01
彼女に声をかける前から、彼女のことは知っていた。皆が口々に彼女の噂を触れまわるからだ。
社交界の華と呼ばれる憂愁の美を持つ姉がいることも、引きこもりがちであまり家から出ないことも。
そんな彼女を自分がはじめて目にしたのは、とある舞踏会だったと思い出すサンディアルトは懐かしさに目を細めた。
出会うずっと前から彼女のことは知っていたけれど、やはり噂など当てにならないと思い知った夜だった。
――昔からどうしてか、彼女はいつも嘲笑の的だった。
いつの頃だったか、みんなが彼女を『劣化品』だと嘲笑っていた。そしてその口で彼女の姉をすばらしいと言って褒めそやす。
当然自分の所にもそんな噂話はいつも流れてきていた。
誰もが面と向かって自分に言わないのは『いい子ぶったお綺麗な公爵様』は話に乗ってくれないと思ったからだろう。
当然だ。良識があれば、それがどんなに無様なことか分かるだろうに。
もちろんサンディアルトはそんな噂を真に受けてはいなかったし、周りと一緒になって触れまわることもなかった。
女性をそんな風に嘲るようには育てられていないし、もってのほかだ。その噂でサンディアルトが認識したのは、頭の緩い連中の品の無さだけだった。
そんなある日、とある舞踏会に参加して欲しいと王女殿下から依頼されたサンディアルトは、二つ返事でそれを了承した。
そうして赴いた舞踏会ではじめて彼女を見たとき、サンディアルトは疑問しか抱かなかった。
どうして彼女が、そんな謂われのない言葉ばかり投げつけられるのか分からなかったからだ。
それほどまでに彼女は、思わず目で追ってしまう容姿をしていた。
色素の濃い人間が多いこの国で、彼女の薄青色の髪はとても異質で、とても輝いて見えた。シャンデリアの光に照らされる髪はそれそのものが煌めいているように美しく、そこに飾られた宝石が放つ輝きも、彼女のそれをいっそう引き立てていた。
しかし他の人間とは一線を画しているように見えたのは、何もその色彩だけではなかった。
見目の美しさはもちろんだが、醸す雰囲気がとても優しいのだ。言葉を交わさなくても分かるほど、その優艶さは彼女の容姿に滲み出ていた。
でもそれだけだった。
確かに彼女は美しかったけれど、美しさだけで言えば彼女の姉の方が上だと言えるだろう。なのにどうして目が離せないのか、このときは自分の心理が理解できなかった。
そんな不思議な気持ちで、目の前にいる彼女を眺めていた。いつものようにちらちらと寄越される視線に気づかない振りをして、どことはなく見ている体を装ってまで。
そんな時だ。彼女が手に持っていたものをうっかり落としてしまったのは。
その日の舞踏会は国王様の主催で、ただでさえ沢山の人がごった返していた。うっかり誰かとぶつかってしまってもおかしくなかった。
偶然後ろにいた自分が、彼女の代わりにそれを拾って渡したのだ。
すると彼女は、ありがとうと言って嬉しそうに破顔した。
その笑顔が暖かくて、まるで陽だまりみたいだと思った。
無表情だと冷たくも見えるほどの美貌に不似合いなほどの朗らかな笑みが予想外で、最初に覚えた印象が一瞬で飛んでいった。想像より少し低いその声は、とても聞き心地がよかったのを覚えている。
偶々後ろにいて目の前で落ちたものを拾って渡しただけなのに、その様が本当に嬉しそうで思わず言葉を失った。
…本当を言うと、声をかけるときに少しだけ緊張していた。
それは自分だけが、噂話を耳にして一方的に彼女を知っている気になっていたせいかもしれない。噂話そのものを信じていたわけではなく、名前だけ耳にする機会が多かったせいで妙な錯覚が生まれていたのだ。
それでようやく彼女から目が離せない理由が分かった。
どんな小さな情報からでもいいから、本当の彼女がどんな人か知りたかったのだ。
そう気づいた途端、誰かに対してそんな風に思ったことが初めてだということにも気づいてしまって変な緊張が走った。
みっともなく初めて抱いた感情に困惑していたのだ。
