01
フレディには三つ年上の姉がいる。
優雅で美しく、控えめでお淑やかな姉は、社交界デビューをしてから注目されないときはなかった。
そんな姉は世間から「社交界の華」と呼ばれている。
綺麗な長く靡く青い髪に、それより少し薄い青の瞳。大好きだったあの客室の色彩を整えたのは姉であり、そのセンス一つをとっても良家の淑女といって過言ではなかった。
そんな姉がフレディは大好きだったし、いつも一緒にいた。優しくて甘やかしてくれるけどダメなことをしたときは叱ってくれる、何物にも代えられない大切な家族だ。
それがいつからだったか。姉と並んで歩くのが苦痛になってきたのは。
はじめは十歳の時。家が近くてよく食事を一緒にしていた男の子がいた。年はフレディより五つ上で、幼なじみだった彼にフレディは淡い恋心を抱いていた。
そんな彼はフレディの思いを受け入れてくれた。優しい彼の言葉がうれしかったし舞い上がっていたのだと思う。
でもある日、フレディは見てしまった。彼と姉が、物陰に隠れてキスをしていたところを。
最初は知らないふりをしようと思った。盗み見たことを言及されたくなくて、はしたない真似をしたと自分を責めもした。
でもそれを見てしまった日を境に、彼の態度に余所余所しさを感じるようになった。そんな日々に耐えかねて、つい盗み見た事実を追求してしまったのだ。
すると彼は、何の悪びれもなくこう言った。
『愚問だな。君からの要求を、断る余地が僕にあったと思うのか? 平民の僕が? はっ、これだから世間知らずのお嬢様は困る。…君から告白された翌日、僕の親は言ったよ。アストメリア家の機嫌を損ねることだけはしてくれるなってね。僕が足繁く君の元に通っていたのは、君が僕を気に入っているから会ってやって欲しいと言われたからだ。でも、君にそう見えていたのなら、僕の演技もまあまあいけていたってことかな。親からはお前たちの機嫌を損ねるなとさんざん叱咤され、毎日毎日君のつまらない話に付き合わされて心から楽しんでいたとでも? …最初は、仕方ないと諦めていたさ。それが家族の、家のためになるなら仕方ないってね。でも、段々と馬鹿らしくなってきた。見返りがなけりゃそんなのやっていけないんだよ。だったら、どうせなら美人の方がいいに決まってるだろ』
当然だろうと、ふんっと鼻で笑われたが、大半は耳に入ってこなかった。
何を言われているのか分からなかったのだ。いや、理解することを頭が拒絶していた。
聞けば彼の父親はフレディの父親の部下と懇意にしており、僅かでも貴族の機嫌を損ねたくなかったのだという。爵位こそないものの、彼の家は商いで成功を収めていた。これからも邁進していくその道を、子供の戯れ言で突き崩されたくはなかったのだろう。
これは後で知ったことだが、あのままつつがなく行けば男爵位がもらえる予定だったらしい。そんな中フレディの言葉は、ひいてはアストメリア家当主の言葉と捉えられても仕方がなかった。
それを知った瞬間、本当に音が聞こえる勢いで血の気が下がっていったのが分かった。
そんなつもりは微塵もなかった。あの言葉は、あの気持ちは命令などではなく、ただ自分の気持ちを知って欲しかっただけだった。周りの誰かに協力して欲しいとか、ましてや頼んだ覚えなんか一度だってなかった。
だからこそ、応えてくれたことがうれしかったのだ。彼も同じように想ってくれていたのだと思ったから。
けどそれが無意識に他人を縛っていたんだという事実は、まだ少女だったフレディには頭を殴られるよりずっと強い衝撃だった。
それと同時に、自分に向けられていた言葉も笑顔も偽物だったことがなにより痛かった。
『どうせつまらないなら美人の方がいい』
その言葉が、ずっと耳の奥に張り付いて消えなかった。
今思えば、そんな蔑んだ目と言葉を向けられるようなことはしていなかった。ただそれほどまでに、彼に対する親からの重圧が酷かったということだろう。
それ以来、怖くて彼には会っていない。
しばらくショックが抜けなかったフレディは、それ以来家に引きこもりがちになった。何かあったのかと、そんなフレディを本気で心配してくれたのは姉だった。
