02
その態度にフレディは困惑する。こと竜のことに関して、この人がこんなにおざなりな対応をすることなんて今までなかったのに。ましてや捨ててこいなどとは。
いつも自分にはつれないが、一緒にいる竜には優しい目をすることをフレディは知っていた。なのにこの態度はどうしたことだろう。
「竜種は保護対象なんですよね? なのに捨ててこいなんて、矛盾したこと言ってるの分かってます?」
「……」
「きちんと納得できる理由を教えてくれないと、その命令には従えませんよ?」
「…無駄に冷静な言葉だな。上司に口答えか?」
ちっと忌々しそうな舌打ちが耳に届いて、新鮮な気持ちになる。
自分の方が冷静であることなど数えるほどあるかないかだった。その事実が、今のフレディを大きく出させていた。
「そうです。上司だろうとなんだろうと理不尽な言い分には屈しないんですよ、私は。知らなかったんですか?」
「…逞しく育ったもんだ。いいだろう、好きにしろ」
「いやいや、答えになってないのでは?」
「なにがだ。…捨ててこいと言ったのは撤回しよう。ただ、その竜は保護下に置く必要は無い。お前の好きにしろ」
「え、と…、それってどういう――」
問い詰めようと口を開いた途端に、入室許可を求めるノックが響く。
けれど部屋の主が許可を出す前に、その扉はやや乱暴に押し開かれた。
「失礼いたします」
「…げ」
そうして現れたのは、先ほどフレディと火花を散らせたばかりのサンドラ・シンフォニアその人だった。
その姿を見た瞬間、フレディの口から小さく不満がこぼれてしまったのが聞こえたのだろうか、フレディの存在を認識した瞬間アリアディスの死角でぎろっと睨まれた。
怖すぎる。思わずひっと引きつった悲鳴が零れそうなくらいに。
これは先ほどの件の結果か。…余計に目を付けられた感が否めないのだが。
「…ちょっとお伺いしたいことがあって参りましたの。よろしいかしら?」
しかし今度は、サンドラはフレディに食ってかかることはしなかった。視線を寄せたのは最初の一瞬で、それからはいないもののように無視をしていきなり上司との会話をぶった切られ攫われる。
「…なにかな、サンドラ嬢。許可も無いうちに入室するなんて、淑女として些か問題がある行動ではないですか」
「そんなこと今はどうでもいいですわ。それよりも優先させたいことがございますの」
なぜかいきなり空気と追いやられたフレディは、会話を遮る気にもならず二人の会話を横に応接用の椅子に静かに腰を下ろした。変に割って入ると怖いことになるので、成り行きを見守ることにしたのだ。それでも退席しなかったのは、一瞬自身に向けられたアリアディスの視線にあった。
まるで逃げるなと言われているような気がしたのだ。
そんなフレディがアリアディスの物言いを聞いた途端、違和感を覚えて首をひねる。どんなに無粋で無礼な令嬢にも、あんなに辛辣な言葉を投げつけるところなど見たことがない。ともすればアリアディスの方が無礼になるのではないだろうか。
だがしかし、この二人のあいだには身分の差が存在しないことに瞬時に気がつく。だから遠慮の無い物言いなのかと納得した。
しかしフレディがどう思おうと、実際アリアディスが身分の差があるないで女性に対する態度が変わるわけではなかった。
単純に、アリアディスはサンドラが嫌いなのだ。取り繕う必要さえ感じないほどに。
それはサンドラの方も同様で、ふんっとアリアディスの言葉を一蹴した彼女の態度もまた、好んでいる人間にするものじゃなかった。
一見して分かる間柄だが、フレディはそんなこと気づきもしないで空気になろうと必死だった。なぜなら、サンドラはフレディの存在を微塵も気にせず口早に話を始めたからだ。
「いったいいつになったらご回答いただけるのかしらと大人しく待っていても、らちがあかないと思ってわざわざ足を運びましたのよ。いい加減、はぐらかすのはやめていただけませんこと?」
「なんのことでしょう。なにか問われていましたでしょうか」
「恍けないで。サンディアルト様のことです」
「彼が何か? 確か視察で、今は国を空けていると聞いていますが」
「ですから、恍けないでと言っています。それが真でないことくらい、わたくしは知っていますのよ」
かみ合わない会話に、業を煮やしたサンドラが僅かに声を上げる。しょうもないご託はいいのだと、腰に手を当てた不遜な態度でアリアディス座る机に向けて一歩踏み出す。
サンディアルトとは、ディリア公爵家の嫡子の名前だ。フレディでさえ知っているその名前に無表情に話を聞いていたフレディの眉間に僅かにしわが寄った。
そう、何を隠そう彼こそが、あの王室の舞踏会でフレディが半端ない叩かれかたをした理由の人だった。
しかし、フレディもそれを本人に詰めるほど子供ではない。彼の所為ではないことは分かっているし、フレディの不名誉なレッテルに関して彼は無関係だということも承知している。
しているが、フレディにとって彼は鬼門そのものだった。
