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Chapter6 ⑤


そこはかつてカルネと契った風の回廊とも、邪神の底無しの井戸とも違う。


万色の煌めきがまるで万華鏡のように流転する大伽藍。

四方を赤、青、灰、緑の柱が支え、ドーム型の屋根からは氷柱のように水晶が垂れ下がる。


その中心で少女が一人、ヒザを抱えて泣いていた。

ライム色のドレスは血と泥にまみれ、ハニーブロンドの髪はまだら黒に染まって見る影もない。


「ニカ……」


僕が呼びかけても答えはない。

ただ細いすすり泣きが伽藍の壁という壁に反響するばかり。


彼女は心を閉ざしてしまったのか。


全てが遅かったのだろうか。

もっと早く気づいてあげられなかったのか。


どうすればいい……

どうすれば彼女を助けられるのか……


さんざん迷った末に、僕は彼女の隣に腰を下ろした。

肩を抱けば彼女の身体は氷のように冷たい。


「遅れてごめん。もっと早く来るべきだった。

 ううん、もっと早く気づくべきだった。

 君の様子が変だって、何か悩んでるんじゃないかって」


答えはない。それでも構わない。

彼女が悲しみから抜け出せないなら僕がそこに手を差し伸べる。


「兄さま……そう呼んでくれた君の、でも僕は兄としては失格だったよ」


「いまさら……」


ニカの唇が動く。


「いまさら、遅いですの」


言葉は冷たくとも声にはわずかな暖かさがある。


「レイ兄さまはいつだって、肝心な時にいませんの」


「……言い返せないなぁ。巡り合わせの悪さにはちょっとした自信があるから」


顔を隠す髪の向こうからニカの薄い苦笑が聞こえる。


「そこは言い返してくださいですの。

 少なくとも、一度はそうでなかったのですの」


「一度?」


「初めて出会ったときですの」


ニカの泣き笑いと共に、伽藍の天井いっぱいに二年前の光景が、ニカと僕が出会った日が映し出される。


薄暗い用具置き場。

まだ十二歳の、今より一回り幼いニカを取り囲む〈学校〉の生徒。


魔杖ワンドを取り上げられ震える彼女に少年たちの拳や足が飛ぶ。

それも顔や手足を避け、腹ばかりを狙って。


彼女がショールごと上着をはぎ取られ、下着を無理やり奪われたそこへ、赤金の髪の少年が偶然にも部屋に踏み込む。


少女のような細い顔。

暗く虚ろな眼差し。

それが姉と記憶を無くし、打ちひしがれていた僕だった。


あのときの声が聞こえる。


「なんだお前? ここは俺たちが使ってるんだよ。用事がないなら帰れよ」


「僕はものを返しに来ただけだ」


「だったらさっさと置いて出てけよ。

 あと、〈諜報〉にチクったらお前もこうなるからな」


一番体格のいい生徒が彼女の髪を掴んで顔を向けさせる。


怯えきった、それなのにどこか諦めた眼差し。

にごったスカイブルーの瞳に、同じく死んだ目の僕は語りかける。


「君はそれでいいの?」


「いや、ですの……でも母様が……」


「……そっか」


記憶の中で、僕は体格のいい生徒に昏い目を向ける。


「君たち、見たところみんな成人してるよね?」


「それがどうした細っこいガキが」


「いや、ただ大人が子供いびって、痛めつけて楽しいのかなって。それだけ」


「お前には関係ねえだろう? 調子こいたガキにお灸据えて何が悪いってんだよ!」


「そっか……情けないね。そんなガキに徒党を組むなんて、さ」


「てめえ!」


激昂した生徒が取り出したワンドは、僕の蹴りで宙を舞う。

杖が落ちる音で始まった乱闘は、たちまち双方稚拙な、見るに堪えない有様となった。


自分でもそのとき何を考えていたのかよく思い出せない。

母が、というひと言に自分と似た何かを感じたのだろうか。


有利とはいえない殴り合いの末に、乱闘を聞きつけた講師が止めに入るまで。

ふつっと途切れた記憶の続きは、すでにいつか語ったとおりだ。


「あのときから……あの時からレイ兄さまは、私の兄さまになったですの」


「でも、今度は君を助けられなかった」


「巡り合わせの悪さに自信なんて持っちゃだめですの…………

 例え、例えそれが真実だとしても、手遅れだったとしても」


この世界のニカがドレスの襟ぐりを掴み、そっと引き開けて僕に晒す。