どの口が言っているのかと思ったが、おそらく姉にとっては彼のことなどどうでもよかったのだろう。良くも悪くも伯爵令嬢である姉は、平民に対してどこか一線を引いていたところがあった。そんな姉が隠れてこそこそ彼と、平民と付き合うなんて、それこそあり得ないことだった。
この時フレディは、初めて自分の言葉には他人を拘束してしまう場合があるのだと理解した。
それまでは、そんなの自分には関係ないと思っていた。偉いのは親であり、自分ではないのだからと。でもそれは、そうでない人間にとっては全く意味をなさないことらしい。
元気で活発だったのに突然外へ出なくなった上、言葉少なになったフレディを家族は心配してくれたけれど、本当のことは言えなかった。
自分がまた、余計なことを言って誰かを困らせたくなかったから。
しかしそうして引きこもっていられたのも、ものの数年だった。貴族の娘には避けては通れない、社交界デビューというものがある。
けれど数年の内に、叩きのめされた心は多少復活していた。いつまでも引きこもっていてはいけないということは理解できる年頃になったフレディは、これを機に外へ目を向けることにした。
そして、二度目の失敗をしたのだ。
*****
貴族なんか滅んでしまえ。
「………」
その言葉が余韻として胸の内に響くのを、ぱちっと目を開けたフレディは感じていた。
チチチ、と鳥の鳴き声が聞こえる朝は清々しく、今日も天気がいいことを予言している。
「……夢か」
ベッドに寝転がったまま独りごちる顔には、悲しみも憎しみもなかった。ただ後味の悪さだけが残っている。
久々に見た夢は過去の自分の情けない姿であり、もう取り返しようのない失敗の数々だった。
二度などではない。幾度となく同じ失敗を繰り返したのは、偏に自分には男を見る目がなかったということに他ならない。
それでも何度同じ裏切りをされても、フレディは人を信じることをやめなかった。いや、やめないように努力したのだ。
今度こそ。そう、何度思ったことか。そしてそのすべてが、フレディに空しさしか残さなかった。行き着いた先に分かったことは、全くもって自分はいつまで経っても成長しないということだけ。そう理解した瞬間、流石に自分自身に呆れたものだ。
もうここまで来ると、悲しみなんかなかった。馬鹿なやつだと自分自身を笑うしかなかった。
だからやめることにしたのだ。
だって結局最後には、あの完璧なまでの美しさを持つ姉にすべて持って行かれるのだから。
良い人を射止めるために、綺麗に着飾ってお淑やかに笑い美しくあるという、絶え間ない努力をすることも。それらを求めて、言い寄る男の言葉を信じることも。
そんなことをしたって自分にはなんの意味もないと気がついた時から、フレディはそれらのすべてを放棄した。
それでもついて回る伯爵令嬢の義務とやらに嫌気がさして、そんなものないところに行きたかった。
いろいろあったフレディは、何時しか男女問わず貴族が嫌いになっていた。
…結局、最初のあれがすべてを物語っていたのだ。今思えば、あれはなんとも本質を突いた言葉だった。
『どうせなら美人の方が良い』
その言葉だけは、どんなに時間が経ってもフレディの中から消えてくれなかった。
そしてそれが、数いる多くの男の本音なのだということはよく分かった。
そうして反対する家族を無理矢理押し切って、家出同然で出てきたフレディが選んだことが働くことだった。侍女たちが行う文官寄りの仕事ではなく、基本的に令嬢が――女がしない力仕事を選んだのは、偏にそんな気持ちが反映されていたからかもしれない。
伯爵令嬢が力仕事なんて、という世間一般の常識を押しやってフレディが無理矢理始めたのが、この仕事である。
――フレディが今抱きしめたまま眠っているのは、自身の半分ほどの大きさしかない小さな白い竜。
この国には、馬と大差ない数の様々な竜が存在しており、フレディの仕事はその竜の子供たちの世話をすることだった。
『キュァー』
腕に抱き込んだまま眠っていた小さな竜が目を覚ますと、途端に嫌そうにフレディの腕から逃れようと首を振る。
