03
「私は、失敗することが悪いなどと思っていない。むしろ失敗から学べることの方が大事にするべきことだと思っている。その点、彼女は失敗だらけだ。仕事場でも、…社交界でもな」
にやりと笑う顔に、その心の内は見えなかった。
社交の場でも、とわざわざ付け足されて眉をひそめそうになったが、あえて知らないふりをしておく。そう、自分は空気だから。
「まあ、社交界での失敗はほとんどが彼女の所為ではないだろうがな。だが仕事は別だ。…彼女が勤めだしてからそろそろ二年になる。この二年で燻っていた研究が目に見えて進展したのは有名な話でしょう。貴女みたいに絶え間なく社交界に足を伸ばしている者ならば、耳にしたことくらいあるのでは? 一部の賢人たちが、彼女を賞賛していることくらい」
「…え」
紡がれた言葉に予想外のものが含まれていて、フレディは思わず小さく声を零していた。
それでもサンドラは心当たりがあるのか、心底嫌そうに目を暗い色に変えて静かに反論する。
「……ふざけないで。そんな誰でも出来ることと、一緒にしないでいただきたいですわ」
「そうかな? 君の弟君はその誰でも出来ることを『豚箱はごめんだ』と言って、さんざん否定していたと聞くが?」
「……っ」
まさかアリアディスが知っていると思わなかったのか、サンドラの肩がびくりと跳ねた。
初めて耳にする事実に、フレディは自称空気を名乗りながら聞き入ってしまっていた。まさか彼女の弟がその蔑称の出所だったとは知らなかったフレディは、それでも納得をしながら話を聞いていた。
だから彼女はさっき『豚箱行きの分際で』とフレディを罵ったのだ。最初からその蔑称を知っていたのなら、ああもすんなり口から出てくるのも納得できる。
「分かりましたか? その高い教育とやらを受ければ、なんでも思うとおりに行くと思っているところが、高慢という名の貴女の欠点ですよ。まあ、それはすべてが貴女の所為ではないでしょうが、その唯一が、私には目についてしょうがない。もう少し矜持高くあるのなら別だがな」
彼女のすべてを否定していると言っていいほど、アリアディスの言葉は容赦が無かった。
しかしサンドラはこの少しのあいだでアリアディスの攻撃になれてきたのか、さっきのように激高する訳ではなく、冷静にこの言葉を受け流した。どうやら順応力は高いようだ。
だが、そのふんっと恥も外聞も無く鼻で息を吐く様を、彼女を取り巻く令嬢や紳士たちが見たらなんと思うだろうか。
「ご忠告、どうもありがとうございます。ですが賢人といえど、所詮引きこもりの研究員でしょう。彼らの大切なものと、わたくしの大切なものは違います。貴方にそれを否定する権利などありませんわ」
思ってもいない礼を述べ、覇気を取り戻した彼女は悠々と姿勢を正す。
――しかし彼女は知らないのだ。その『一部の賢人』が誰なのか。
もちろんフレディもそんなことは知らない。むしろそんなことを言われていた事実さえ知らなかった。公の場に出ていかないフレディがそれを耳にする機会など、ありようもないのだから。
「――そこですよ、そこ。ちゃんと分かってるのではないですか」
クツクツのど奥で笑いながら、愉快そうに口元を押さえるアリアディスは、フレディでさえそこまで口にしなくても、と思ってしまうほど酷かった。
「…なんです…?」
「別に、否定などしていませんよ。貴女の生き方だって一つのあり方だ。ただ、それがすべての人に当てはまるとは限らないということだ。今貴女が言ったように、貴女の大切なものと、他人の大切なものは違って当然だ。ようはそれを認められるかどうかだ」
まるで勝利を確信したような自信に満ちた嫌みな笑みを浮かべて、アリアディスは続けた。
「きちんと伝わったかな? 自分が正しいと思い込み、他人を貶めるのは滑稽にしか見えないということが」
「――…」
何かを言いかけたサンドラだったが、彼女が口を開く前にアリアディスは言葉を重ねた。
「だいたい、彼女を『所詮劣化品』だなんだと罵るのは頭が空っぽの色惚け二世ばかりだ。頭の良い人間は、誰一人としてそんなことを言っていないことくらい、本人以上に貴女は知っているのでは? それでも彼女を豚箱行きだと言うなら、一度この国の歴史から学び直してはいかがです?」
先ほど自分が吐いた台詞と同じものをこの上司が吐いたことに、思わず目を見張る。
所詮劣化品、という心に根付く過重な重りの言葉にも、反応できないほど驚いた。
