03
ふと目を覚ましたフレディは、一瞬ここがどこか分からなかった。
寝ぼけた目でむくりと起き上がり、ゆっくりと数回瞬くと次第に脳が目を覚ましてきた。
そうだ。昨日あのまま飼育所に帰ろうかと思ったのだが、予想外のことに見舞われたフレディはとんでもなく疲れ果ててしまっていた。身体が、というより脳みそが。
なんだか頭が痛いような気もしてきて、とにかく早く眠りたかった。それだけははっきりと覚えている。
今の自分の姿を見下ろして数秒。なんとなく想像がついた。
上掛けもベッドから半分ずり落ちており、苦しくて仕方ないと思っていたコルセットも付けたままで、夜会用のドレスを脱ぎもせず倒れるように俯せて寝ていたのだ。
というか、ちゃんと玄関から入った――だろう――のになぜ使用人の誰もがフレディの帰宅に気付かなかったのだろう。誰かしらが世話を焼いて、ドレスを脱がせてくれてもよかったのになんとも薄情である。
――あの後、他称天の使いが去った後、すごく! すごく大変だったのだ。
二人の令嬢が見たというサンディアルトの話題は瞬く間に広がり、騒動になった。
大分時間が経っていたようで、お開きムードが漂っていた会場が一斉に沸いたのを見た瞬間、このままこっそり帰ろうと決めたフレディはそろりそろりと後退した。
なぜか。そんなの決まっている。
またぞろ、言いがかり付きの文句を浴びせられることが分かっていたからだ。
しかし世の中そう自分の思うとおりに進まないらしい。ぎろりと怖い視線を向けた二人の令嬢に逃げることを阻まれ、処刑人よろしく両脇を抱えられて控えの間に連行された。
そこでなぜ彼と一緒だったのかと、大勢に事細かに詳細を問い詰められて言葉選びに困ってしまった。それこそ知恵熱が出るほどに知恵を絞って、なんとか穏便に事を運ぼうと必死だったのだ。
だからもちろん庇うように抱きしめられたことも、髪に口付けられたことも言っていない。なのに、酷い批難がこもった視線が消えないのだ。
(…怖い。女の人怖い。)
自室に逃げ帰ってきてベッドに突っ伏したフレディは、一も二もなくそう思った。
イーサンの話ももちろんしたのだが、そんなの箸にも棒にも掛からなかった。ここへ来てフレディは初めて、イーサンが爵位を返上していることを知った。のだが。
そんなことはどうでもよかった。というより、それを気にしている余裕はなかった。
周りの人間も、グレマー家の爵位返上からすでに数年経っているらしく『誰それ?』な空気が蔓延していた。
そんな沈黙に包まれた刹那、フレディは思う。
不覚にも見取れてしまった、麗しすぎるあの顔。もう二度と、あの顔は忘れない。
そして、関わりそうだったら逃げる。フレディの今の心はこの一心に尽きた。
だって怖い。あのすさまじい形相に囲まれたときの恐怖と言ったら、親も唖然なほどだった。
一体どうして娘がそんな目の中心にいるのか全く分かっていなかった両親の顔と言ったら、恐ろしさに青くなるフレディも少しだけ笑ってしまうほど結構なものだった。
だがしかし、あの親は親としてどうなのか。
助けに入るのは、まあみっともない気がするからしなくて結構だ。だが仮にもその日の宴の主催者として、もう少しなにかしら配慮するということはできなかったのだろうかとは思う。
まあ公の場で、鬼気迫った形相でたった一人に詰め寄るなんてことをしてしまう方に問題があることは言うまでもないことだが。
本人たちもそれを分かっているから、男どもを閉め出した控えの間でこそこそと行ったに違いない。
フレアもアイザックも同じように唖然としていたけれど、どこか腫れ物を見るような感じの目だったような気がする。
確かに詰められているフレディの傍に、渦中のサンディアルトはいなかった。たった一人であの人数に囲まれているのは、ある種異様な光景だったことだろう。おそらく、彼の人がいたならばそれらの反応は少し違ったかもしれない。
しかしたった一人で、詰められている理由も詳細は不明。そんな輪の中心にいる知り合いに対して、どうしたらいいかなんて自分でさえ分からない。
関わりたくない、の一心だったのだろう。
わかる。大いに理解できる。
きっと自分も輪の外にいたらそう思っていた。
むしろ折角のお祝いの場なのに、こんなしょうもないことでしらけさせてしまって本当に申し訳ないという気持ちが、フレディの中にはいっぱいだった。
だがしかし、自分には一人も味方がいないのかと思うとちょっとだけ泣きそうになったのも本当だった。
そんな情けない姿を親に見られたフレディは、恥ずかしさといたたまれなさに若干吐きそうになったのは言うまでもない。
そして、そんなフレディを見かねて助け船を出してくれたのはアリアディスだった。
なぜか呆れた顔をしていた彼は、それでも涙目で耐えるフレディを見捨てなかった。どうやったのかは不明だが、上手に彼女たちの注意をよそへ向けてくれたのだ。
唯一味方をしてくれた口の悪い上司が、このときばかりは天の使いに見えたものだ。
彼のおかげで会場を逃げ果せたフレディは、言うまでもなく脱兎のごとく駆けだした。
(アリアン様、今度必ずお礼をします…っ!)