鱗の硬度が未熟な子竜は、抱いて寝るととても気持ちが良い。堅すぎず柔らかすぎない鱗がひんやりとしていて、暑い日の夜に抱いて寝るととても快適だった。
今まで育ててきた竜にも、同じように暑い日は決まって抱きしめて眠っていたのだが、こんなに嫌がられたことはなかった。寧ろ長い首ですり寄ってこられると愛しささえこみ上げてくるのに、この白い竜だけはすり寄るどころか手を伸ばすだけで逃げようと後ずさるのだ。
今だって短い攻防の末、羽根をはばたかせて窓辺に逃げてしまった。
フレディはそれに一抹の寂しさを覚えながら、億劫だが起き上がることにする。
この白い竜と出会ったのは、一週間前。飛竜の散歩に町外れの丘に足を向けたとき、帰りの森で拾ったのだ。
おびえたように後退るのに一向に逃げないからおかしいと思っていたら、足を怪我しているのに気がついた。あのままでは野犬に食いつかれてもおかしくないと思って、無理矢理連れて帰ったのだ。
この国には様々な竜がたくさんいるが、野生のものはほとんど存在しない。ほぼすべての竜が、国に属している騎竜団という施設に保護されていた。
遙か昔、もっともっと数多くの竜が空を駆けていたらしいが、長い歴史の最中一時期絶滅寸前まで追いやられてしまっていた。それも偏に、人間が戦争や軍事利用として駒のように彼らを使い、打ち捨ててきたからに他ならなかった。
傷ついてもろくに治療もせず、飛べなくなったら、戦えなくなったら捨てて次を使う。誰が最初に始めたのか、そんな風潮が古き時代には存在した。戦争に勝ちたい大国の王を始め、時代の流れに乗せられた人間は、そうして自由に空を駆けていた種族を打ち落としたのだ。
これではいけないと彼らを哀れんだこの国の王は、当時僅かしか残らなかった子竜を保護し大切に育てたのだという。元のように何不自由なく空を駆けられるようになるまで、自分たちが責任を持って面倒を見ると。
それはきっと贖罪の意味もあったのだろう。けれど彼らにはきっとその想いが通じたはずだ。今でも飛竜は、飛び立っても必ずここに戻って来るのだから。
大きくはないけれどそんな心優しい王様が納めるこの国が、途絶えかけた一つの種を守ったという事実は、お伽噺のように今も語り継がれていた。
だからこの国には、傷ついた竜を治療する術も彼らのために研究を重ねる場所も存在する。
この世界に共に存在する者として、我らも彼らに報いるべきだと。当時の王様はそう言って民を説得させたという。
そんな王の想いが届いたのか、彼らは今もこの地に留まり生活をしているし、国民も彼らを同じ国の住民として認めていた。
当時に比べるとずいぶん増えたけれど、それでもまだまだ竜種はずっと少ない。おまけに親竜は雄も雌も例外なく騎士団に派遣され、騎士と共に国を守る任に付いているものが多い。故に、子竜の世話を焼く人間が必要になるのだが、これがまた問題だった。
なんせ、世話係が一年も経たないうちに辞めてしまうのだ。
理由は馬よりもずっと危険で世話をしづらいから。
竜は気性が荒いものが多い。誤って堅い鱗を触ると怪我をするし、下手をすれば怪我だけではすまない場合もある。
フレディの前に勤めていた女性が近年一番長く続いたそうだったが、不注意で鱗の破片で顔と目を損傷し辞めてしまったという。
その前の者はいっこうに言うことを聞かない竜たちに苛立って、暴力を振るったとされて辞めさせられた。…まあ、それによる報復は竜たちによって受けたらしいが。このまえ偶然その男に会ったとき、右手の指が二本無かったのをフレディは見逃さなかった。
そんな噂が段々と広まり、今や誰も竜の飼育を買って出る人はいなくなっていた。とうとう騎士団に派遣を依頼することになったらしいが、屈強であるはずの騎士さえ『豚箱はごめんだ』といってその任を押しつけ合う始末。酷い言い方だが、なんとなく言いたいことは分かる。国をいろいろな外敵から守る名誉ある職業のはずなのに、飼育員になど抜擢されるなど要らないと烙印を押されたも同然、という彼らの意見ももっともだった。
そんな時、何も知らないフレディが門を叩いたのだ。
それからというもの一年と持たずに辞めていく者が多い中、フレディはこの仕事を二年近く続けていた。