03
「最近終ぞお顔を見ないと思っていましたのに、このようなところで会うなんて思ってもいませんでしたわ。もう引きこもるのは止めたんですの?」
見えない棘がべっとりついたような物言いに、フレディは下げた頭のしたで顔を顰める。辛辣でも、見える笑顔は優美としか表現できないのだから不思議である。
フレディとしては、こんなに目の敵にされる覚えなんかまったくなかった。
特に特別なこともなく、初めましてと挨拶をしたのはとある舞踏会で、別段に無礼を働いたつもりもなければそれほどの会話をした記憶もなかった。
姉を引き合いに出した嫌みを言われることは結構あったけれど、彼女のはそれとは違うらしく、フレディ自身が気に入らなくて言葉を投げつけているようなのだ。
変わった人だなぁと思いながらも、フレディは彼女の言葉を怒りも憎しみもなく、ただただ聞き流すだけだった。
それが彼女の嫌悪心に、余計な火を付けているなどとは知らずに。
「…ええ。身に合う仕事を見つけましたので、今はそちらで働かせてもらっています」
今回もいつもと同様に、なんのことはない風に聞き流そうと当たり障りのない言葉を選んだフレディは、頭を下げたまま口を開く。
するとサンドラは口元を扇で隠したまま、まあ、とわざとらしく驚いた声を上げた。
「それで、そのような見窄らしい手をなさっているのね。それでは殿方は誰も手を引いてはくださらないのではないですか? おかわいそうに…。もっと自分を大切になさってくださいな」
かわいそうと言いながら、その目は愉快で仕方ないというように弧を描く。
フレディが子竜の世話をしているのは、貴族なら今や誰もが知っていた。いまは令嬢の方が口さがない世だ。こと同姓のこととなればそれは顕著で、噂は瞬く間に広がり知らない人はいなくなった。
けれどフレディは、それが蔑まれることだと思っていなかった。ただ家にいて、綺麗な服を買って高価な宝石に身を包み、豪遊することこそフレディにとっては無意味なことだった。
はじめは自分にこの仕事が勤まるのかと不安だったし、聞き知った彼らの境遇に同情心で無理をしていたのも確かに嘘じゃない。
でも今は違う。同情だけで彼らに接しているわけじゃなかった。
物言わぬ彼らがそれでも訴えてくるものに気づいたから。そのときから彼らのために自分で出来ることがあるならば、なんでもしてあげたいと思った。そのためなら、手がかさつこうが皹ようが、そんなのは些末なことだった。
令嬢なのにはしたないとサンドラたちは軽蔑するけれど、フレディからすればどうしてそんなに竜種を毛嫌いするのかそっちのほうが理解できなかった。
「…お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。手を引いていただけなくとも、自分の足で歩けますので」
「…っ」
嫌みだと分かった上で、頭を上げたフレディはあえてにこりと穏やかな笑みを返した。
すると途端に歪んだサンドラの顔は、自分のあり方を否定されたと思ったのか怒りが滲んでいた。
確かに、令嬢ならそれでいいのだろう。夫に手を引いてもらって、一歩下がって楚々としていればなんの問題も無い。
でもフレディは、ただ受け身でいることをどうしても良しと出来なかった。何もせずに大人しく付き添うのが美徳かもしれないが、それよりも自分は相手を支えられるような存在でいたいと思っていた。
だからただ受け身で、大人しく手を引いてもらうのを待っているなんてごめんだった。
(…ああ、そうか)
だから自分はダメだったんだ。
姉のように貞淑に楚々としてしていることが出来なかったから、誰からも見限られたのか。
頑張っていたつもりだったけれど、その頑張りさえも目に余ったのかもしれない。目障りだと、思わせてしまったのかもしれない。
けれど今更分かったところでどうにもならないし、分かったところでいきなり改善など不可能だ。そもそも今の自分は、我慢をして誰かに見初めてもらうことに意味を見いだせなくなっていた。
彼女の言い分を否定する気は無いが、フレディはフレディでこれでいいと思っていることを否定されたくもなかった。