起き抜けに心に誓ったフレディは窮屈なドレスを脱ぎ捨てて、持ってきていたシャツとこっそり兄からくすねたトラウザーズを履いて自室を出た。
本来なら侍女に手伝ってもらわないと着ることも脱ぐこともできないドレスだったが、着るときに少しばかり工夫をしておいて正解だった。誰の手も患わせることなく、そして誰にも見つかることなく、さっさとこの場を去れるのだから。
しかし誰にも見つからず去れる、なんて、数分も持たない希望だったと思い知る。
さーて帰るかと思って玄関口に進むと、計ったかのように客間の隣にあるダイニングルームの扉が開いた。
「あら、親に挨拶もしないでどこへ行こうというのかしら?」
「……」
昨日は見捨てたくせに、という文句は口を出なかった。
にこやかに怖い母に半眼で口を引き結んでいると、今度はダイニングルームの隣、二階へ上がる階段下の扉が開く。
「………えっと…」
そこは台所で、朝食だかブランチだか知らないが複数人分を乗せたワゴンが給仕係に押されて出てきた。
ダイニングに続く扉の前で、笑顔でにらみ合っているフレディと夫人を見やって、戸惑ったように給仕係は視線をさまよわせた。
「とにかく、朝ご飯くらい食べる時間はあるでしょう? もうこの際、着替えてこいとは言わないからこっちへいらっしゃいな」
はあ、と呆れた様子を隠しもしない母のため息に反論の余地はなかった。
――だが、実際席に着くと止めておくんだったと瞬時に後悔した。
給仕係が用意するカトラリーが僅かに立てるカチャカチャという小さな音だけが響く中、無言はきつい。
昨日の騒動を見ていた全員がそろっているこの食卓で、なんとも重たい空気が漂っているのだ。
要は、とても気まずい。
給仕係もそうした空気を感じているのか、水を汲んでくれた一人にありがとうと言うと、困ったように微笑まれた。
いたたまれない。
「…えっと、ひさしぶりだね。フレディ。元気にしていたかい?」
せめて何か話題を…と思うが昨日の騒動の件には触れたくない。でもその話題しか脳裏に浮かばなくて困っていると、アイザックが遠慮がちに声をかけてくれた。
「あ、はい。ご無沙汰してます…。アイザック、義兄さん…も、お元気そうで何より…」
です、と尻すぼみに言うと、アイザックはにこりと微笑んだ。
一瞬どう呼ぼうか迷ったフレディだったが、今更他人行儀なのも変だと思って義兄と呼んでみたのだが、正解だったらしい。
久しぶりに彼に会ったフレディは、アイザックの変わらないその優しい顔に安心した。
ほっと表情を緩めるたことで緊張も解けたのか、フレディは意を決してあることを口にした。
「…私まだ、お祝いを言っていませんでした。婚約おめでとう。姉さん、アイザック義兄さん」
ちゃんと笑顔で口にできたか分からなかったけれど、それでも昨日みたいな意味の分からない胸の痛みは感じなかった。そのことにほっとする。
きっと突然のことに受け入れきれてなかっただけだったんだろう。自分で気付いていなかっただけで、混乱していたのだ。
まあその後の騒動が強烈すぎて、正直その時の気持ちはすっ飛んでいたというのが本音だが。
すんなり出てきた祝辞に安堵したフレディだったけれど、ありがとうとはにかむ姉に対して、アイザックは逆に悲しそうなむず痒そうなよく分からない不思議な顔をした。
「…?」
「ああ、いや。…なんでもないよ。ありがとう」
首を傾げるフレディに苦笑うアイザックのおかげで、場の空気が幾分か軽くなった気がした。
それに吊られるように始まった食事から数分して、熊のような風体の父親が咳払いと共に口を開いた。
「それで、お前はどうなんだ?」
「…どうとは、なにが?」
フレディとは対面する形で座っている父親が、さも自然な風を装って言った言葉に手が止まりそうになったが、ぐっとこらえて食事を続ける。
何が言いたいのかだいたい分かったが、フレディはあえて気づかない振りをして聞き返した。
