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度肝を抜かれるというのはこういう感覚を言うのだろう。
体長30メートルにも及ぶ巨大蟻。
――同じサイズであればドラゴンをも凌駕する。
俺はまたそんなことを思い出していた。
30メートル級ともなれば立派な成竜である。豊富な魔法の知識と堅牢な鱗。鋭い爪と牙、鳥よりも秀でた飛翔能力。
最強の魔人・魔王と問わればまあ俺様だが、最強の種族と問われれば俺でも他の魔王でも口を揃えてこう答えるだろう。
『ドラゴンである』と。
ただそれは、一つの前提条件があってこそなのだ。
それは単純に、『ドラゴンと同じサイズの虫が居ない』ということ。
虫は弱い。しかしそれは小さいからだ。
虫の甲殻はとても強固だ。だが小さいために踏みつぶされる。
虫の力はとても強い。しかし小さいために動物にエサにされる。
その顎も、その脚もすべては小さいが故に他の種に負けている。
しかし、もしも巨大な虫がいたら?
人間サイズの虫がいれば、地上で力で虫に勝さる生物は存在しなくなる。飛ぶ虫なら飛翔能力で、泳ぐ虫なら遊泳能力で勝てる生物などいなくなる。
ならドラゴンと同じサイズの虫が居ればどうなる――?
解るわけがない。
何故ならそんな虫など見たことがないからだ。
しかし実際に目前に、ドラゴンよりも巨大な蟻の化け物が存在する。
俺は初めて畏怖という感情を抱いた。中には敬意というものも混じっている。
こいつと同じ大きさのドラゴンなら数十匹纏めて相手が出来る自信がある。しかし、俺はこいつを相手する自信はない。
何故ならドラゴンは魔法こそ強力だが、鈍い。遅すぎるのだ。大きくなればなるほど強く、しかし鈍重になっていく。
しかし蟻ならばどうだ。大きくなれば遅くなるのか?いやそれはないだろう。げんに俺を運んだ蟻はかなりの機動性を見せつけてきた。
この30メートルの巨大蟻。その規格外の顎が、猛スピードで襲ってきたとしたら――。
俺は初めて、死を覚悟した。
「くっ、俺をどうするつもりだ」
俺の問いかけを聞くと、巨大蟻は何故かガガガガッと顎を鳴らし始めた。
俺を恐れている?
確かに魔力量は俺の方が多いのは比べるまでもない。しかし俺の行動よりも早く俺を殺すことなど、この巨大蟻には造作もないはずだ。
では、何故?
「なんと。 言葉も操れるのですね。 さあ母にその魔力を見せてください」
――む?
問いただす点はいくつもあるが、まず先ほどの女性の声は間違いなくこいつのものだった。
次に、言葉を操れる?
当たり前だろう。こいつには俺が一体何に見えているというのだ。
まさかやはり太りすぎて俺の強靭な肉体はただの肉塊へと変わり果てているのだろうか。
そして母?
まあ女の声だったし雌なのだろう。
──ああ、なるほど。蟻には一体のボスが存在すると聞いていたが、こいつがそのボスであり、そして全体の母親というわけか。
つまるところ、母として先ほど俺をここまで連れてきた蟻に命令をしているということか。
この肥え太った魔人に魔力を使わせてみよ。と。
しかし俺の魔力を見てどうするつもりだ。
そうか、俺がどのくらい上質な餌か見定めるつもりだな。
いいだろう。だが先ほど貴様に畏怖したとしても、俺様は暴君と謳われた最強の魔人、魔王アングルクス=ドラド。果たして餌として喰いきれるか己の眼でしかと見るがいい!
「ぬうううううううううおおおおおおおお!」
俺は腹の底に力を溜めた。
全身に魔力を循環させ、体内の全ての魔力を練り込んでいく。
膨大すぎる魔力は光を放ち、俺の全身を紫色の淡い輝きが包み込む。
どうだ!
この絶大なる魔力!俺様は自負している!俺に並ぶ魔力量を有する生物などいないことを!!
さあどうする巨大蟻、これでも俺を喰らうか!?これほどの魔力を取り込めば、貴様の体は耐え切れず融解し消滅するぞ!
「おおこれがわが娘・・・。 次期女王に相応しい器。 私は感激しております。 これほどの力を持つ子が私の娘になってくれたなんて・・・」
――むむむ???
