02
脅しのような前任者たちの話を聞いても、フレディにはなぜかぴんとこなかったのも理由の一つである。フレディは彼らがそんなに気性が荒いなんて思っていなかったし、体験もしていなかったからだ。
だから、散歩の帰りにばったり前々任者の男に会ってしまったとき、つれていた飛竜の暴れように驚いた。脱兎のごとく男が逃げ出さなかったら、その爪で今度はどこを切り裂いていたか分からない。子供といえど、その爪で引っかかれたら怪我ではすまないのだ。
フレディも古い鱗で手を切ることは間々あったけれど、それも慣れと共に減っていった。それでもうっかり切ってしまったときは、なぜか竜の方が申し訳なさそうな顔をする。
表情なんか大して変わらないのだけれど、なぜかフレディにはそう見えるのだ。
大丈夫だと頭をなでてやると気持ちよさそうに目を閉じる様は、とても可愛い。竜は頭がとても良いと言われているのが嘘ではないと、言葉がなくても意思の疎通が出来ていると自負するフレディは分かっていた。
そんな感じでこの二年足らず、いろんな竜を見てきたフレディだったけれど真っ白な姿をしたものは初めて見た。思わず物珍しさに手を伸ばしてしまうほどに、その白を初めて見たときは目を奪われてしまった。
朝の陽を浴びてきらきらと光る鱗は、白い体をよりいっそう輝かせていた。まるで自身で発光しているようにも見えるその様に、思わずその鱗を一枚愛蔵させてくださいと申し出てしまいそうになったフレディは、今やすっかり好事家と成り果てていた。
本来フレディは淑やかに座っているよりも、外の空気に触れることの方が好きだった。
昔から動物が好きで、よく勝手に家を抜け出しては森へ入り浸っていたのを思い出す。あの頃から顔に泥が付こうが服が汚れようが、気にしない性格で本当に良かった。おかげでこんなに可愛くて賢い竜たちと生活できている。
「………」
しかし脅威の回復力を見せた白い竜は、自身の傷が治ってもフレディの元を去らなかった。
どうしてなのか不思議に思っていたけど、昨日の晩に判明した。
「もうほとんど痛くないから、大丈夫だよ。ありがとう」
心配そうに視線を下げる様がおかしくて、優しく微笑んだフレディは半分嘘をついた。
実は、逃げようとする彼を捕まえるとき、フレディは誤ってその爪で腕を切ってしまっていた。一週間では到底塞がるようなものではなく、翌日は痛みで眠れなかったほどだったその傷は、縫い合わせた後が生々しく外下膊を走っている。
結構深く刺さった爪が肉を裂いた瞬間、なぜか急に大人しくなった隙を見て自室に竜を連れ帰り、血の流れる自分の腕をそっちのけで彼の手当てをした。もし足が折れていたら、飛竜ならば怯えて飛ばなくなる可能性だってあるのだ。
毎夜、風呂上がりに包帯を取り替える様を未だに心配そうに見ている所からして、もしかしたらフレディを不用意に傷つけてしまったことを気にしているのかもと思った。
窓辺までは逃げるけどそこから飛び立たない所を見ると、あながち間違っていないと思う。
そこまでの賢さがあるのかは不明だが、なぜかこの竜はそう思わせる何かがあった。
窓辺にうつぶせるその背中を見つめながら、フレディは考える。
基本的に竜は例外なく保護対象だ。しかし。
(――ふむ)
見たことない種類だからだろうか。なんだか騎竜団にこのまま保護を取り付けていいのだろうか迷ってしまった。
フレディとしては、帰る家があるのならば無理に騎竜団の保護下にいる必要は無いと思っている。立場的にはいけないのだろうが、本来彼らは自由であるべきだ。
――いつか、何不自由ない空を彼らに。
そう言ったかつての王様の言葉が、耳に聞こえた気がした。
かといって、自分の独断でどうにか出来ることではない。この子竜の傷が治る頃には何とかしなくてはと思っていたところである。
「しょうがない。気は進まないけど、行くかー」
怠そうに後頭部を掻いて、フレディはぼそりと呟いた。
『きゅー…?』
子竜の飼育場であるここは、騎竜団のある建物から少し離れた開けた場所にある。
基本的にフレディはここから出ずに一日を終えることがほとんどだった。理由は、外へ出る必要が無いからだ。
