えた。
それを認識した途端に、ラルフの口からは無意識のため息が零れていた。
「ほんとだ。行かなきゃ…、送っていけなくてごめんね」
フレディに視線を戻してほんの少し残念そうに言ったラルフに、フレディは思わず苦笑した。
さも当然のように送迎してくれるつもりだったのかと思うと、少しおかしかったからだ。
お嬢様ではないのだから、そんなの気にしなくてもいいのにと思ったフレディは笑顔のままそう言った。
すると、なぜかすごく変な顔をされた。
「何言ってるの、お嬢様でしょ?」
と、ひょいと片眉を持ち上げて呆れた顔をされてしまう。
「それに、たとえお嬢様じゃなくても、女の子を一人で歩かせるなんて危ないこと出来ないよ」
当たり前のように、ラルフはそう言った。
そのあまりにも自然な流れで紡がれた言葉に、フレディははじめて疑問に思う。
それは彼自身の性格なのだろうか、昨日今日の付け焼き刃にしてはあまりにも紳士然とした発言だったからだ。思えば彼はいつもそうだった。フレディといるときも、他の人といるときも、いつも優先順位は女性にあった。
彼の親がよほど女性第一だったのか、それにしてもその嫌みの無い自然な様がフレディには不思議だった。
彼はなんというか、あまりにも優雅だ。荒ぶれた様子もなく粗野さも感じない。そう言う人もいるといえばいるけれど、なぜか疑問だった。
それでも苦汁を飲んで謝罪する彼が、ため息交じりについた言葉に思考が移った。
「まったく、こんな時じゃなかったら迷わず君を送ってから帰るんだけど。そうも行かなくて…」
「何かあったの?」
「うん、まあ、ね」
いいにくそうに眉尻を下げるラルフに、言いづらいことなら言わなくていいと口にすると、困ったような悲しげな笑みを浮かべた。
「そうじゃないんだ。まあ、あんまり気のいい話じゃないけど、実は外国から預かってる金品の一部が行方不明でみんな殺気立ってるから、あんまり行きたくないだけ」
「え」
だけ、っておどけて言っているが、その内容はとても『だけ』で流せるものではなくて、思わず驚きに声が出た。
その思いがけない言葉に目を見張ると、ラルフは苦笑して濁した言葉尻を締めくくった。
「みんな必要以上にぴりぴりしてて嫌なんだよね。そんなに気を張っててなんとかなるわけでもないのに。実は僕、そのことを調べることになって帰ってきたんだ。そんなわけだから、しばらくはあんまり本棟の方には近寄らない方がいいよ。それでなくても、普段いない人間を見かけると言いがかり付ける人が多いから…」
言いづらそうに口にしたラルフの言わんとしていることが分かって、フレディはその心意気に感嘆しそうになった。
またフレディが、いわれのない言葉を投げられることを危惧して言ってくれているのだと思うと、言葉にならなかった。
本当に、なんて気のきいた優しい人なのか。
「でも、そんなこと私なんかに言っちゃっていいの?」
情報流出でラルフの方が問答されるのはいただけないと言うと、今度はにこりと笑って問題ないと彼は首を縦に振った。
「もう結構みんな知ってるし、別に隠してないから大丈夫。それより知らないで変なことに巻き込まれて欲しくないんだ」
「え、あ…ありが、とう…」
「どういたしまして」
やっぱり彼は、平民にしては行き過ぎだ。
さらっと紡がれた言葉にまた顔が上気したフレディがぎこちなくお礼を言うと、屈託無い笑みが返される。
おかしい。こんな人だっただろうか。
いや、確かにいつも優しい言葉をかけてくれていたけれど、こんなに返答に困ったことは今までなかった。
それ以上何か言うことが出来なくて俯きがちに口ごもっていると、急に背中に衝撃が走った。次いで視界が真っ暗になる。
『キュア―ッ』
「わっ、なにっ?」
今まで静かにしていたのに、なぜかいきなり暴れ出したハクがばさばさと動かした羽根が、フレディの背中を叩き視界を遮ったのだ。
『きゅー…、うっ』
「??」
何をするんだと、その体を押さえて正面から目を合わせると、まるで拗ねたようにぷいっと横を向いて目を閉じてしまった。
意思の疎通の難しい竜に、フレディは首をひねりながらそれでもその頭をなで続けた。するとしばらくして、その体から徐々に力が抜けていくのが分かった。
「もう…なんなの。おなかすいたの?」
『………』
基本的に竜が愚図つくのは腹が減ったか動き足りないかだと認識しているフレディは、ご飯を食べた後に丘まで行こうかと思案した。
見上げた空は晴天で、この様子ならば雨も降らないだろうと思ったため、瞬時に決める。フレディはこういう決断は早かった。
「よし。じゃあラルフ君、私もう行くね」
「あ、…うん。気をつけてね」