何故か知らんが、思っていた反応とかなり違うぞ。
俺の予想では『おおこの魔力はかの魔王様の魔力。 どうか今までの非礼をお許しください』とか言って頭を垂れると思っていたのだが。
そして娘と言ったか?どういうことだ?
「ま、まて貴様、今なんと言った? 俺様を我が娘とほざいたか?」
その瞬間、眼にもとまらぬ速さで、あの巨大な顎が俺の真横の地面に突き刺さった。
全く反応が出来なかった。
風切り音とザクリという何かが地面に突き刺さる音が聞こえた後に、巨大な顎が俺の真横に深々と突き刺さっていることに気づいたのだ。
なんという速さ。やはり俺が奴に抱いた感情は間違いではなかった。
俺を一瞬で殺すなど、こいつには造作もないのだ。
「ぬお!?」
「娘よ、私はあなたの母なのですよ。 なんという口の聞き方をするのです。 私を呼ぶときはちゃんと『お母様』と呼ぶのですよ。 ですがこれが親子喧嘩というものなのですね。 なんと尊き物なのでしょう」
なんなんだこいつは。
いつから俺が貴様の娘になったというのだ。
俺は多分、いや完璧に俺は雄の魔人だぞ。
しかもお前を母と呼べだと?狂っておるわ。
これも全てベリスの悪知恵なのか?だとしたら悪戯がすぎるぞ。
「おいきさ」
貴様と言いそうになって、巨大な顎が揺れ動き、俺は言葉を続けるのを辞めた。
「お、お母様・・・」
「おお、おお娘よ。 私のことを母と呼んでくれましたね」
巨大な蟻はぐらぐらと揺れ動いた。
身もだえするように震え、それに連れて洞窟も揺れ動いた。
ええいわけのわからんやつめ。
貴様が呼べといったから呼んだのだろうに。
「娘に母と呼ばれる・・・。 なんと幸せな気持ちなのでしょう。 さあもう一度呼んでみてください」
「え? あ、お、お母様」
「ああ、ああなんという恍惚な響き。 さあもう一度」
「・・・お母様」
「ああああん。 なんと夢心地な言葉。 さあもう一度」
と、俺は十数回に渡ってお母様と言わされた。
そのたびに『お母様』は地震を伴って揺れ動いた。
なんなのだ本当に。
「あ、あのお母様」
「んんふう。 どうしたの我が娘よ」
「いや、まだその娘とか、母とか、意味がよく解ってないんだが、いや、ないんですが」
「ああ言葉を解し膨大な魔力を持って生まれても、まだ赤ん坊ですものね、仕方がないわ。 あなたは私が産んだのですよ。 だから私はあなたの母で、あなたは私の娘。 親子っていうのよ」
――なんだと?
「でも本当に幸せだわ。 私も多少の魔力を持って生まれたけれど、そのせいで母から見捨てられ一人でこの家を築いたの。 辛いことも沢山あったけれど、全部この日のためだったのね。 他の娘、あなたのお姉さんたちも少しずつ私の魔力を受け継いでるけど、こんなに魔力を持って生まれた子なんていなかった。 そして言葉を解する子も同じくいなかった。 意志の疎通はもちろんできるけど、本当にいい物なのね。 言葉に出して『お母さん』って言われるの・・・」
まて・・・。もしかして、もしかしてだが。
この身動きの取りにくい体は、胴体に直接顔を取り付けたような感覚や手足の違和感とかは太っているとかではなくて・・・。
この蟻共が俺を優しく抱き上げたり、餌を持ってくるのは捕虜になったとかではなくて・・・。
もしかして、いやそうだとしたら全部説明がつく。
何が太らされただ。何が捕虜だ。
俺は本当に馬鹿なのか?
少し考えたら解る。いや解っていても認めたくなかったのかもしれん。
卵置き場での覚醒。幼虫の部屋への移動。そして運ばれる餌。隣にも同じように肉団子を喰ってた幼虫がいたじゃないか。
認めたくなかったのだ。
そうなったということ?それとも自分が死んだということ?それか、ベリスに殺されたのだということ・・・?
もう認めざるをえないようだ。
俺はあの時ベリスに殺され、そして俺は――。
――蟻に生まれ変わっていた。