必要なものがあれば買いに出るが、城下までは距離があるため滅多なことでは足を運ばない。ある程度のものは騎竜団に言えば届けてくれるし、それに不便を感じたことがないためわざわざ行く必要が無かった。
それに、街に行けば聞かなくていい声が聞こえてくる。それをあまり聞きたくないというのも本音だった。
引きこもっている割に、フレディはこの街では有名な存在だった。
だから本音を言うならば、騎竜団にだって足を伸ばしたくない。
しかし定期の報告をサボりにサボって、この間こってり絞られたのはまだ新しい記憶だった。行きたくなくても、騎竜団までは足を運び定期的に報告を上げるのは一所属員としての義務なのだ。
もはや令嬢としての矜持を捨て去ったフレディは、いつもなら作業しやすいシャツと、汚れてもいいようにオーバーオールしか着ない。けれど拾った竜の種類も気にはなっていたのだ。だから今日はきちんと騎竜団の制服を身につけ、出かける準備をする。
ため息一つで鬱憤を逃がし、フレディは窓の外を眺めたまま動かない白い竜を後ろから抱き上げた。すると突然のことに驚いた声が上がった。
『む、キュっ!?』
「よし、嫌なことはさっさと終わらせるに限る。一緒に来て、おでかけするよ」
下手な石より重たい体をひょいっと抱き上げたときに、傷を負った腕がずきりと痛んだ。
そのとき一瞬だけ歪めてしまったフレディの顔を、白い竜は見逃さなかった。即座に腕から這い上がり、肩に乗り上がる。
その機敏な反応に思わず苦笑したフレディは、ありがとうと頭をなでる。
すると竜は照れくさそうに目を瞑った。
*****
明らかにこちらを揶揄するひそひそ声は、しかしフレディの耳にはしっかり届いていた。
所々何を言っているのか分からなかったが、言われていることはだいたいいつも一緒だ。ちらちらとうかがい見られる視線には嘲笑しか見られない。
いつも思うけれど、王宮の侍女というのは結構暇な職業なんだなという感想を改めて抱いたフレディは、いつものように聞こえないふりを続けた。
『御破算令嬢』それが、ここでのフレディの綽名だった。
悲しいかな、噂話とはどこまでいっても尽きることなく、そしてどこから漏れたのかいつの間にかみんなが知っているものだ。フレディがここで働いているのは、再三降られ続け結婚どころか婚約もままならなくなったからだと、みんなが知っていた。というか、言っていた。
だからこその綽名なのだろうが、二年ものあいだ誰もがやりたがらない職を平然とした顔で行うフレディに『伯爵令嬢なのに汚い仕事を平気でする変な女』とか『実は女ではないのでは』などとも囁かれていた。果てにはアストメリア家は実は相当お金に困っているのでは、という余計なお世話まで焼いてくれているようだ。
そして最近になっては『豚箱女』とも呼ばれるようになってしまっていた。
出所のはっきりした蔑称は瞬く間に広がったそうで、いまやどこへ行ってもフレディを知らない人はいないほどだった。
侍女だけでなく兵士や騎士にまでひそひそとささやかれる始末。居心地が悪いことこの上ないこの場所が、フレディはいつまで経っても好きになれなかった。
ここは王宮につながる建物の中。騎竜団と騎士団が屯している建物で、お国のお膝元の直中だ。役職を持つ貴族や騎士団に所属するものたちが集う場所で、廊下には彼らが多く行き交っている。
仕事中その通路を当たり前に闊歩していたくせに、フレディが建物に入ると一瞬ざわめいた後なぜか少し遠巻きにするのだ。いつも通り普通に歩けば良いのに、なぜかフレディの周りには一回りほどの空間が出来る。これもいつものことだった。
侍女たちからは御破算と呼ばれ騎士たちには豚箱女と呼ばれるのはもう慣れたが、その視線にはいつまで経っても慣れなかった。本来、尊称にしろ蔑称にしろ多数の視線を向けられ慣れていないフレディは、居心地が悪い以前の問題なのだ。
「――なぜアリアディス様はあのような者にこの場を歩くことを許しているのか。これでは我らの品位が疑われるというもの。大人しく豚小屋にいれば良いものをなぜ…」