そもそも、彼女に迷惑などかけていないのだから放っておいてくれれば何の問題も無いのだ。なのにどうしていちいち突っかかってくるのか。
理解不能だ。
「ふん、そんな小汚い蛇を触って平気な顔をしているなんて。…ああ、手の皮が厚すぎて感触なんか分からないんですのね。人の顔に泥を塗るのがお好きなフレディア様は、面の皮以上に手の皮が厚かったのですね。知りませんでしたわ」
「…っ」
思わず煩わしさにため息を零しそうになったとき、侮蔑の目と共に飛んできたあからさまな言葉に思わず息をのむ。
なぜ今この場で、いきなりそんな言い方をされないといけないのか。人の顔に泥など塗ったことは――。
(…いや、あったかもしれない)
あれはまだフレディがデビュタントから間もなかった頃、今と同じように唐突にやっかみをぶつけられた時だった。
当時から社交界では、とある貴族がとても高物件だと令嬢のあいだでもちきりだった。ほとんどの女性が彼に会うために、夜会やら舞踏会に行っていると言っても過言ではないくらいに。
その人は若くして騎士団の副隊長に昇進したこともあり、その手腕も外見も身分も、どれをとっても他の人間など非ではないと有名だった。
逞しい体つきのわりに温和な性格で、常に優しいところがレディファーストに重きを置く令嬢たちの心にクリーンヒットだったらしい。そしてなにより令嬢たちの心を攫っていったのは、その笑顔だという。朗らかに笑う顔を見て、誰もが彼を天からの使いだと言っていたという。
誰もが彼を色眼鏡で見ていた。どこの令嬢も、はたまた未亡人さえも彼の目の止まろうと必死になっていたらしいが、それまであまり外と交流を持っていなかったフレディはそういう令嬢の好みそうな話題にはてんで無頓着だった。
そんな人がいるなんて知らなかったし、会って会話をしたからといって他の令嬢と同じように黄色い声を上げて騒ぎ立てることはなかった。
だって知らなかったんだから仕方ない。
知っていたらその他大勢と同じ態度をとっていたかと言われると答えは否だが、何が発端だったかというと、あの時うっかりフレディが落としてしまったものを渦中の人が拾ってくれたときの自分の態度が、まるでなっていなかったこと、らしい。
ちゃんとお礼は言ったし、挨拶もしたのにどうしてだと困惑したのは言うまでもない。しかし、彼女たちが怒っているのはそこじゃなかった。
ぽっと出のフレディが、いち早く声をかけられたことが気に入らなかったのだ。
しかし、あれは声をかけたわけじゃないだろうというフレディの意見は、些末なゴミのようにはね除けられた。
これは後日知ったのだが、彼はあまりああいう場で自ら女性に声はかけないのだという。だからこそ、みんな躍起になって彼に声をかけられる立場を狙っているのだ。
なのに、自分たちを押しのけて声をかけてもらったくせに、どうしてそんなに何でも無いことのような態度なのだと、八つ当たりも甚だしい理由で令嬢たちはこぞってフレディを叩きだした。
しかし落としたものを拾ってくれただけで、それからの会話をどう発展させればいいのか皆目見当も付かなかった。ありがとうございます、で終わってはなぜダメなのか。…いや、そこから会話が発展したらしたで、今度はそのことをやっかまれるに違いない。令嬢の世界はとても難しいのだ。
フレディとしては、正直緊張しすぎて相手の顔なんか見ていなかったというのが本音だった。だからその人がみなが射止めたい、他称天の使いだなんて気づかなかった。
おまけにその日王室で開かれていた舞踏会はとても盛大なもので、ひよっこのフレディが王室に足を向けたのは社交界デビューの時以来だったのだ。緊張しないなんて無理だった。
そうでなくても引きこもっていて人の波になんて慣れていないのだ。それなのにそんな風に突っかかられて、余計に混乱した。
でも、そこは弱い人間は蹴落とされる女の勝負の世界だった。助けてくれる人は誰もおらず、社交界に出て間もないひよっこにはそれらをいなす術も昇華する術も何も持っていなかった。
だからフレディは、ただただ混乱する頭を抱えたい気持ちで、押し黙るしか出来なかったのだ。