まさか聞いていたのだろうかと思ったが、すぐに違うと悟った。彼は単純にサンドラの見識の甘さを批難しただけであり、意地悪くも度重なる注意を促したわけではなかった。
少なくともフレディはそう思った。
そして、アリアディスはその鋭い目をすっと細めてとどめを刺す。
「――彼が私の立場でも、同じこと言ったと思いますがね」
「…ッッ!」
アリアディスから暗に紡がれるその言葉の意味に気づかないほど、サンドラは頭が悪くなかった。故に悔しさに顔を歪めるも、何も言葉にならないのがその証拠だ。
歯を食いしばって屈辱に耐える姿を遠慮がちに見ながら、自称空気のフレディは冷や汗をかいていた。
この二人、びっくりするほど仲が悪い。
犬と猿どころの話ではない、火と油だ。もしかしたら、付き合わせてはいけない二者の極みかもしれなかった。
そういえば、この二人が面と向かって顔をつきあわせているところを見るのは初めてだということに、ようやく気づく。ようは、そういうことなのだ。
ここまで来ると流石のフレディも気づくレベルで醜悪だった。
おまけにその話題は第三者を噛んでいるもので、はた迷惑以外の何物でもないことにこの二人は気づいているのだろうか。飛び火する側は堪ったものではない。
思わず零れたため息に、今度は隠しもしないサンドラの目が鋭くフレディに向けられる。
「おだまりなさいっ! ため息一つでさえ不愉快です。だいたいなんですか。このわたくしがわざわざこのような場所まで足を運んで問うているというのに、この扱い…っ絶対に許しませんわっ」
自分を罵った口でフレディを褒める、その事実に鼻持ちならないといった様子でサンドラは顔を歪める。
そして、さっきのように捨て台詞を吐いて踵を返す。
―――バタンっ! と閉まる扉にびくっと肩を揺らすフレディと、勝ち誇ったため息だろうか、よく分からない息をつくアリアディスだけがしんとした部屋に残された。
「………」
まったく、上手なものだとフレディは感心した。
フレディを利用することで、彼は答えたくないことを見事答えずにやりきった。
あそこまで言えば、たとえそのことに彼女が気づいたとしてももう一度ここを訪れることはまず無いだろう。
途中経過で褒めてもらったような気もするが、なんだか素直に喜べなかった。
「――ねえ、いいの? すっごい怒ってましたけども…」
それでも、ばたんっと淑女にあるまじき音を立てて扉の向こうに消えた見えない人を見やり、フレディは上司に問いかける。
齢二十歳にしてあの捨て台詞はないだろうと、サンドラに対して呆れた気持ちもあるのだがアリアディスの態度も行き過ぎたものだったのは事実だ。
いくら嫌いな相手でも、言って良いことと悪いことがあるのではないだろうか。
しかし、この上司は分かっているのかいないのか。
「なにがだ?」
と本当に分かってない顔で聞くのだから始末に負えない。
「いや、なにがって…、絶対報復考えてますよ、あれ」
「何を言うかと思えば。だからどうした。甘ったれたお嬢様にたいしたことは出来ないさ」
「そりゃそうかもしれないですけど…、さすがにあれは言い過ぎなんじゃ…」
別に彼女が悪いわけではないだろう。彼女は純粋に自身の生き方に誇りを持っているだけだ。アリアディスが言うように、それを正しいことだと思い込んでいるだけだとしても。
そしてフレディも、通常のお嬢様はそれでいいと思っていた。人を貶める醜悪な性格はいただけないが、それは誰しもが少しは持っている感情だ。仕方ない。
けれど、庇うようなフレディの発言に、アリアディスは眉を持ち上げて呆れたように眉間を開いた。
「お前さんざんあいつに煮え苦を飲まされたくせに、なぜ庇ってやる? そこまで良い子ちゃんだったとはな、知らなかったぞ」
「いや、そんなつもりはないけど…。でも、別に彼女は間違ったことは言ってないでしょう? 世間一般的に、彼女が言ってることはみんなが考えそうなことだと思うけど…」
良い人に嫁いで、後生を幸せに暮らしたいと思うのは別に変なことではない。家のための政略結婚だとしても、出来れば少しでも望む形にしたいと思うことは皆が考えることだ。
そこに求めるものが愛かお金かの違いだけだと思うのは、やっぱり自分がひねくれているからなのか。
「…まあ、そうだな。多少、いやかなり自分本位だが、間違ってはいない。傲慢な令嬢の典型として、いい見本と言えるだろう」
