Chapter5 ⑥
この忙しさは、あの戦争を思い出させる。
朝起きてからこの方、城に各地からの早馬が途切れる事はない。
持ってくる知らせはどれも同じ。
『霧が晴れた』
何度も聞かせるなという口癖はもう不要だろう。
そんなものは平和な時にしか言えんし、この騒ぎは平和とはほど遠い。
早馬を寄こした領を地図に起こせば、何が起こったのかは類推するまでもない。
カムリの黒い霧が消えた。
三年この方我が国に居座り続けたあの忌々しい霧が、一夜にして文字通り霧と消えた。
必要がなくなったからか?
いや違うだろう。慌てふためいて撤退していく奇妙な軍隊の報告がある。
十中八九、霧の中にいた連中にとっては青天の霹靂だったはずだ。
霧を晴らした者がいる。
おそらく魔導師、あるいは呪術の類に打ち勝った者が……いや、よくないな。
老いたからか自分に嘘をつくことが増えた。
本当はわかっている。
黒い霧が何なのか、それを打ち払おうとするのが誰であるか。
だがそれを認めたくない。
もちろんあの子の能力を疑ってはいないし、まして嫌っているわけなどあろうか。
ただ認めると不安になるのだ。
私があの子を死地に追いつめたのではないか、と。
突き放した事で自暴自棄になりはしまいか。
そう思って手は回しておいたが、ここ数日奴からの便りが滞っている。
もしや、これはあの子の命と引き替えの結果なのか?
私はまた間違いを犯したのか?
一度目は夫、二度目は娘、そして三度目は……
こんな考えに陥ってしまえば、私は平静を保っていられない。
だから認めない。
私は女王だ。
いついかなる時でも超然と構え、決して弱みを見せてはならない。
それがこの国を統べる者の責務。
家族を見殺しにした自身への罰だ。
将軍たちと会議を終えた直後。
中庭を移動中に、ふいに奇妙な感覚に囚われる。
よく知っているようでまったく知らぬ人の息づかい。
殺気のあるようにも、ないようにも思える。
脇を固める護衛たちはまだ気取っていないようだが、戦で培った私の肌は誤魔化せない。
暗殺者か、それとも魔物か。
どちらにせよ私の背後を取ろうなど片腹痛い。
「誰ぞ! 隠れておらずに出てくればよい!」
目隠し塀から姿を現したそいつは、
「母上」
黒い外套を羽織った我が息子だった。
「レイか?」
見知った顔と知って護衛たちが剣を収める横で、私はほんの一時、私は自らが過ちを犯していなかったと安堵する。
しかし何かがおかしい。
レイは数日前までスウェリンの元にいたはず。
それに、まるで別人のようなこの気迫。かつてどこかで感じた気もするが……
「げぶっ」「が、はっ」
一瞬の抜き打ち。
護衛たちが血を吹いて倒れる。
はためいた外套の下に黒い刃を見て取った時には、そいつはもう私の間合いの内側まで詰め寄っていた。
顔だけはレイと瓜二つ、だが、こいつは女だ!
あの女神の幻にあった黒騎士か。
知っていながら易々と懐に入られた失態。それを後悔する時間もない。
黒い刃が朝の光に煌めく。
燃える髪持つ乙女が天から降ってきたのは、その時だった。
***
僕は急降下し、間一髪、黒い馬上剣を叩き折った。
あとひと刹那遅ければ、母の首が胴から飛んでいた。
黒騎士の目論見を知っていたから、そしてセルの言った〈大騎士〉が黒騎士だと読んだからこそ、僕は今ここにいる。
母を襲った少女は、すぐに間合いを開けて手刀を構える。
僕と同じ顔、間違いなく黒騎士だ。
仕える国、〈邪神〉との関係、そしてその顔の理由。彼女に聞きたい事は山ほどあるが、いまは退ける方が先決。
まだ薄く炎を宿した蒼い剣を向ければ、相手は手刀に黒い霧で刃を成す。
言葉も兆しもなく、ただ一刹那。
僕と黒騎士は互いに刃を交わす。
相手の手刀は〈騎士〉の手甲に食い込むが、僕の刃はその鳩尾を真横から捉えていた。
胴を斬り飛ばせなかったのは相手の技量ゆえか、それでも剣は胸郭に半ばめり込んでいる。
常人なら動けないだろう傷に、黒騎士は顔を歪めただけで再び距離を取った。
だが不思議な事に、黒騎士はそれ以上動こうとしない。
ただアイスブルーの瞳に驚くような、そしてなぜか認めるような色を浮かべてわずかな吐息を吐く。
すっと陽射しがかげる。
「機装か」
予感と予想に顔を上げれば、二つの角持つ機装が中庭を覆うように空気からにじみ出てきた。
その背の持つ翼には見覚えがある。ペンヴリオからここまで機装を喚んだか。
また機装と打ち合う事になる。
剣を構える僕に、しかし闇色の巨人はなんの関心も示さず、黒騎士を手に掬うとコウモリの翼を広げ空へと去る。
そのまま雲に紛れた相手に、ポツリと〈騎士〉の言葉が投げられた。
「見逃したのか……」
長居するだけ不利だろうが、機装でひと暴れするだけでもこちらの被害は増える。
なのに何もせず去るとは……
「戻ったか」
ふり返れば、母が僕を見ていた。
〈騎士〉の姿をしているのに一瞬で看破するあたり、さすが〈獅子心女王〉の眼力だ。
「たわけ、我が子を見分けられずして何が母か」
女王の両腕にカフスがない。
深紅のレース織りは、足下の護衛たちの傷口を縛るのにつかわれている。
慌てて出てきた使用人に手で指示を飛ばし、母はじっと僕を見つめる。
「何か力を得たと見えるな。
それで私を打ち負かし、己が証を立てるか?」
力を貸そうという〈騎士〉のざわつきに、それでも構わぬという母の顔に。
僕は首を振った。
「いえ、証はこの腕で」
〈騎士〉が微笑んで離れる。
燃え立つ髪も銀の鎧も、精悍な女騎士も宙に溶け去り、残るは僕一人。
「剣を持て!」
号令に応え使用人が差し出したサーベルを、母は黙って僕に投げ渡した。
そして自らは王杓に仕込んだ刃を抜き、それを正眼に構える。
「遠慮は無用。首を落とす気で参れ」
「はい」
城中の目を証人に、鋼と鋼が音高く打ち合わされた。