02
くそ。なんてことだ。
フレディはにこやかに微笑みながら、差し出される手を握り返して淑女にあるまじき悪態を心の中でついていた。
(婚約パーティーだって、教えてくれても良かったのにっ…!)
なぜだまし討ちのような文言を並べて引っ張ってきたのか、そのことにフレディは憤慨していた。
まあ、別にいいのだ。誕生パーティーだろうと婚約パーティーだろうとフレディがすることは何も変わらない。
そう。今フレディは実家のアストメリア家の主催するパーティーに、主催者側の人間として挨拶をしていた。
姉フレアの婚約パーティー。実家に帰って聞かされたその言葉に、一瞬思考が停止したのは言うまでもない。だって単なる誕生パーティーだと思っていたからだ。フレディは、ゲイルの「今回は特別だ」という言葉をまったく信じていなかった。
――しかしなぜ、嫁に行く方が主催者なのだろうか。
変なの、と思ったがそこはあえて追求しなかった。もうこうなってはどっちでもいいことだし、何よりそんな気力はなかった。
確かに、姉は今年で二十三だ。遅すぎると言ってもいい婚約に、貴族世間は騒然となった。…らしい。
なぜか憶測の飛び交うその「騒然」がなんなのか、言われなくてもフレディは分かっていた。
社交界の華。姉のフレアは貴族のあいだではそんな通り名だった。美しく清楚で、それでいて華があるフレアは、二十三という年で独身であったとしてもなぜか嘲笑一つされなかった。というか、結婚という概念が押し掛からない不思議な雰囲気があったようにも思う。
それはいつまでも変わらない美しさを保つ、フレアの隣に座る可能性を掴みたい男たちの願望だったのだろうか。もしかしたらという一縷の望みを誰もが持っていたのかもしれないが、令嬢のあいだでも姉を嘲笑する人間をフレディが見たことはなかった。それほどまでに、彼女の美貌は異次元なのだ。
自分とは雲泥の差である。
フレディなど失敗一つも漏らさず拾い上げ、揚げ足を取られるというのに。
不公平だと思うが、妹の立場から見ても姉は言葉もないほど美しかった。
それでいてその美をひけらかすことをしない。控えめで清楚なフレアは家族にも他人にも優しくて、淑女の鑑と言って過言ではないほど模範的な令嬢だった。
だからこそ、その妹であるフレディは『劣化品』というレッテルがいつまでも取れないのだ。
姉のように青々とした艶やかな髪に比べて、全体的に色素の薄い自分の髪はまるで水で薄めたような薄青色をしている。混じりけのないそのゼニスブルーと違って、少し紫色に濁って見える自分の髪を誇りに思ったことは一度もなかった。
瞳の色は辛うじて同じだが、ぱっと見た印象では本当に『劣化』だと言われても仕方ないものだった。
加えて性格も所作も、姉の方が優雅であることは自分自身分かっていた。
一応令嬢としての礼儀作法を習ってきたフレディだったけれど、基本的に動くことが好きな自分は緩やかにお淑やかに、ということがどうにも苦手だった。
特に緩やかに、という部分に関しては如実だった。ともすれば一見億劫そうに動くのが優雅と言われているのだが、そこまで緩やかには出来ない。ついついさっと動いてぱっとやってしまうのだ。
人前に出るときは気をつけているけれど、それでも根本的なところが直っていないのでうっかりしていると素が出てしまう時があるのだ。
せわしないのは苦手だがおっとり過ぎるのも苦手なフレディは、自分のペースというものをいい意味で崩せなかった。
そう思うと、もう姉と比べることさえ恐れ多く感じてきて何気に落ち込む。
そんな姉が、結婚するという。
(いや、まあ、不思議なことではないんだけど…)
苦汁を飲んでいる男がそこかしこにいるが、彼らはおそらく自分というものがあまりよく分かっていない分類の人たちだろう。そうでない人たちは、どちらかというと相手がどのような男なのか興味津々といった印象を受けた。
しかし全体的に、なんとなく会場の空気は重い。妻帯問わず、社交界の華は拝めるだけで眼福と言うことなのだろうか。そんな人が誰か一人のものになってしまうという事実は、少なからず皆に落胆をもたらしているのかもしれない。
お祝い事なのだからもっと盛大に、歓喜溢れる空気であると思っていたフレディはなんだか拍子抜けだった。
そんなフレディは、実は未だに姉の相手が誰なのか知らない。
それもそのはず、この二年家とは一切連絡を取らなかった。何かあれば――おそらく無くても気を利かせてくれたであろう――兄がフレディにいろいろと近状を教えてくれていたから、困ることもなかったのだ。特に引き摺られて家に連れ帰られることもなく平和だったし、兄もなぜかそこは言及しなかった。そんな兄も、姉の結婚に関することは教えてくれなかった。