「仕方がないさ。豚の世話も誰かがやらなきゃいけないだろう? それをわざわざ買ってくれてるのさ。感謝しようよ。おかげで今年も俺らは豚箱行きを免れているんだからさ」
ケラケラと下品な笑みを浮かべて相づちを打つ男に、もう一人の男が笑う。
「そうそう。騎竜団なんて引きこもりの温床だ。陰気くさい奴らにはお似合いの仕事だよ。まあ、その中でも豚箱はごめんだけどな」
「違いねぇ」
そう言って笑いあう顔は、酷く醜かった。悪噂を口にするとき人は皆あんな顔になるのだろうか。本人が目の前を通るときにわざと声を上げているところを見ると、故意なのだと分かるだけに滑稽だった。
どうやら最近の兵士はどうでもいい噂話を信じる、純粋な人間ばかりらしい。
心根が清らかかどうかは別問題だが。
「………」
『豚箱』。その蔑称がフレディは大嫌いだった。
彼らが豚箱と呼ぶのは、騎竜の子供たちを飼育しているあの場所を指しているからだ。家畜がいるから自分たちは肉にありつけているのに、そのことに感謝こそすれ、さも汚いもののように言うのも気に入らないが、誇り高い竜たちを家畜と同格だと罵る様を聞いていると、いつものことだと分かっていても顔を顰めずにはいられなかった。
だからすれ違いざま、ひときわ大きな揶揄するその声に、横目でちらりと視線を向ける。
「…っ」
すると途端に、おびえたような顔で自分じゃないと言わんばかりに視線を外す。そそくさと会話を辞めてそれぞれの方向へ歩き出す兵士たちを無言で見つめながら、フレディはふんっと小さく鼻を鳴らした。
どうやら暇を持てあましているのは侍女だけではないらしい。
最近は侍女も兵士も、フレディがちらりと視線をやると気まずそうな顔でさっと視線をそらす。そうして今みたいに、逃げるように立ち去るのが通例だった。
何でだろうかと思っていたが、今はそれが心地いい。今日ほどその反応に、よしっと胸の中で拳を握ったことはなかった。
「――なにごとですの?」
そんなフレディをよそに、ざわめいていた周囲がしんと静まった。ふいに響く場違いな足音と共に聞こえた鈴のような声に、みんなの視線がそちらを向く。
コツコツとか細い踵を鳴らすその音さえ、華奢で繊細に聞こえるようだった。この場に似合わないその声が聞こえた方に目をやると、フレディの時とは非じゃない勢いでばっと人が引いて道が開いた。
「あら、これはこれは。フレディア様ではありませんか」
唯一動かなかったフレディを視界に止めたそのか細い音の主は、手にしていた扇で口元を隠しながら目を細めて笑った。
その笑みは一見してお淑やかに柔らかく、艶やかなものだったけれど、見る人が見れば分かる侮蔑の笑みだった。
「…サンドラ様。ご無沙汰しています」
ああ、面倒くさい。そう思ってほんの一瞬だけ目を細めたあと、すぐに敬うように頭を下げる。
場違いなほど煌びやかなドレスを纏って、当然のように眼前に出来た道を歩く女性は、サンドラ・シンフォニア侯爵令嬢その人だった。
どうしてこの人がこんな所に、とフレディは自分の運の悪さを呪った。
サンドラ・シンフォニアは美しい娘だった。家柄も良く、ゆくゆくは王族の嫁にと期待されているという彼女は、まさしく真っ赤な花が力一杯咲いた瞬間、という見た目だった。
要は、とても派手なのだ。しかしそれが自信に満ちた彼女の顔には恐ろしく似合っていた。
確かに靴音一つとっても繊細だと思わせるほど、彼女の行動は洗礼されている。けれど口を開けば、それを鼻にかける嫌みなところが顕著であり、フレディが彼女を苦手とする理由の一つだった。
顕著に表れているのは自己自慢だけではなく、他人をおとしめようとする浅ましい部分も同様で、社交界でもさんざん嫌みをぶつけられた苦い過去があった。
しかし彼女が苦手だというのは、何もフレディだけではない。彼女のその性格は、令嬢のあいだでは共通認識だった。
彼女に目を付けられたら終わり。そう言わしめるほど、彼女に潰された者は後を絶たない。
引きこもるだけならまだ良い。噂では退廃地区まで堕とされた人もいるというほど、彼女は気に入らない人間に容赦が無かった。
そしてなぜか、今の標的はフレディらしい。
その目が、上から見下す蔑笑の滲むその顔が、それを物語っていた。