Chapter5 ⑤
アデルたちがグアレウスに着いたころ。
僕はかつてペンヴリオを水軍の拠点たらしめた堅牢な軍港に、その防波堤へと降り立っていた。
並ぶ軍船はそのほとんどがカムリの誇った快速帆船。
乗り手がいなくなった船は三年の歳月に半ば朽ち、みな至る所で水底を打っている。
だが僕の目の前にある〈それ〉は違った。
「城みたいに大きい」
黒い舳先は港の倉庫より高く、舷側は全て鉄板で覆われている。
横に規則正しく開いた穴は櫂穴か、それとも大砲なのか。
霧が濃すぎて全体は見えないが、ここから望む甲板だけでも一つの街区が収まるほど広い。
巨大な双胴船。
足音を殺しつつ防波堤を一回りすると、その奇妙な構造がだんだんとわかってくる。
どこにも帆がない。
胴の長さはおおむね200ヤードほど、左右に渡された甲板もほぼ同じだけの幅がある。
胴の前後が大きく反り返り、全体は古代のガレー船を思わせる造りだ。
しかしこの霧の濃さは……
船を一目で見渡せないほどの黒い霧。
黒騎士の鎧にわだかまるものをのぞけば、ここが一番濃密だろう。
耳の裏をチリチリとひっかく気配も合わせて、僕の考えが確信に変わる。
「この船が、霧の中心」
『この〈邪神〉の気配、もはや幼生とは思えぬ』
僕のつぶやきに、〈騎士〉もいつもより数段張りつめた声を返してきた。
情報を集めるならこの船が確認できただけで充分。
敵の本陣にしては人が見当たらないのが気になるが、ここはもう退くべきか……
いや
「できるだけはやっておこう」
『承知』
***
〈神衣〉の力と持ち前の瞬発力を合わせ、僕は黒い双胴船の縁を飛び越えるとその甲板に着地した。
一面が黒い霧に覆われ、不気味なほど静まりかえっている。
気配の中心は……甲板のそれと同じか。
頭を巡らせて方向を確かめ、一歩踏み出す。
そこでつま先に引っかかる段差に気づいた。
鋼版の張られた床にくっきりと浅い段差が残り、それが幾重にも重なっている。
大きさを抜きにすれば、それは泥に付けられた足跡と似ていた。
「機装の足跡、かな。ということはこの船、機装を運ぶためのもの?」
街一つ入るこの船なら、身の丈が30フィートもある機装を何十騎も運んでお釣りが来るだろう。
注意深く甲板を進むと、僕の予想を裏付けるように大きな影が二つ、並んで姿を現した。
どちらも初めて見る機装だ。
二騎とも、跪いたまま動く気配はない。
片方はかなり大型で、全身を鎖編みの鎧に覆われている。
むき出しの胸鎧は仰々しくも悪趣味に、獅子の顔を象ったもの。
もう一つは小柄で二本の角を生やしているが、マントか翼か、金属の覆いがその全身を隠している。
〈邪神〉の気配はこれではない。焼けつくような悪寒の中心はさらに奥か。
その刹那、僕の背後で炎が上がる。
「気取られた!」
走りだした僕を追うように、青黒い火柱が立て続けに咲く。
だが僕自身を狙うにしては間隔が甘い。まるで急き立てられるようなこの感じ……
「追い込まれている!?」
「然り! 来ると思っていたのである!」
野太いダミ声と共に周囲から霧がサッと吹き払われた。
甲板のほぼ中央、僕が走り抜ける先に待つ山羊ヒゲ。
その背後には
「霧を吐く巨人!」
円形にせり上がった台の中央で、天を仰いで大口を開ける不格好な機装。
胴のほとんどが竜を思わせる巨大な顎で占められ、細い手足とかぎ爪で台の縁を捕らえたその姿。
異形すぎて、もはや巨人と呼ぶのも難しい。
「姿は違えど、受ける気配から貴殿であるとわかるのである。
レイ王子よ、そのような情けない姿をしてまで〈反抗者〉の力を振るうのであるか?」
情けない姿?
それは、たしかに僕は女性になってるし、その上ほぼ裸みたいな鎧を着てるけど。
「でもこの姿を情けないなんて僕は思わない。
これは僕の心の、君たちを止めるという想いの現れだ」
「ふむ。という事はもはや吾輩の言葉は聞かぬという事であるな。
残念至極、貴殿もまた小さき人間であったか」
いかにも残念そうに、セルが芝居がかった動きで肩をすくめる。
しかしその背中では態度とは裏腹に彼の〈邪神〉が燃え上がる。
「だがもう遅いのである!
女王にはすでに〈大騎士〉が向かっているのである。親子共々浄土を踏めるよう、今ここで引導を渡すのがせめてもの情けなのである!
遠慮はいらん、存分に参られへぶふぅぉぉぉぉぉ――――――………………ぃ」
杖を手にしたセルは最後まで言い切らぬまま、大の字になって空に放物線を描き、最後に盛大な水柱を上げて海に落ちた。
……断っておくけど、彼をぶっ飛ばしたのは僕じゃないよ?