(だから今の今まで知らなかったのだけど)
それでも最後の最後まで悪あがきをしていたフレディが帰ってきたのはぎりぎりで、帰ってくるなり侍女たちに取り囲まれてしまったのだ。
もっと早く帰ってこいと侍女長に怒られるかと思っていたのだが、お祝いムードのなか彼女はそんな野暮なことはしなかった。
そんなフレディが準備を終えて部屋を出ると、じゃあ行くわよと母に引っ張ってこられたのは、このなんとも豪勢な会場だった。なぜ自宅ではないのかという疑問も許されない忙しなさで、まず始めにさせられたのが用人たちの受付と案内だった。
それは母の仕事だろうと思いながらも逆らえず手伝っていると、なぜ手伝いが必要だったか思い知った。
だって人数が半端ない。
この会場に到着してから、フレディは休む間もなく口を動かしていた。そろそろ喉が限界なのだが、それでも人の波は止まらずに席を外すことも出来ない。
…どうしてこの王室御用達の会場を借りたのか納得だった。この人数は我が家の屋敷には到底入りきらない。
それほどまでに、姉の婚約は注目の的だということだ。
(なるほど、どうりで)
挨拶とともにあちらへどうぞと案内をしながら、フレディは兄のすっぽかしは許さないと言った意図を理解した。
(さすがにここですっぽかしたら、もう日の目は見られないよな…)
まあ兄にとっては、いまさら妹がどんなレッテルを張られようが知ったことではないのだろうが、あまりに自由すぎると今度は家の肩身が狭くなる。それだけは避けたかったのだろう。
フレディとしては別にそれでもかまわないのだが。
(…しかし、わざわざここまでするってことは、姉の相手は格上なんだな)
そう心の中で思いながら、納得した。
良くも悪くも伯爵令嬢として非のないフレアが受け入れた人だ。そんじょそこらの穀潰しではないことは想像に難くない。
ちょっとだけどんな人か興味がわいたフレディだったが、開催時間が迫るにつれて人の波がどんどん増えていく中、そんなよそ事を考える余裕がなくなった。
その間も、あれが噂の妹だと不躾な視線が痛くてかなわなかったが、もう気づかないふりをした。
とりあえず今は、やるべきことをやろう。それでちょっと顔を出したら、さっさと帰ろう。
そう心に決めて、その時を待ちわびるように今の仕事を精一杯頑張った。
――くそ。まったくふざけている。
会場の端っこで小さくなりながら、照り返る床を見つめるフレディは呪いの言葉を呟いた。
最後の招待客を案内した後、大部屋の控えの間としている部屋の飲み物の追加と片付けを買って出たフレディは、その部屋で待機して姉の相手を一目見たらさっさと帰るつもりだった。
それに目ざとく気づいた母が、いつまでも会場に足を踏み入れないフレディにいったいどこへ行くつもりだとにこやかに詰め寄ってきたのだ。
その顔に危機を感じて、もうこれは隠しても仕方ないと思ったフレディは、会場内に入りたくないと子供みたいなわがままを口にした。そしてそれを聞いた母は、当然のようにフレディの言い分を却下した。
「いつまでも子供みたいなことを言っていないで、すこしは愛想を振りまいていらっしゃいな」
そう言って一人で放り込まれたフレディは、いつものようにちくちくと痛い視線が容赦なく降り注ぐ中、小さくなるしかなかった。
まるでさらし者にされているような気になったフレディは、隠れるように隅っこを陣取って今に至る。
こんな時こそ空気になりたいと切に願っていた。
「……」
ぐるりと会場を見渡すと、広い会場はたくさんの人であふれかえっていた。綺麗に着飾った令嬢たちの首元を飾る宝石たちが、たくさんのシャンデリアの光に照らされてきらきら煌めいている様はとても豪華だった。
今か今かとそわそわした空気が生まれている場所もあれば、知り合いと楽しげに談話する者たち、これを機に自分もと気合いの入った目をした令嬢の輪など、たくさんの思想が煌びやかな空気に溶けていた。
そんな中、知った顔を見つけたフレディは思わず眉を持ち上げる。
(アリアン様…)
さして楽しくもなさそうに初老の男性と話をしているのは、フレディの上司のアリアディスだった。
まさか彼まで来ているとは思わなかった。しかし彼は、あの若さで侯爵家の当主だったと思い出したフレディは何もおかしくはないことに気がつく。
声をかけた方がいいだろうかと思ったけれど、結構距離がある上に相手は会話中だ。楽しくはなさそうだが会話は弾んでいるらしく、二人の会話は途切れなかった。
少し見守った上で、やめておいた方が良さそうだと判断したフレディは、結局一歩も動かなかった。