あの出来事は、フレディに不名誉なレッテルを貼った以上の効果をもたらし、尾を引いていた。それは周りの年頃の令嬢たちが、こぞってフレディを社交の場から追い出そうと試み出したことだ。
もっと正確に言えば、サンディアルトが存在する場所から、である。
彼が出席すると思しき夜会や舞踏会の際には、なぜか剣も顕わにする令嬢たちが取り囲み、ちょっと怖い笑顔で始終解放してもらえなかったり、渡してくれた飲み物を飲んだ途端に気分が悪くなって早退を余儀なくされる、などなど。上げだしたらきりが無いほど彼女たちの結束力はすさまじいものだった。
もちろん証拠があるわけではないが、嫌ってる割には話をかける姿勢が必死だったのだ。その態度に、まあまあ聡いフレディがなんか変だと気づかないわけはなかった。
しかしその思惑にまでは思い至らなかった。フレディ自身がそれに気づく前に、公の場に姿を現すことを極端に控えていたおかげで大した実害はなかったのだが、後日姉にそのことを問い詰められて、目から鱗どころか目を取りこぼしそうになったほどだ。
一体全体なぜそんなことに発展したのかと、彼女たちの妄想力に感心さえした。
別に彼はなにも悪くない。勝手に周りが騒いで、勝手に彼を持ち上げているだけだ。彼自身は、…なんというか、女性に興味があるのか無いのか、大した浮き世話は全然と言っていいほど流れてこないのが現実だった。
いくつかある彼の色恋の噂も、女性側が勝手にねつ造していただけ、というオチがほとんどだった。もうねつ造と言って過言でないレベルの話なのだ。
だからかどうか知らないが、一部の騎士たちからは『いい子ぶったお綺麗な公爵様』と揶揄されたりしていることも、フレディは知っていた。
「………」
たった一言、たった一つの行動でそこまで…と、ちょっと空恐ろしかった。
彼はただ、目の前で落ちたものを拾っただけだ。それは紳士として、いや人として普通のことだ。
それなのに自分の預かり知らない場所でそのような戦争が勃発しているなどと知ったら、品行方正と名高い公爵様は変に気を揉むのではないだろうかと考えてしまうのだ。それは彼の行動原理に影響を及ぼしているのではと、要らない心配をしてしまうほどに。
人気があるのも大変なんだな、とある種の同情のような感情がフレディの中にはあるけれど、それとこれは別問題だった。
要は、関わりたくないという感情がつい表に出てしまっただけということである。深い意味は無い。
「視察は存在しないと、お父様はおっしゃいました。どうしてそんな嘘をお付きになるのです? そして、サンディアルト様は今どこにいらっしゃるのですか?」
さっさと吐けと言わんばかりの勢いでまくし立てるサンドラとは対照的に、アリアディスは面倒くさそうな顔をしていた。
そう、彼女の言うサンディアルトはここ半年から一年ほどのあいだ、公の場に全く姿を現していない。公の場どころか人前にさえ姿を現さなくなっていた。
それは騎士団の遠征もそうだし、夜会も舞踏会も同様だった。
はじめはただ忙しいのだろうと高をくくっていた令嬢たちも、それが一ヶ月、二ヶ月と続けばいても立ってもいられなくなったのだろう。彼の部下に聞いたところ、仕事のために国を空けている、という曖昧な返答が返ってきたという。
公には極秘の視察ということになっていたようだが、今サンドラは確信を持って違うと言っている。
アリアディスがひょいっと眉を持ち上げたきり何も言わないところを見ると、あながち間違いでもないのだろう。視察は単に体の良いこじつけだったのだと、フレディは今初めて知った。
まあ基本的に、噂話にあまり興味が無いフレディが知っていることは多くないのだ。しかし引きこもっているフレディに、頼んでもいないのによくこの手の情報を持ってくるのは、騎士団に所属している自身の兄だった。
兄はこの手の話を仕入れるのが得意で、よく誰某伯爵の夜会の開催時期からはじまり食堂の翌日のお品書きまで、くだらないこと一つとってもなんでも知っていた。そして、聞いてもいないのに教えてくれるのだ。
その兄から聞き知っていた事実が真実ではないことに、フレディは少なからず驚いていた。フレディがそうなのだから、目の前の彼女はもっと驚いたことだろう。だからこうしてわざわざ、ここに足を向けた。
普通令嬢は、王室に直接通じているとはいえ、この建物に出入りなどしない。それこそここは男所帯のむさい場所だ。好んで足を踏み入れる令嬢は皆無だった。
それほど彼女にはのっぴきならない事情があったということだろうとは思っていたが、まさかそんな理由だったとは。
いや、おそらく彼女にとっては冗談抜きで人生がかかった出来事なのだ。
…フレディは分かっていた。というか知っていた。
今年で二十歳になる彼女がその年で、あまたの誘いの言葉を蹴ってまで独身を貫く理由を。
彼女はサンディアルトとの結婚だけを望んでいるのだ。…正確には、ディリア公爵夫人の座を。
フレディが彼女を好きになれない理由の、最たるはそこだった。
フレディの目には、彼女は爵位を、自分を飾る宝石か何かと勘違いをしているように見えて仕方がないのだ。私腹を肥やし贅を尽くし、自らが満足することが何よりも重要視しているように見えてあまりいい気がしない。そしてそれが最近はとても表に出てきている。