それ以上の言葉が紡げなくて黙っていると、彼女は行儀よくぺこりと頭を下げるとそのまま踵を返してしまった。
そのことに呆気にとられる気持ちと僅かな落胆の気持ちが綯い交ぜになって、正直その後の国王陛下との会話なんか上の空だった。
別に微笑みかけられることが初めてというわけでもないのに、どうしてか彼女のその顔が頭から離れなかった。
その後の反応も、サンディアルトにとっては予想外だったからかもしれない。
ただお礼を言っただけで立ち去った彼女に、思わず唖然としてしまったのだ。
けれど暫くして騒然となった会場の視線が集中する先で、青い顔で頭を下げる彼女を見て愕然とした。
一部始終を見ていた誰もが、彼女の所為ではないと分かっていたくせに誰も助けようとしないその様に、思わずサンディアルトは一歩踏み出そうとした。
しかし既の所で、やめておけと止められてしまった。
今出て行けば、余計に彼女の立場を悪くするだけだと言われて何も言い返せなかった。
聞けば彼女が他の令嬢に絡まれる原因を作ったのは自分だという。そんな自分が出て行けば、いっそう彼女が詰められる要因を作ると気づいてしまった。
落とし物を渡しただけだとしても、あの時自分が声をかけたのは失敗だった。もっときちんと後のことを考えていれば、誰かに頼んで渡してもらった方が数倍マシなことくらい分かったはずだ。
そうは思っても、サンディアルトは自分で声をかけたことを後悔していなかった。彼女のあの声と態度があったおかげで、その日は少しだけ楽しかったのだ。
何があったわけではないが、こんな時はいつも仕事としか捉えていなかったサンディアルトは、たぶんすこしだけ浮かれていたのだろう。…まあ彼女に取ってみればいい迷惑でしかなかっただろうが。
結局その日、自分のせいで彼女は詰められていたのに、何もできなかった。
その後も夜会で見かける度にきちんと謝りたいと思っていたけれど、なぜか彼女には一歩も近づけなかった。
いつも誰かと話をしていたり、気がついたら姿が見えなくなっていたり、兎にも角にもその繰り返しだった。
そうこうしていたら、いつの間にか彼女は公の場から姿を消した。
あの舞踏会以来、無意識に彼女の姿を探していたサンディアルトは、目当ての人の不在続きに落胆した。
姿が見えなくても揶揄する声はそこかしこに蔓延っていて、見たい本物を得られないサンディアルトにとっては焦燥感さえあった。
世間では天の使いだなんて言われているサンディアルトだが、実際に天の使いであるわけはなく、普通に我も欲もある人間だ。
誘いを断るほど無粋でも堅物でもないつもりだけれど、自ら寄ってくる女性たちの目に灯るのは打算的な光ばかりで、微塵も食指は動かなかった。
おかげで部下の一部からは『いい子ぶったお綺麗な公爵様』などと言われる始末。本当に情けない限りだと、知ったときは言葉もなかった。
たった一言、たった一瞬だったけれど、サンディアルトの心を掴んだのはフレディだったのだ。
もう一度あの顔を向けて欲しい。嬉しそうな声で、他のことだって教えて欲しい。そう思う気持ちが日に日に膨らんでいった。
――そんな時、またしても予想外なことに見舞われてしまった。
それはとある任務の途中だった。友人が誤って使った魔術に巻き込まれて、気がついたらこんな姿になっていた。
『うっかり』掛かってしまったその術のせいで、サンディアルトは世間から身を隠す羽目になってしまったのだ。
四本の長い爪に皮膜の羽根、少しだけ硬い鱗がなんなのかこの国の人間なら誰もが知っていた。
まさか竜種になったなんてと最初は戸惑ったが、文句を言っても落ち込んでも元に戻るわけではない。なってしまったものをどうこう言っても仕方ないと腹を括った。そういうリスクを承知の上で、彼の扱う魔術に頼っていた自分の落ち度だと思うことにするしかなかった。
この国では昔から魔術のたぐいは忌むべきものとして、扱う人間を軽視される傾向が消えずに残っている。
