EndingA ~風に乗って~
西方歴1659年七月十日。
僕らがライツェンを離れる日がやってきた。
二週間滞在した帝城の〈客人館〉を離れ、僕らと旅荷物は再び中庭へ。
さらに待機していた〈飛空船〉へと上がる。
荷物室があるデッキ下のフロアからは、ニカの声がよく響いていた。
「国境で馬車に乗り換えますから、荷物は取り出しやすいよう前に積むですの」
今日からは彼女も一緒だ。
〈神衣〉関係が一段落したため、謹慎を名目に彼女が帝都にいる必要はなくなった。
相変わらず寝込んでいる女帝も彼女の復学には同意したらしい。
「向こうに帰ったらすぐ進位試験ですの。急いで勉強しないと大変ですの」
使用人たちの監督を終えたニカが、教本を片手にブツブツいいながら階段を降りてくる。
「ああ、そんな時期だったね」
このところの忙しさですっかり忘れていたが、〈学校〉は今ごろ学年末だ。
全校一斉の進位試験に向けて、生徒も講師もいまが一番忙しい時期のはず。
「そいつはいかんな。
復学早々に学位を落としたら女王陛下に言い訳が立たんぞ」
窓辺の席をそれとなくかわして席に着いたアデルが、僕らの話を聞きつけ身を乗り出す。
その隣で目隠しの布を握りしめていたシンディも、それは一大事と話に加わった。
「レイ様、今からでも遅くありません。ニカ様に頼んで一緒に勉強された方が……」
「なんだったらカンニングする?」
「しません。しないよカルネ」
疲れたと言って窓際のソファーに横になっていたカルネが割り込み、悪い顔で僕の頬をつつくのをたしなめる。
今から追いつくしかないけど時間はまだ一週間以上あるし、焦らなくても何とかなるんじゃないかな?
「そーいう考え方してると、後でひっどい目に合うんだからね」
僕の考えを見透かしたようにカルネが頬をふくらませる。
アデルたちも「マイペースもほどほどに」と呆れた目を向けてくるので、僕は仕方なく視線を窓に逸らした。
すると二人の女性が歩いてくるのが見えた。
間を置かずハシゴを踏んで上がってきた二人、フロルとカヤだ。
二人とも真新しい服に身を包んでいる。
フロルは新しい役職、〈ヴァイセ・アルブム〉の総局長に合わせてローブを金刺繍入りの白に変えた。
彼女はニカの従者を降り、しばらくは国政に専念するそうだ。
その横でまだ少しはにかみの残る顔をするカヤは、黒に銀刺繍のドレスローブがよく似合う。
彼女はもう一般人ではない。
約六十年ぶりに認められた〈黒のマイスター〉として、なんと帝都の市長位に任ぜられたのだ。
帝都の実情をよく知る人物として、そして〈森人〉の代表としてニカとフロルが推薦したらしい。
長らく女帝が兼任してきた市長が新生するとあって、早くも各方面から注目と期待を集めている。
「女皇陛下が伏せっておられるので、大した見送りができなくてすみません」
フロルが相変わらずの丁寧な物腰で僕に頭を下げるが、僕は気にしないでとその顔を上げさせた。
「いいんですよ。そんな盛大な見送りをされる立場でもありませんから」
「謙遜しないでよ王子様。
あなたはこの街やこの国の歴史を変えたかもしれないのよ」
カヤがいつもの調子で僕の背を叩く。
「ま、あとは私に任せなさい。
次に来るまでには、少しはマシな街にしといてあげるから」
「カヤ……まずはその立ち振る舞いからどうにかして貰わないと困ります」
「堅いこと言わないでよ。引き受けてやっただけありがたく思ってよね」
「引き受けた以上市長なのですから、それ相応の態度を身につけてください」
そうやってすっかり仲良くなったフロルとカヤが小突き合うのを、僕らは笑顔で迎えていた。
僕が歴史を変えたかどうかはともかく、彼女たちがいれば事態はきっといい方向に進むだろう。
女帝も今までより幅広い人物とつきあえば、きっと変わってくれると信じたい。
この国はまだ歪んでいるが、それでも他にない〈魔法の国〉なのだ。
間違いを正したとき、きっとその先に未来が広がっている。
「はぁ……ニカ様の方がまだマシでしたね」
「けっ、皇族なんかと比べないでよね」
……と思うよ?
***
ともあれ見送りも終わり、僕らを乗せた〈飛空船〉はいよいよロープを解かれる。
窓の外では芝敷きの中庭と二人の姿が下へと遠ざかり、白亜の城壁や尖塔すらも抜いてぐんぐんと船は上昇していった。
船の後方で四連風車が回転を始め、眼下の帝城グロースクランツが、そして帝都ベァルケンがゆったりと流れ去っていく
やけに静かだ。
そう思ってゴンドラを見回すと、皆ソファーにもたれて眠っている。
さっきまで釘付けだった教本を枕にニカが横になり、目隠し布で落ちついたのかシンディも高いびき。
アデルすら目を閉じてゆったり息をしているが、眉が動いているあたりこっちは狸寝入りと見た。
見回す側でカルネがのそっと起き上がり、僕の座るソファーに来る。
「なんか枕が違う」
そう言って彼女はこっちに座ると、ぽふん、と僕のひざに頭を乗せる。
「うん、これで眠れそう」
「お疲れ。調子は?」
「だいぶいいよ。ライツも落ちついてきたし、〈魔術群〉も馴染んできた」
彼女がこっぴどく疲れているのはライツヴァッシェを引き取ったせいだ。
ライツェンに残しておくと女帝のためになるまいと、彼女はヴンダーヴァッシェと同じようにライツヴァッシェもその身に収める事にしたらしい。
〈魔術群〉から送られてくる〈想素〉があればそのぐらいは楽勝だと語っていた彼女だが、実際はそれなりに堪えているようだ。
「ゆっくり休むといい。国境まで半日はかかるらしいから」
「お言葉に甘えて。
レイ君のひざまくら、たんのうさせていただきましゅぅ……」
言う端からすぅすぅと寝息を立て始めた彼女の、銀の髪をそっと撫でる。
落ちついてみれば、この二週間がまるでひと月、あるいは一年のようにも感じる。
僕が絶対にできないような体験を色々させてもらったわけで、眼下を過ぎ去っていく街には感謝に堪えなかった。
いつかあの街を再び訪れる事があったなら、盛大な恩返しをさせてもらおう。
窓の外を流れるほうほうという風の音に、僕はそっと目を閉じる。
『……――――……』
微かな歌が聞こえる。
万物の伽藍。ニカを通して感じた世界に降る、黄金の音符たち。
そしてあの声。
『……――』
身体を脱ぎ去って、僕は一匹の蝶になって舞う。
降る音楽の源へ手を伸ばして、僕は一つの直感をつかみ取る。
「あれは、世界だ」
自分のつぶやいた言葉の意味を、この時の僕はまだ知らなかった。
銀の腕のダイタンオー
~巻之三 白き帝都の七変化~
終幕