それこそ余裕のない様子で。
考えてみれば彼女はもう二十歳だ。令嬢の花が十七、八だと言われている中で、彼女はだいぶ根気強く我慢したと思う。でもそろそろ限界なのだ。
最近ではふとしたときに今みたいに余裕のない様が現れるせいか、その辺の令嬢や男性はあまり彼女に寄りつこうとしない。
フレディとしては賢明な判断だなと思うのだが、しかしそれでも彼女は侯爵令嬢だ。それなりに見目も外面も良い彼女に、言い寄る人も皆無ではないだろうに。
それでも彼女は望むのだ。いまよりも高い地位を。権力を。
そしてその矛先が、世間的にも国政的にも評判の高いディリア家一点に絞られるのは、そうおかしなことじゃなかった。
おそらく好青年かつ見目の麗しいサンディアルト自身に対しても、好意を寄せているのは事実だろうが、そこから地位を取り払えるほど彼女は無欲じゃなかった。
逆もまた然り、ということだろう。こちらから見ればなぜその誘いを断るのだろう、と首を傾げるほどいい縁談にさえ首を縦には振らないのだから。
そしてそれをフレディが知っているということは、もちろんアリアディスも知らないわけはない。それでこの態度ということは、アリアディスはやっぱり性格が悪いということだ。
そして嫌いな人間に容赦ないのだと、この先の会話で理解する。
その間もじっと黙って返事を待つサンドラに、アリアディスは長いため息を呆れの言葉と共にはき出した。
「逆に聞きますが、どうしてそこまで彼にこだわるのです? 男なんてそこら辺に腐るほどいるのですから、どれでも好きに摘み取ったらいいのではないですか? 貴女なら容易なことでしょう。騙すのも欺くのも、お手のものでしょう?」
明確な嫌悪に紡がれた言葉に、フレディは目を見張った。思わずちらりとアリアディスを見やる。
それは明らかに侮辱の言葉だった。
もちろんサンドラは、一瞬何を言われたのか分からないという顔で止まっていた。が、すぐにいつもの調子に戻る。
「…っ侮辱するおつもり!? …わたくしは誰でもいいわけではありません。ふさわしい方と共にありたいと思うことが、そんなに蔑まれることなのかしら?」
「…彼がそうだと?」
「そうです。歴史的にも名高い公爵家には、それ相応の教育を受けた人間がふさわしいに決まっています」
「そうですか。…ですが、それは彼自身にとってもそうなんですかね」
半ば諦めたようにため息を吐くアリアディスの顔は、疲れているというより哀れんでいるように見えた。それは、サンドラを、なのか『彼』を、なのかは分からなかったが。
しかしサンドラはそんなアリアディスの顔色など気づかずに、大きく頷いた。
「当然ですわ。わたくしはそのために今まで高い教育を受けてきましたの。公務もしっかりこなせますし、どこかの誰かと違って失敗などいたしません。それらの努力を溝に捨てるために、今日まで励んできたわけではありませんわ。いくら貴方でも、言って良いことと悪いことがあります。取り消してくださいませ」
どこかの誰かとは誰のことか。こんな時でもさりげなく悪口を乗せるサンドラにフレディは思わず白んだ顔になったが、もう好きに言ったらいいと思う。
自分は空気、空気なのだ。
しかしアリアディスは、彼女のその言葉をふっと鼻であざ笑った。
「そうですか? それは失礼しました。ですが、公の場で他人を貶めることも、本人に面と向かって侮辱することも大して変わらないと思いますがね。…ああ、貴女は自分のことは例外扱いすることが得意なんでしたっけ。忘れていました」
言葉最後ににこりと、それはそれは穏やかに笑むアリアディスに呆気としたフレディだったけれど、サンドラは先ほどのフレディに向けていた以上にかっとなって怒鳴り返した。
「…っなんですのさっきから!? 馬鹿にするのも大概にしてくださいっ、最低ですわ!!」
人の目がないことを良いことに激高するサンドラに対して、アリアディスは常に動じない態度だった。彼が愛称以外で動じているところなど終ぞ見たことがないのだが、今のその態度には冷静以上の倦厭が見て取れた。
重たく長いため息を吐いた後、アリアディスは静かに諭すように口を開く。
「別に、貴女に最低だと思われようとどうでもいいことだが、分かっていないなら教えて差し上げよう。おそらく、誰も教えてはくれないだろうからな」
「…どういう意味です」
「貴女は今、自分は失敗をしないと言ったが、失敗の可能性に挑戦したことがないだけだろう。自分の力量以上のものを成したことがないだけだ。それを豪語することは勝手だが、それに他人を巻き込むのは些か礼儀がなっていないのではないかな。――それに比べて、彼女は大したものだ」
ちらりとアリアディスが企み顔でフレディを見やる。
それになんだか嫌な予感がしたフレディだったが、気づかないふりをして知らん顔をした。とばっちりを食らうと思ったが故だが、この場合何もしなくても結局とばっちりを食ってしまうということに、このときは気づけなかった。