「ありがとう。ラルフ君も、息災でね」
苦く笑って手を上げたラルフに笑みを返して、フレディは踵を返した。だからその後彼が何を言ったのか、フレディは知らない。
一度も振り向かずに市街へ消えたフレディの後ろ姿を見つめたまま、方肘を支えて思案するラルフは再度思った。
「――やっぱり、あいつ気に入らないな」
あの白い竜を脳裏に浮かべて小さく零したその言葉は、誰が拾うこともなく消えていった。
「うーん。参ったな…」
買い物を終えたフレディは、市場の直中にある噴水広場の端っこで困っていた。
目の前の大量の荷物を冷静な目で見つめて、情けない自分に向かって独りごちる。
いくらなんでも買いすぎだった。
数日後にはもう一度診療所に来るのだから、二回に分ければ良かったと後悔してももう遅い。
ついつい引きこもりの習性であれもこれもと思って買い占めていると、気がついたらこの量になっていた。
白い竜は買い物の途中でもの欲しそうに見ていたパニーノを与えると、よほど腹が減っていたのか今はベンチの上で脇目も振らずに食いついている。
一瞬チーズは食べさせても大丈夫だったか頭をよぎったけれど、待ちわびたご飯を前に目を光らせている様によせとは言えなかった。
その様を横目に買い物の山を見ると、荷物の山からリンゴが一つころんと地面に転がる。その様を、あぁと目で追う。
馬を借りても二往復、ってところか。そう思ったらため息が止まらなかった。
二頭借りるって手もあるが、その後が困ると分かっていた。そもそも竜と馬は仲が悪い。そりが合わないのかなんなのか、馬を見ると威嚇をする竜が多くて、フレディはこの二種を極力鉢合わせないように気をつけていた。
だから基本的に飼育所から街に行くには徒歩だったのだが、帰りはいつも大変なのだ。それは偏に、フレディの引きこもりの習性である買い占めの所為であるのだが。
届けてもらうように手配しようと配達屋を探したのだが、これまた出払っているのか誰もいなかった。
まったく、店番の一人もいないのかと運のない自分をそっちのけでつい舌打ちをしそうになった。
そうして荷物の前でもんもんと考えていると、またしても背後から声がかかってフレディはなんの気なしに振り返る。
――しかし今度は、振り返ったことを後悔した。
「やあ。やっぱり君か。相変わらず、未だにそんなことをやっているのか」
嘲笑う顔に呆れを滲ませてそう言う男の顔を認識したフレディは、すでに苛立っていたのもあって鬱憤は頂点だった。すっと消えたフレディの表情が、それを表している。
側にあるベンチで脇目も振らずパンに齧り付いているハクにちらりと向けられた視線に、何が言いたいのか分かったフレディは目を細める。
「…当然です。それが私の仕事ですから」
抑揚のない声で答えたフレディは、今日は本当に運がないとほとほと疲れていた。
けれど男はそんなフレディの顔色なんか見ていなかった。不遜な態度でふんと鼻を鳴らすと得意げに笑って見せた。
思えばこの人はいつもそうだった。他人のことはどうでも良くて、自分が一番なのだ。
「女の身で仕事とは笑わせる。そんなことに精を出すくらいなら、もうすこし別のことを努力した方がいいんじゃないのか?」
そうして男はあの時と同じように嘲た目で笑った。
その目を見たフレディは、思う。
(…めんどくせー…)
朝からの不運続きでその気持ちは最高潮だった。無反応を貫きたかったが、ここで変な態度を取ると実家に文句が行きかねないと思ったフレディは仕方なく受け答えた。
この男はそういうことを平気でしそうなタイプだったことを思い出した。
身分が上だろうが下だろうが、男の方が完全に上だと誤認している幸せ者なのだ。
「…そうですね。助言いただき、感謝します」
――本当に。こんな性格だと分かっていたら、あの時絶対に首を縦には振らなかった。
事あるごとに女のくせにと性差別をするこの男は、自分が優位に立っていないと気が済まないタイプなのだろう。よくよく思い出せば、そういう欠片が見え隠れしていたようにも思う。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろうか。男はしたり顔で口端を持ち上げた。
「つれないな。元恋人に向かって」
いやらしい笑みの下にあるのは蔑みの心かなんなのか、しかし決して好意的ではないだろうそれに、フレディはぎゅっと眉を寄せた。
しかし、それより何より。
「あら。私たちいつからそんなに親しい仲だったんでしょう? 知りませんでした」
教えてくださるかしら? と嫌悪を覆い隠す笑みと共に首を傾げると、男は顔を強ばらせて黙り込んだ。