碌な反応を示さないフレディにいよいよ怒りも頂点に達した一人の令嬢が、手にしていたグラスの中身をフレディにぶっかけようと構えた瞬間、ただよけなくてはということしか頭になかったフレディは、その思考に従った。
ひょいっと躱した先に、誰がいるのか理解もしないで。
…そんな時ばかり機敏に働く頭を、翻せる身の軽さを、その時は強く呪ったものだ。
きゃっと小さな悲鳴を聞いた瞬間に自分の失敗を悟ってももう遅くて、それはそれは二度とこんなところ来たくないと思うほど周囲は騒然となった。
またグラスの中身を被ってしまった人がいただけなかった。その辺の令嬢ならば平謝りですんだかもしれない。しかしそうはいかない相手だったのだ。
青い綺麗なドレスを纏ったその人は、この国の第二王女様だった。
流石のフレディも王女様の顔くらいは知っている。これはやばいと思ったが、グラスを傾けた当の本人は顔面蒼白でカタカタと震えていて、ろくに声さえ出せない状態だった。もしかしたら立ったまま気絶していたのかもしれない。
その令嬢以上に青い顔でいち早く頭を下げたのは、他でもないフレディだった。
青いドレスに広がる真っ赤な染みを見た瞬間、自分も彼女のように気絶できたらどんなによかったか。
ごめんなさいと青い顔で平謝りするフレディに、王女様は気にしないでとにこりと笑った。
なんと優しい。その言葉は本心から来ているのだと疑いようもないほど穏やかに静かで、怒ってさえいない感じだった。そして彼女は、逆にフレディに大丈夫かと問いかけるのだ。
周りのすべてが注目している中で平謝りを貫くフレディの姿は、誰が見ても問題を起こしたのは彼女だと認識させるには十分だった。
しかし、フレディがよけなかったらこんな事にはならなかった。理不尽だろうとなんだろうと、あの時あの令嬢の怒りを甘んじて受け止める事が出来なかった、フレディの所為に他ならない。
結局、その王女様の采配でおとがめもなく舞踏会は最後まで円滑に終わったのだが、フレディは王女様に恥をかかせた不届きな奴というレッテルを貼られてしまった。
あのときほど自分が動くと碌な事が無いと思い悩んだことはなかった。いつ不敬罪を課せられるのかとしばらくは怯えて過ごしていたほどだ。
けれどこの国の第二王女様は懐のとても深いお方で、この件でフレディを責めるようなことはただの一度も無かった。それどころか、後日会ったときに再び謝罪をすると『なんのことかしら?』ときょとんと首を傾げられてしまった。加えて話し相手になって欲しいとにこやかに手を引かれたときには、困惑しかなかったのを覚えている。
彼女は被害者だ。おかわいそうと言われることはあっても、責められることも詰められることもないだろう。そのことにほっとした。
まあ、そのぶんフレディは大打撃だったわけだが。あれ以来嫌煙していた夜会や舞踏会でも、行かないといけない場合があったのだが、そこでは毎回よく顔を出せたものだと囁かれるまでなってしまっていた。
あれは、しでかした失敗の中でもひときわ大きなものだったと思う。
(まったく、嫌なことを…)
思い出させないで欲しい。それもこれもこの女のせいだと、心の中で悪態をつく。
――だが、そんなのはどうでもよかった。問題はその前の言葉だ。
小汚い蛇。その一言を脳が認識した瞬間、外聞も無く目の前の女性を睨め付けそうになってしまって、まずいと顔をうつむける。明確な敵愾心を彼女に向けるとどんな目に遭うか分かったものではない。
せっかくいま平和に日々を過ごせているのに、余計なものに煩わされたくなかった。
――そう思って我慢したのに。
「まあ、泥まみれになって小汚い蛇と遊んでいるのが貴女には似合っていますわ。人ではなく蛇ならば、泥をかけられても恥だと怒りませんものね」
愉快そうにそう笑われては、せっかく押さえた痛憤が表に出てくることを抑止できなかった。俯けた顔のまま、フレディは口を開いた。
「――取り消してください」
別に意識したわけではなかったけれど、地を這うような低い声になってしまったそれに、サンドラは一瞬ひるんだように唾を飲み込んだ。