けれどそんなことを言っているのはこの国だけで、そんなことを言っているからこそいつまで経っても“危険なもの”という認識が消えないでいた。竜種については先鞭かも知れないが、でもそれだけだ。
しかしそれを改善できないうちに隠れて利用していた手前、周りになんとかしてもらうことはできない。頼れるのは、誤ってかけてしまったと笑うあの魔術馬鹿の友人だけだ。
しかし不思議なことに竜種に変じているのは昼間だけで、夜になると元の人間の姿に戻った。
それを見て『なーんだぁ…』と残念そうに呟く友人はこの際捨て置くことにして、それなら昼間身を隠していれば問題ないだろうと高をくくっていた。
しかし暫くすると夜になっても人間に戻らないときもあれば、昼間になっても竜種にならないときもあった。そんな時は決まって前置き無くいきなり変じたりするのだ。
しかしもっと時間が経つにつれて、昼間は確実に竜種になってしまうようになった。ここへ来て本当に困り果てたサンディアルトは、耐えかねてもう一人の友人であるアリアディスに相談したのだ。
アリアディスの提案でしばらくは竜種飼育所近くの森なら安全だからと、そこへ身を隠すことにしたのだが森へ移動してから数日でそれは起こった。
一体誰が設置したのか、野犬用の虎挟みに引っかかってしまったのだ。
そこを偶々通りかかったフレディに見つかって、今に至るというわけだ。
見つかったときはどうしようと若干焦っていたサンディアルトだったが、一瞬驚いた顔をした彼女は、それでも嬉しそうに手招いてきた。
ずっと欲しかったそれが意図せず得られて欣快したけれど、はっと我に返ったサンディアルトは彼女の手から逃れようと暴れた。その時にうっかり彼女の腕を裂いてしまったのだ。
忘れていた。仕舞うことも取り払うこともできない鋭い爪が、今の指には付いていることを。
痛みに呻いた声で自分の犯したことに気がついたけれど、もう遅かった。なのに彼女は、自分の方が酷い怪我なのにそんなのはそっちのけでサンディアルトの手当てをしてくれたのだ。
竜の皮膚は硬くてそうそうなものでは傷つかない。それは変わってしまった自分も同じだった。あの虎挟みはまだ新しいのか鋭利だったが、それでも大したことは無かったのに。
サンディアルト自身に向けられたわけではないのに、他人を優先させるその優しさに心を打たれた。
接すれば接するだけそそられる興味心が、もっと彼女と一緒にいたいと思わせた。
しかしこんな形でも願いが叶ったサンディアルトの浮かれた心を打ち砕いたのは、こっそり彼女に付いていった町医者でのことだった。
自分が付けてしまった傷を診て跡が残ると言われたのを聞いたとき、取り返しの付かないことをしたと血の気が引いた。
しかし彼女は特に嫌悪するでもなく『そうか』と言っただけだった。その顔は強がっている風でも我慢している風でもなかった。ただありのままを受け入れているようにサンディアルトには見えたのだ。
そんな意外性を見つければ見つけるほど、もっと彼女から目が離せなくなっていった。
せめてその傷が治るまでは近くで見守りたいと思ったサンディアルトだったけれど、彼女の側が想像していたよりもずっと心地よくて、気がついたら傷が治ってもと言い訳をし始めている自分がいた。
窓辺で俯せていた体を掴まれてベッドに連れ込まれたときはさすがに戸惑ったけれど、彼女から香った石鹸の匂いと陽だまりのような暖かさに、自分でも驚くほど安心感を覚えていた。
このまま寝入っては不味いと分かっていたが、幸いにもその日は夜になっても人の姿には戻らなかった。
それを安堵する日が来ようとは微塵も思っていなかったが、ほっとしたサンディアルトは次から気をつけようと心に誓った。
それでも彼女の傍らは居心地がよくて、町外れの丘から飛んでこいと放されたときはこのまま姿を隠すのが最善だと分かっていても、できなかった。
このまま縁を切りたくなかった。たとえそれが、自分しか知らない繋がりだったとしても。
そんなサンディアルトは、気がつけば彼女のことばかり考えていた。