白い肌、胸の谷間に縦に開いた傷口。

その闇の中で紫の瞳が昏く、そして寂しげに僕を見あげる。


「これはもう食い込んでますの。

 私の胸の奥に、心の中に……叫んできますの、意思することを成せと」


「意思すること?」


「私は壊したかった……

 この国も、この街も、腐りきったライツェンを、私を束縛する母の野心を、そして……私自身を」


ドレスのスカートを彼女が捲れば、そこには枯れたツタの束が、いや萎れ果てた彼女の足が覗く。


「望みは半分叶ったですの。

 私は……私はもう、壊れてるですの」


「ごめん、ニカ」


手遅れだったというなら、僕にできるのは謝ることだけだ。

妹がいたならそうしたように彼女の肩を抱きよせ、目をつむってその臨終に寄り添う。


自分自身の迂闊さ巡り合わせの悪さを悔やむ。

こうなるまで何もできなかった僕は……



『……――――……』



どこかから歌が振ってくる。

妙なる声は金の音符となって僕らに雪のように降り積もる。


だんだんと萎れ、枯草の山になっていくニカを悼むように。



『――――?』



いや、歌じゃない。これは呼びかけだ。

誰かが僕に呼びかけている。


どこかで僕はこの声を聞いたことがある。

夢とうつつの間で、暗く小さな部屋の中で。


『あきらめるというなら、ここで物語を閉じましょうか?』


急にはっきりと言葉を感じ取り、降り積もった金の音符の中でふっと目を開けた。


背中が軽い。ふり返って、僕は静かな驚きに包まれる。

なぜ今まで気づかなかったのだろう。僕の背には純白の蝶の翅が静かに揺れていた。それはニカの背にも、萎れながらも弱く羽ばたく。


僕らの翅、そして伽藍を見上げて、ようやく僕は万色の光の正体に思い至る。


これは全て精霊。なら、この伽藍こそ世界だ。

しかしこれは、ドームの天頂から金の歌を降らせて呼びかける光はいったい。


「君は誰だ?」


『鍵は君の中。君が選択しないなら、私はまた物語を閉じることになる』


呼びかけに対する答えは、でもまるで答えになっていない。


鍵が僕の中? 本を閉じるってどういう……


「あきらめるなら、だって? 僕があきらめたら、ということなのか?」


『あきらめないと語った者が打ちひしがれる、それもまた物語』


対話が成り立たない。

そこに誰がいるとしても、おそらく僕に意味を悟らせようと思っていない。

あるいは僕が、その誰かの認識を理解できてないのか。


……いいだろう。少なくとも一つだけ確かな言葉がある。


「鍵は僕の中と言ったね。つまり、僕にはまだ打つ手が残っていると」


『……――――――……』


意識がはっきりするにつれ、あの声が急に遠くなっていく。

だがもう必要ない。


僕の中の鍵。心当たりがあるとすれば一つ。


胸に手を当て、一つ息を吸う。前にもこんな事があった。

誰の助けもなく。〈神衣〉の声すら聞こえない。

そんなときにいつも忽然と、そう、まるで最初から僕が握っていたように姿を現す。



蒼い刀身の広刃剣ブロードソード



右手をかざし、目を閉じて。

虚空をつかみ取る。


確かな感触に目を開ければ、それはちゃんと僕の手に収まっていた。


銀無垢に見えて空気より軽く、青い紋が刀身に刻まれた剣。

初めて見た時より、そして前に見たときよりも剣は大きく、鋭く、青く輝いている。


これが鍵だとするなら、さし込むべき鍵穴は……


もはや声すらなく枯れた骸となったニカ。

その胸に開いた傷口に、僕はそっと切っ先を当てる。


紫の瞳が慈悲を請うように震えるが、僕にためらいはなかった。


「ニカを返してもらうよ。僕の、妹を」


軽いひと突き。

銀の先端が紫の瞳を貫き、引いた刃がそれをニカからえぐり取る。


「かはっ!」


途端に彼女の口から息が漏れた。

骸の表面がひび割れ、しなびたツタと枯草がはがれ落ちる。

バラ色の差す肌が現れ、やがてすっかりと全てが露わになった。


「レイ、兄さま?」


剣を振り抜いた僕に、座るニカが生まれたままの姿で何が起きたかと目をしばたかせる。


「いったい、私は……その剣は?」


「わからない。でもこれのおかげで君を助けられたらしい」


切っ先を見れば摘出された眼球が空気に溶け去っていく。


その残滓が一つ、カタリと石敷きの床に転がった。