彼らを薄汚いものだと罵ること、それだけは聞き流せなかった。
「な、なによ…汚いものを汚いと言って何が悪いの?」
珍しく反論してきたフレディに面食らったのか、言葉に詰まったサンドラだったがすぐに高慢な態度に立ち戻る。
別に自分は何を言われてもかまわなかった。今更だし、フレディがいろいろと失敗を重ねてしまったことは事実なのだから。そこを詰めるのはかまわない。
でも、これだけは譲れなかった。
「汚くなんかないわ。人間のせいで彼らはここに縛られているのに…。それでも文句も言わず私たちの生活を守ってくれているのに、どうしてそんな言葉を言えるの? 貴女が今、こうして何不自由なく生活できているのは国が豊かだからだわ。その悠揚を守ってくれているものの、どこが汚いのか教えて」
自分より少し低いところにある彼女の目をまっすぐ見つめて、フレディは語尾を強めた。まっすぐ相手を見るその目は、ともすれば睨め付けていると捉えられても仕方ないほどの力強さを持っていた。
その視線に言葉に詰まったサンドラは、何か言いたげに数度口を開きかけるも、フレディのその目を見返すと声に出せずに終わる。
じっとそらされることのない視線に、根負けしたのはサンドラの方だった。
「…サンドラ様は私のことが気に入らないようですが、私なんかにかまう前にもう少し我が国について勉強された方がよろしいかと存じます。皇族に連なろうという人間なら、知っておかないと恥をかくことがあるのではないですか? そのとき困るのは私ではありませんよ」
身の内にわき起こった嫌悪に突き動かされて、言わなくていいことまで言ってしまった自覚はあった。
ふいっとずらされる視線に追い打つように、すっと目を細めて明確な批難を込めたフレディのその言葉は、彼女の矜持を傷つけてしまったようだった。サンドラはかっと頭に血が上ったように、衝動のままその手を振り上げる。
「――ッこの、豚箱行きの分際で、偉そうに命令しないでッ――!」
「…!」
サンドラは我慢ならないと、振り上げた手に持った扇をフレディの頬めがけてめいっぱい振り下ろした。
余計なことを言った自覚のあったフレディは、あえてよけることはしなかった。そんなことをすれば、余計に怒りを買うことは分かっていたから。
「…っ、……?」
襲い来る痛みを覚悟して歯を食いしばったフレディだったが、バシンっと鈍い音がしたが終ぞ痛みは訪れない。
瞬間、閉じてしまっていた目をそろりと開けると肩に乗っていた白い竜が、その羽根でフレディの頭をかばってくれていた。その扇がこ気味のいい音を打ち鳴らしたのは、皮膜の羽根に弾かれた際のものだった。
『グルルル』
「な、なによ。わたくしにそんな態度でいいと思っているの!? お前なんかを廃棄することなど容易いのよ! 飼い慣らされた家畜同然の分際で、わたくしの視界に入らないで!!」
土台無茶なことを叫ぶサンドラに、白んだ目を向けたフレディは取り合うのを止めたくなった。向こうから絡んできたのだが、これではいい見世物でしかない。
一般的に見ればサンドラが一方的に嫌みをぶつけた所為のもめ事だったが、この場合もきっと悪者は自分になることはわかりきっていた。
侯爵令嬢に無礼にも上からものを言った、と。
明らかに不穏な空気に周囲がざわめきだしたことに気づいたサンドラが、負け惜しみのような台詞を吐いて踵を返さなかったら、フレディは噂が立つこともかまわずに無言でこの場を去っていただろう。
(どっちにしろ自分が悪者になるなら、最早なんだっていいわ)
半ば自棄気味にそう思ったフレディは、白んだ目のまま遠ざかるサンドラの後ろ姿を見つめる。
かばってくれた竜の首をなでながら、周囲の空気に気配を向けた。
相変わらずひそひそ言っているが、何を言っているのかまでは聞き取れなくてため息一つで鬱憤を払う。
『………』
大人しくフレディに撫でられていた白い竜は不意に首を持ち上げて、そんな遠巻きの一点をじっと見つめていた。
最初よりずっと居心地悪くなったフレディは早くここを去りたくて、脇目も振らずいつも以上に足早に上司の執務室を目指した。