ふんっと鼻で息を吐くその顔は、酷く歪んでいる。
「……よっぽど嫌いなのね…」
「お前こそ、なんでそんなに人ごとなんだ。さんざん好き放題言われて、悔しくないのか。お前、理不尽な言い分には屈しないんじゃなかったのか? 十分理不尽だろ、あれは」
好き放題言われた理由の半分はこの人の発言のような気がするが、今はそこには言及しないことにした。
「うーん、どうかな。悔しいって気持ちはないかも。彼女も言ってたけど、彼女が大事にしていることと、私が大事にしていることは違うようなので。っていうか、あそこまで毛嫌いされてる理由すらよく分からないんですよね。まあ、どっちでもいいっていうか、なんていうか」
「………お前」
思った通りに口にすると、アリアディスは最初と同じように呆れた顔をフレディに向けた。
「本当に分かってないのか? あいつがなんであんなにお前を目の敵にしてるかを」
「え? 理由があったの?」
それこそ驚きだ。単純に気に入らなかったからだと思っていたフレディは、そのままを口にする。
「まあ、あながち間違ってないが…。その理由だ」
「理由…? だから、気に入らないからじゃないの?」
「だから、お前のどこが気に入らないんだ?」
「……全部…?」
どこがってどこだろう? と首を傾げながら思ったことを口にする。
しかし本当に、彼女と必要以上に会話をした記憶が無いのだ。だから存在が気に入らないのだろうと思っていた。世の中にはまま、意味なく受け入れられない相手が存在する人間がいるという。
しかし考えふけるフレディに面白そうにアリアディスは問いかけた。
「全部ねぇ…。本当に思い当たる節はないのか? 何か失敗をしてあいつの不興を買ったとか? それともあいつの男でも寝取ったか?」
その顔に、愉快そうに笑みを浮かべる顔はちょっと聞いたことを後悔しそうな気持ちにさせる何かがあった。
しかし知っているのに教えないその態度に、思わずむっと顔を顰める。
「…それ、私のことも貶してます?」
ひょいっと片方の眉を持ち上げて白んだ眼差しを向ける。別に本気で言っているわけではないだろうが、だとしてもすこし口が過ぎると思った。
そんな卑劣な真似をして、平然としている奴だと思われるのは癪である。
「怒るなよ。もののたとえだ。だいたい、そんなことお前には土台無理だろう」
「……やっぱり貶してますね」
もうこの人にどう貶されても大したダメージはないのだが、そこまで魅力のかけらもない底辺だと言われると流石にへこむ。
まあ、毎日つなぎを着て生活している自分に魅力が無いことくらい知っているからいいのだが。
「だから怒るなって。これでも褒めている」
「そうですか。だったら、一から褒めるという行為を学び直した方がよろしいかと」
はあ、と思わずついたため息を最後に、会話が途絶える。
そこでフレディは気になっていたことを聞いてみることにした。
「…ねえ、あれ…ほんとうですか…?」
「あれ? どれだ」
「だから、さっきの…」
言いづらくて言葉を濁すと、少し考えてアリアディスはああ、と頷いた。
「嘘を言ってどうする。…まあ、貴族の人間に賢いのは少ないからな、あまり期待はするな」
暗に貴族のほとんどがお馬鹿であるといいきったアリアディスに、思わず照れが滲んだ笑みが零れた。
認めてもらっていることは分かっていたけれど、まさかそこまでの評価をもらえているなんて思っていなかった。
「………」
何をしても優雅に控えめで、美しい姉と並べ立てられて『所詮、劣化品だ』と、さんざん嘲笑されてきたフレディだったけれど、こうして自分の行動を認めてもらえたことがうれしかった。
確かにその側面では報われているわけではないが、別にそれはもう求めていなかった。場所は違えど誰かと比べるわけではなく、自分自身を認めてもらえたことが何よりうれしくて、くすぐったくてどう言えば良いか分からなかったフレディは口ごもった。
要は、お礼を言いたいのだが、それもなんだかおかしい気がして変に口を開きかけて閉じる、を繰り返す。
「まあ、なんでもいいが、用が済んだなら帰れ。っていうか、お前報告書はどうした。早く出せよ」
「――あ、忘れた」
白い竜のことばかりが頭を占めていて、作った書類を忘れていることに言われてはじめて気がついた。
そのフレディの言葉に、心底嫌そうに顔を歪めたアリアディスにフレディは素直に謝罪の意味を込めて深く頭を下げた。