「……ふぅ」
疲れた気持ちを吐き出そうと、一つ息を吐く。
まだ始まってもいないのに会場は人々の熱気が充満していて、息苦しささえ感じてしまう。
いや、息苦しいのは会場の空気だけではない。実際に肺に圧が掛かっているせいでもある。
必要以上にコルセットで締められた腹回りが苦しくて仕方ない。前に着たのは二年以上前だがその時はこんなに苦しくなかったはずだ。
一瞬いつも楽な格好ばかりしていた所為かと思ったけど、はたりと思い至る。これはあれか、二年のあいだに大分太っ――。
…いや、違う。断じて違う。こういう場所に慣れていない所為だと自分自身に言い聞かせた。でも料理を目の前にすると、どうしても腹が空いてきた気になるから困る。
少し外の空気が吸いたいなと思ったが、外に出たくても母の視線に遠くからでも射貫かれているのが分かるからそれも出来ない。
どうしようか迷っていると、不意に会場内が一斉に沸いた。視線を上げると、姉のフレアが一人の男性に腕を引かれて会場に入ってくる姿が人の波の隙間から辛うじて見えた。
姉の隣に立つ、周りの波より頭一つ分飛び出ている男性を見て、フレディはああそうかと納得した。
それと同時に落胆した。
彼はフレディが出会った、唯一自分と姉を比べない人だったからだ。
「………」
周りを囲う人たちが口々にお祝いを述べる姿を、ただぼうっと眺める。
きっと出会いはフレディの方が先だった。街へ買い物に出たときに、たまたま知り合ったのだ。
彼はアイザックという名の貴族だった。最初彼は何かを探すように、道の側の草むらを歩いていた。
何をしているのかとじっと見ていると、フレディの視線に気づいたアイザックは困ったように笑いながら、妹が落とした物を捜していると打ち明けてきたのだ。それなら手数は多い方がいいと思って、自分も一緒に探すと申し出た。
するとぎょっとした顔でそんなことしなくていいと制止されたが、二人で探した方が早いと言うと、彼は困った顔をしながらもありがとうと言って許してくれた。
令嬢にあるまじきその行動を、咎めるでもなく笑って許してくれたことに勇気づけられて、フレディも持っていた日よけ傘を使って、本気で草むらを探したのを覚えている。
そうして探したものは、数分もしないうちに無事に見つかった。お礼をするといったアイザックに、断りを入れて本来の用事を済ませて帰宅したのだ。
そんなたいそうなことはしていないし、困っているのが分かっていて見て見ぬふりが出来なかったというだけの話で、礼をもらうようなことではない。名前も名乗らないのは無礼かと思ったが、少し急いでいたフレディにそのことを気にする余裕はなかった。
日々の中にある小さな変化だと思っていた矢先に、出席した夜会で再び彼に会った。
その時すでに姉と並べ立てて劣化品だと嘲笑されていたフレディは、側にいた姉にさっと心が曇るのが分かった。「ああ、まただ」と思ったのだ。
当たり前のように姉と比べて姉を褒め讃える。もう恒例となったその流れに、当然彼も同じだと思った。
けれどアイザックがしたのは、一番にフレディに先日のお礼を言ったことだった。まさか覚えているとは思わなかったフレディは一瞬ぽかんとしたけれど、その実すごく嬉しかった。
たったそれだけだったけれど、姉を伺い見るでもなくまっすぐに自分を見てくれたことが初めてで、嬉しかったのだ。
その後も彼は、自分と姉を比べるような発言は一度もしなかった。
今思えば、優しくて誠実な彼に淡い恋心を抱いていたのかもしれない。だから今、こんなに気持ちは沈んでいるのだと言われたら納得だった。
唯一、フレディを姉と比べない人は、他の人と違わず姉を見初めたのだ。
「………」
遠くから眺めても美男美女であることが分かるほど、目鼻立ちのはっきりとした二人はとてもお似合いだった。
別に恨み言を言うつもりなど毛頭ないが、なぜか彼には姉ではない人を選んで欲しかったと思ってしまった。
何も努力しなかった自分が、そんなことを思う資格など無いのに。
幸せそうに笑うフレアに微笑み返すアイザックの姿に、形容しがたい気持ちがふつふつとわき起こった。
遠くからならばずっと眺めていたいような、でも同じ空間には居たくないような、よく分からない気持ちになったフレディは、会場のわき起こりに乗じて外へ出た。
「――はぁー…」
バルコニーに出たフレディは、夜の空のひんやりと冷たくて心地よい空気に一つ息を吐いた。
フレディが出た場所は会場の西側で、バルコニーは続階段から下へ降りられるようになっていた。降りた先には綺麗な庭園が広がっている。