家にいた頃、引きこもりがちなフレディに親が持ってきた縁談は数多かった。親としては、もっと外に目を向けて欲しかったのだろうと思う。
しかしいろいろあったフレディが、それらを進んで受け取ったことはなかった。最初に食らった一撃が大きすぎて根本的なところで人を信用しきれずにいたし、自分が世間でどう言われているか知っていたからだ。
そんな中芳しい顔をしないフレディに両親が持ってきたのが、この男との見合い話だった。
親としては、身分などどうでもいいからとにかく誰かと知り合って欲しかったのだろう。そんな気持ちがフレディにも手に取るようだった。だから会ってみるくらいだったらいいかと思って了承したのだ。でもそれが失敗だった。
会ったのは一、二度で、そのあいだ男は取り繕った顔しか見せなかった。フレディ自身も気乗りしない所為か、うわべの言葉しか述べなかったのは事実だ。いろいろどうでも良かったこの頃、取り繕う必要性を感じていなかったのだから仕方ないと思う。
だからその縁談がお流れになったと聞いたときは心底安心した。
それで終わればいいと思っていたのに、どうやらこの男はそれで恋人だった気でいるらしい。
おどろいた。妄想癖が多いのは女性だけだと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
頭が緩いのか自分に自信があるのかは知らないが、フレディにとってはとんでもないことだった。
これは訂正せずにはいられない。
「私、一度もそのようなお言葉をいただいたことはありませんでした。それとも貴方は、女の方から交際を申し込んで欲しかったのでしょうか? だとしたら、気付けなかった私の所為ですね。大変申し訳ありませんでした」
優位に立ちたい割にはずいぶんと人任せなんだなと思うと共に、自信持ちの彼は女の方を夢中にさせていると実感したかったのだろうかと考えた。
しかしどちらにしても、紳士的じゃないし男らしくもない。別にそんなところを詰めるつもりはないが、不遜な態度を取るならばそれなりに男らしい姿を示して欲しかった。
そう思って口にしたのだが、この男には通じなかったらしい。
「ふん。分かっているんじゃないか。自分の非を認めて反省するなら、復縁してやってもいい。その代わり、そんな汚い仕事は一切止めてもらう。伯爵令嬢として恥じない行動を慎んでくれ」
あまりにも不遜なその態度に、開いた口が塞がらなかった。
…遠回しすぎたのか、男の頭が緩すぎるのか。どちらにしてもフレディは大いに脱力した。嫌みが全く通用しない。
だいたいその後顔を合わせるたびにこうして嫌みをぶつけてくるくせに、今もフレディの方に未練があるかのような言い方をするのは止めてほしかった。自分の記憶が正しければ、こちらが断られた側のはずだ。
そんなことは言っていないし、だいたいさっきの話を聞いていなかったのか。お前と恋人だった事実は一秒だってないと言っているではないか。
お家柄も大事だが、昨今は本人の意思を尊重する結婚が増えてきている。良縁のためだけの政略結婚は減少傾向にあるのに、この男は昔の意識のままなのだろうか。
しかしまあ、言われてみればそう思っていても不思議ではないかもしれないと思い直す。
彼は…シュメル伯爵家は、伝統に重きを置く傾向が抜けないのだという噂を聞いたことがあった。刷り込まれた意識というのは、そうそう覆せるものではないのかもしれない。
「……いえ、遠慮いたします。残念ですが…――いや、嘘です。全然残念なんかじゃありません。貴方のために今の仕事を捨てるなんてあり得ません」
この男に遠回しな文言はいけないと思って言い直したフレディは、きっぱりと断りを入れる。
まじめに答えるのも馬鹿らしいが、思い込みの強い人間に曖昧な返答すると危険だと思ったため、ためらうことなく言いつのった。
「貴方といるより、この子たちと一緒の方が幸せです。今の生活に満足しているのに、どうしてそれを捨てないといけないのですか? 人に理想像を強いることが貴方の紳士道なら、私は貴方の手は取れません。そういうのを良しとする方を探してください」
「な…っ」
屈辱だとかっとなって言い返そうとした男を遮って、フレディは死んだ目でその先を続けた。
「ああ、振られたなんて思わなくて結構ですよ。そもそもなにも発生もしていませんし。貴方はあなたの大切なものを、これからも守っていったらいいと思います。――では、失礼します」
端から見るととても綺麗な礼をして、ぺこりと頭を下げたフレディは相手の反応を見ずに踵を返す。
未だに夢中でパンを頬張っているハクを素早く抱えて、無言で歩を進める。
後ろでまだ何か叫んでいたようだったけれど、フレディは一度も振り返らなかった。