あの日彼女の肩の上で、初めて周りから投げかけられる言葉を聞いた。
彼女自身は全く取り合っていないようだったけれど、見ず知らずの人間からも謂われない言葉を投げかけられることに傷付かないはずがない。
何も表情に出さないのは取り合っていないからなのか、はたまた聞き飽きていただけだったのか。サンディアルトには分からなかったけれど、そこに至るまでにどんな気持ちで過ごしていたのかと思うといたたまれなかった。
なのに彼女が怒って見せたのはやっぱり他人のことで、それが信じられないくらい歯痒かった。
自分が傍にいたならそんなことは絶対言わせない。そう思うと一度は喜悦したこの状況が、悔しくて仕方が無かった。
しかし彼女の直接の上司がアリアディスだと知らなかったサンディアルトは、さすがにあの時は冷や汗をかいていた。特に咎められなかったのは、彼女を見張っている人間も必要だとアリアディスも感じていたからだろうと勝手に思っておくことにした。
浴びせられる罵声と嫌悪に、サンディアルトもそう思っていたからだ。
無関心にも近い受け流しは、時として他人の悪意を生んでしまう場合だってあるのだ。
そんなことを考えながら飛んでいたら、いつの間にか彼女の所に戻っていた。
それに困った顔一つせずに随喜の笑みを見せられたときは、ぎゅっと素手で心臓を掴まれたかと思ったほど切なくて嬉しかった。
その顔を本当の自分にも向けて欲しい。
そんな感情に突き動かされるように、夜に体が戻ったときに友人を訪ねた。さっさと元に戻す術を見つけろとせがむ為だった。
その時怪しげな薬を渡された。不規則な変動が僅かに抑えられると言って渡されたそれを渋々飲むと、夜は必ず人間の姿に戻るようになった。
それはそれでなんだか残念に思ったのはこの際内緒だが、そんな時だ。彼女の兄がやってきたのは。
すると彼女は珍しく夜会に出席すると言って実家に戻った。それに内心チャンスだと思った。
今なら夜は確実に人の姿に戻れる。そう思ったサンディアルトの行動は早かった。
いつ術を解けるかを、待っていられるような余裕はもうなかった。
たとえ自分を受け入れてもらえなくても、望むように笑いかけてもらえなくても、知り合う一歩が待てなかったのだ。
きっと彼女は自分のことなど、気にもかけていないと知っているからこそだった。
だからこそむやみに出て行けない自分の代わりに、アリアディスに頼んで手を回してもらった。それほどまでに、数年前の焦れていた時期が尾を引いていたのだとここへ来てようやく自覚した。
そうでなくても彼女は公の場に出てこない。理由はよく分かっているけれど、それはそれこれはこれなのだ。
加えて久しぶりに見た彼女のドレス姿は、思わず見惚れてしまうほど綺麗だった。
群青と漆黒の色彩が絶妙で、彼女の白い肌にとてもよく映えていた。その佇まいは、社交界から遠ざかっていたなどと微塵も感じさせない洗礼さがあり、やはりどこで何をしていても彼女は伯爵令嬢なのだと思わせる気高ささえ滲んでいた。
しかしサンディアルトは、普段の作業着姿の方がずっと好ましく感じていた。
あの格好をしている彼女からは、いつも優しい石鹸と陽だまりのような匂いがするのだ。サンディアルトは、その香りの近くにいるのが好きだった。
けれど綺麗に着飾っている彼女からもいつもと同じ香りが漂ってきて、鼻につくような媚びた香水臭など微塵もしなかった。それどころかより清々しい香気がして、思わずその身体を強く抱きしめたくなってしまって、実は結構困っていたのだ。
そんなことをすれば、ただでさえ男が嫌いなのに信頼を得るどころの話ではなくなってしまう。
しかしそんな心情など当然知らない彼女が、実際サンディアルトに見せたのは終始困惑顔だった。
それでもいいと思っていたけれど、思うのと実際受けるのとでは全然違うのだと分かった。実際に向けられるとなにがどうあれへこんでしまうのだなと、今なら冷静に認識できる。
竜の時はあんな笑顔を向けてくれたのに、彼女はどこまでも徹底していた。