「一体いつ、帰ってくるのだ」
「…は? 今帰ってきてるじゃないですか」
スープに浮いている少し大きめの芋を口に運び、もぐもぐ租借していると気むずかしそうに眉をひそめて言われた言葉に、本気で疑問する。
そんな風に眉をひそめていると、熊のような見た目も相まってちょっと近寄りがたい上に発言しづらい空気が醸される父親のアストメリア伯爵だが、娘のフレディはそんなことなんのそのである。
ちっちゃい頃はそのもじゃもじゃの髭に手を突っ込んで引っかき回して遊んでいた。そして恐怖にも、腕に絡まって抜けなくなって大泣きしたのは忘れられない記憶だった。
しかし何を言っているんだというフレディの態度に、あの時よりはこざっぱりした髭を撫でながらアストメリア伯爵はため息をついた。
「そうではない」
「…え、ずっとって意味? いやいや、帰りませんよ? だって私の職場は住み込み限定だし」
半分嘘だが、通いでは難しい仕事なのも事実なので真っ赤な嘘というわけではない。
だがそれを聞いた父親は、若干気が立ったようだった。僅かに声を荒げて言う。
「だから、その仕事をいつ辞めるのかと聞いているのだ」
「だから辞めないってば。なんなのいきなり…。今までそんなこと一度だって言わなかったくせに」
「それは…っ、と、とにかくだ。いい加減仕事仕事と言っていないで、婿選びの一つでもしないか」
「はあ?」
なんだそれ。と思わず目が点になった。
「だいたい、手に皹や豆を作ってまでそんな仕事をしてなんになる。お前は伯爵家の人間なのだぞ。それをきちんと理解していないから、いつまでもそんな男のようなことを言っているんじゃないのか? もうすこし慎みというものを持ってだな…――」
「…父様」
かちゃり、と小さな音を立てて、手に持っていたスプーンを置いたフレディは、ただ静かに父親の言葉を遮った。
小さな音だったのにひときわ大きく響いたその音に、ダイニングはしんと静まる。
「なんだ?」
「…父様は、私にどうして欲しいの? 家に帰ってきて欲しいの? 結婚して欲しいの? 悪いけど、今の私にはどちらもできない。でもそれは、仕事をしているからじゃないのよ」
そういうフレディの脳裏には、昨日のイーサンの言葉が蘇っていた。
『――家を出たいのならそう言えばいいのに』
その言葉を聞いたとき、どうしてあんなに家に帰ることを頑なに拒んでいたのか朧気だが見えた気がした。
昔から、大人しく令嬢然とすることを耳から教え込まれ、結婚はまだかと詰め寄られる。夜会だ舞踏会だと、縁を繋ぐ為にせっせと足を運ぶことが苦痛だった。
そんな日々が戻ってくると分かっていたからだ。
それは伯爵令嬢である以上、避けては通れないことだと分かっている。けれど、姉と比べて嘲笑っている相手に、一体どう好意を向ければいいのか分からない。
いろいろと犯してしまった失敗をいつまでも取り上げられて上乗せされては、どうしても猜疑の目で見てしまう。
そんなことを言う相手に好意を持ってるはずがないと。
そしてそれらの考えは大抵当たってしまう。陰で囁いているところを見つけてしまうのだ。
別に故意に見つけようと思っているわけではなく、偶然、本当に偶然そういう場面を見つけてしまうのだ。
自分だって好きで猜疑を感じているわけではない。だけどどうしても疑ってしまう。
目の前で楽しそうにしていても、本当は仕方なく作ってくれているだけではないかと。姉が傍にいるから、そうなんじゃないのかと。
そんなのはただの被害妄想だと分かっているけれど、幾度となく突きつけられた事実がこの上なくフレディを疑心暗鬼にしていた。
そんな気持ちを抱えたまま結婚して、その人とずっと一緒にいるなんて自分には耐えられない。
それはただ相手に無理を強いているだけではないのか。
そして何より、それを理解していてそれでも一緒にいて“もらう”なんて自分が嫌だった。
それに…、