拾い上げたそれは睡蓮の飾り彫りの入ったルビー。


「これはいったい」


僕の手の中で輝く宝石に、ニカがそっと手をふれる。


「あなたは、もしや〈魔女ウィッチ〉?」


ニカの問いかけに宝石がまたたく。


「これが〈魔女〉なの? でも〈邪神〉になったってカルネが」


『それは……半分正解……半分不正解』


宝石が僕らに語りかけてきた。


『僕が悪かったんだ。

 ここでは……力が手に入る。

 ……調子に乗って、自分を忘れて、そして喰われるところだった。

 〈御使い〉、礼を言うよ』


ルビーが解けて風になり、それをどこからか吹き込んだ別の風がさらう。

風鳴りは二重に聞こえ、片方は楽しくもどこか寂しく、もう片方は鋭くもどこか優しい。


「今のはあの双子だな。

 あれ、〈魔女〉も合わせれば三つ子だったのか」


「レイ兄さま、私たちはどうするですの?」


「それは……帰れると思うよ。来られたんだ、帰り道ぐらいあるさ」


手に残るこの剣が鍵なら、一振りもすれば道が開けるだろう。

楽観めいた確信で剣を振り上げた僕を、なぜかニカが引き留める。


「私は……帰ってもどうして良いかわからないですの」


「大手を振って帰ったらいい、誰もニカを責めたりしないさ」


だがニカは悲しそうに、それは違うと首を振った。


「あの手紙は母に強要されたもの。

 カルネ様の考えを母に漏らしたのも私。

 戦っていたのも、〈神衣〉に手を出していたことがばれて、〈人造神衣〉のサンプルをしていただけ。

 私は……母に命令されるがままのの裏切り者。ですの」


また涙を流すニカ。

ちょっと気になる言葉はあったが、ひとまずその頬に口付けして、僕は大丈夫だと笑いかける。


「真実だとして、君を責める人なんていない。

 それに、母に命令されてって言うなら、そんなもんだよ。親子って」


「えっ?」


「親がどうあれ、望まれると応えようとしてしまうのが子供だ。

 ゾフィー女帝は行き過ぎてると思うけど、でもニカに悪い所なんてないよ」


僕だって人の事がいえたものかどうか。

母とは和解したが、同時に母の望みに応えようとしていた自分を思い知った。


例えば魔法だ。

使えるようになって気がついたが、僕が使えなかったのは無意識に自分の〈白の精霊〉から目を背けていたから。

その理由は母に止められていたからだ。


いつかカルネがあまり良い子ちゃんしない方がいい、と言っていたが、なるほどそういう事だったわけだ。


「戻ったらゾフィー女帝と正面から向き合おう。

 嫌な事は嫌だって、応えられない期待はするなって、子供にだってそう言う権利はある。

 もちろん、僕も兄として手伝うよ。間の悪い、頼りない僕だけど、ね」


最後に照れ隠しを添えて僕が正面を向いた途端、ニカが回り込み、そっと唇を重ねてきた。


「……ん、ニカ、場所が違うよ。兄妹なら頬じゃない?」


「間違ってないですの」


「いや場所間違ってないって……え? それって……

 ていうか引っ張らないで危ないよ」


彼女は頬を夕焼けの赤に染めて前を向き、僕の手を取って剣を振り上げさせる。


「さて、帰るですの!」


二人の手で振り下ろされた蒼の刃が虚空に一文字の切れ込みを入れ、そこに開いた見えざる扉から光が漏れる。


「約束するよ。僕は君の兄になる」


「楽しみにしてますの」


純白の光の中、僕らは揃えて一歩を踏み出した。



 ***



気づけば、僕らは手をつないで橋の袂に立っていた。


僕は〈神衣〉を纏わない常の姿で。

ニカはライム色のドレスで。

重なり合った手の中には三粒のルビーが輝いている。


背後で何かが崩れる音。

ふり返れば、そこには灰の柱と化した〈魔女〉の骸があった。

いや、あれは〈魔女〉じゃなかったね。

彼女を喰い殺そうとしていた、単なる〈邪神〉だ。


「兄さま、帝城に行くですの。母を止めるですの」


「うん、わかった」


伽藍と同じように一歩を踏み出した僕らを、アデルとシンディ、そしてカルネが喝采と安堵で出迎える。


濃い夜と、ちょっとばかりの瓦礫の中、機装は去り、危機も落ちついた。


しかし事態は、まだ終わりの鐘を鳴らせてはいない。

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