こんなに広く盛大な場所に来ることなんか無いに等しかったフレディは、気落ちしていたくせに目の前の庭園に思わず感嘆した。沈んだ心も一瞬で持ち上がるほどの美しさだったのだ。
白い薔薇と霞を彩るように黄色の天竺牡丹が綺麗に相まって咲いているその中に、小さな四阿が見える。白い柱に支えられた屋根は夜の空に溶けるような瑠璃色をしていた。
石畳は白い大理石なのか、月の光を反射して煌めいていた。冷たく清廉な印象を受けるが、青白い光の中には建物から零れたオレンジ色の光も混ざっていて、仄かに暖かさがあった。
あまりの美しさに好奇心がくすぐられて、下に降りようとした瞬間後ろからくすくすと複数人の含み笑いが聞こえてきた。
「――あら、重たいため息ですこと」
一体何だろうと振り返るのと同じくして、令嬢にしては少し低めの声がフレディに話しかけてきた。
「おめでたい席ですのに、どうされたのかしら?」
バルコニーの手すりを掴んだまま半分体を引いて振り向いたフレディを見ていたのは、三人の令嬢だった。
彼女たちはそれぞれの色鮮やかな装いに身を包んでいて、愛らしい明るい色合いのそれらは彼女たちにとてもよく似合っている。けれど、その表情は別だった。
美しいドレスに不似合いな、相手を貶める黒い顔だ。一瞬でただ好意的に声をかけたわけではないとわかるそれらに、フレディは嘆息しそうになった。…まあ、いつものことなのだが。
まるで心の内が滲んでいるようなその顔に、少しは隠せばいいのにと思ってしまうのも、いつものことだった。
おそらくフレディより若い。まだ少女のような顔つきの彼女たちを、フレディは見たことがある気がした。
はて、誰だっただろうかと記憶を探る。そして一瞬後思い出した。
いつも夜会や舞踏会で、ここぞとばかりにフレディを足止めすることに精を出していた令嬢たちの中の数人だ。当然ながらに名前は知らない。
おそらくこの彼女たちは後釜だろうと思った。フレディはデビュタント当初から悪い意味で目立っていたし、結構叩かれていたのだ。自分よりも年若い彼女たちは、きっとその先駆者たちに習っているだけだと思った。
だが今日はその先駆者たちの顔がない。どうしたんだろうと首をひねったところで気がついた。
おそらくその人たちは会場にいるのだ。姉に祝いの言葉を述べる方が、優先すべきことである。そんな先駆者たちに変わって、彼女たちは人気の無い場所に足を進めたフレディを見つけていそいそとやってきたという所か。
飽きもせずよくやるものだと感心したフレディは、今回もまた、にこりと笑って受け流すことにした。
「…いえ。お気を悪くされたなら申し訳ありませんでした。久しくこのような場所に足を運んでいなかったもので、すこし人の熱に酔ってしまっただけなのです。お気遣いいただき、ありがとうございます」
そうしてフレディは、言葉に詰まった彼女たちを無視してぺこりと恭しく頭を下げた。
ややして上体を起こしたフレディを見ていたのは、すべてが驚愕の表情だった。
なんでそんな顔になるのか不思議だったが、それを顔には出さず笑みを浮かべたままフレディは少し首を傾げてみせた。
先駆者たちはすでに結婚している人たちがほとんどだ。この人たちとフレディは接点がないと言って過言ではないのに、彼女たちは一体自分の何が気に入らないのだろう。
(会ったこともない人にああだこうだ言われるのって、結構面倒なんだよなぁ…)
なぜなら、何を言っても通用しないからだ。彼女たちの中でフレディという銅像が着ている服ははじめから決まっている。だから何を言おうと、それらが剥がれ落ちることはないし、訂正されることはない。強いて言うなら、悪噂くらいなら新たに加えられるかもしれないが。
今日、街には歌劇が人気を博しているらしいが、役者の彼女たちが追っかけに苦労しているという言い分が、少しだけ自分にも分かるような気がした。向けられる感情は全く真逆ではあるが。
事実フレディは、自分が他人からどう思われていてもすでに気にしない域に達していた。
元々あまり気にしない質だったが、いろいろあったフレディの心は鋼とまでは行かないが結構な強度に成長していた。
それに本当の自分がどうであれ、周りからしてみればフレディは『劣化品』で『御破算』で『王女の顔に泥を塗った恥知らず』に変わりないのだから。
ほぼ事実と相違ないのだが、自分がなんと言おうとそれは変わらないし、訂正すればするほど墓穴を掘るのは分かっていた。だから沈黙を貫いていたのだが、まさか次の世代にまで持ち越されるなんて思ってもいなかった。
社交界から遠ざかれば、フレディの噂なんか時の産物として流されてもいいものなのに。
――ちくしょうめ。