振り抜かれた巨大な鉄のかぎ爪が僕へ向く。
霧を吐く巨人が彼を、まるでゴミでも払うかのように無造作に、あっさりと退場させたのだ。
『我が主!』
〈騎士〉の叫び。
『〈邪神〉の〈羽化〉なり! こやつ、今や自我を持ちしや!』
「Qurghooooreeee!!」
騎士の言葉に応えるように、口を開いた機装から耳をつんざく大音声が轟く。
手足をたわめ一気に身を起こす機装。
頭のない、いや頭だけのその姿にもかかわらず、直立したその背丈は楽に40フィートはあるだろう。
『奴め我らを喰うつもりぞ!』
「食べるって? うわっ!」
だしぬけにかぎ爪が僕を目がけて振り下ろされる。
それを側転して躱しながら、素速く動く機装の腕、そのカラクリに思わず舌を巻く。
「こいつ手が自在に伸びる!」
組子になった関節を伸ばし、その両腕は蛇のようにとぐろを巻いて動く。
本体と独立したその動きは、鈍重そうな全体をカバーして有り余る速さだった。
『槍を喚べ主!』
「〈ブルトガング〉、来い!」
一瞬の風を呼んで、僕の手に銀の馬上槍が収まる。
機装のときに使える武器は神衣でも使える、逆もまた真。
カルネが言ってたとおりか。
鎌首をもたげていた腕が獲物を見つけて鋭く飛びかかる。
アゴのように開いたそのかぎ爪をランスで打擲して落とすが、甲板の鉄を噛んでもなお猛然と向かうのをやめない。
「しぶとい!」
飛んで躱す僕を、今度は横薙ぎに次の腕が襲う。
とっさに槍を立てて防いだものの、僕は大きくはね飛ばされて背中から甲板に叩き付けられた。
「くっ――が、は……」
息が詰まる僕に代わって、〈騎士〉が悔しげに声を漏らす。
『相手が機装なれば人の身は不利なり。
〈鎧〉も〈神殺し〉も使えぬとは口惜しきかな!』
確かに、あれだけの鉄の塊を相手にしては〈神衣〉があっても力不足は明白だ。
カルネがいないと〈ヴンダーヴァッシェ〉も呼べない。
「いったん下がろう」
『退却もやむなし!』
同じ判断を交わし、踵を返して機装から距離を取ろうとした僕らは、しかし次の瞬間、何かに突き当たってがく然となった。
「霧の壁!?」
セルの登場で吹き払われたと思った霧は、いつの間にか密度を上げて僕と機装を半球状に取り囲んでいた。
それは突き当たれるほど固く、槍で破ろうとしても逆に穂先を取られるぐらいに粘ついている。
そしてじわじわと縮み、僕らを機装へと押し返していく。
『ここはすでに奴の腹の内ぞ!』
悲鳴にも似た〈騎士〉の声がなくとも、迫る危機は目に見えて分かる。
霧の壁が僕らを押し、さらには機装がキュルキュルと声を上げ、ゆっくりとにじり寄ってくる。
腕の射程にはいるのは時間の問題だ。
「だからって……諦めるものか!」『主!?』
破れかぶれにほどがある。
でも、それでも僕は機装へ吶喊した。
この状況に至って助かる手だては一つだけだ。
目の前の機装を、その身に巣くう〈邪神〉を滅ぼす。
『なれば唯一の勝機はおそらく口の中なり。
〈邪神〉はこの世に根を下ろすための碇を持つ、それを打ち壊せば勝機はまだあり!』
左右から同時に襲いかかる腕を跳んで避け、伸びきった腕の上に着地。
そこから腕伝いに一気に駆け上がる。
〈騎士〉の言う事が正しいなら、胴体に取り付きさえすれば。
直後、靴越しに感じる蠕動。
僕が鉄皮を蹴って跳ぶが速いか、機装の腕が短く畳み込まれていく。
だがこちらはすでに相手の直上。
機装の口の中、黒い霧に巻かれて紫に輝く眼球が一つ。
「あれか!」『然り!』
空中で槍を構え、落ちるに任せてその目を狙う。
しかし大口に飛び込む寸前、紫の瞳が嗤うように細められたのを、僕は確かに見た。
「QurghorrrrrVurroirrrrrrrrrr!」
耳をろうする巨人の咆吼。
次に全身を灼熱感が包み、吹き飛ばされた僕は回転する視界にそれを捉えた。
機装の口から立ち上がった赤黒い光。
それは霧の壁すら穿ち、高々と天に噴き上がった熱の柱。
再び甲板に叩き付けられた僕を、再び伸びた機装の腕が素速く掴み上げた。
ガッチリと噛み合った爪の間からじわりとしみ出した何かが、僕の肌に巻き付いてくる。
『早よ逃れねば力を喰われる!』
黒い粘液が長すぎる指のように鎧の下に滑り込み、〈騎士〉の柔肌に食い込む。
毛穴を犯されるようなおぞましい感触に思わず呻きを漏らすが、触手はお構いなしに這い回り、やがて薄い皮膚のありかへ到達した。
「よ、よせぇっ、くっ…………かはっ!」
ジカッとした痛み。粘膜を貫いてゾロっと内側に〈邪神〉が染み入る。
相手の内側に繋がり、そこから相手の魂を喰らう。
これが〈邪神〉の食事……
***
冥い。
これが〈邪神〉の内側。
どこまでも暗く落ち込んでいく底なしの井戸。
黒い霧はその奥から湧き続ける。
だが底はある。
深い深い場所にたゆたう水面と一面にひかれた砂。
一粒として同じ色のない、綺麗に磨かれた真砂の群れ。
僕がそれに手をふれると、砂が一斉に話しかけてくる。
『今日は魚がよく釣れたぜ。一杯やるのが楽しみだ』『ようやく水軍に入れました母上。この国と領民のため、これからもっと頑張ります』
『世話してた花がようやく咲きました、あの人は喜んでくれるかな?』
『ママ、ぼくおっきな鳥を見たよ』『あの子はどこ? あの子はどこにいってしまったの?』
これは……人間だ!
この砂の一粒が一人の人間。『……その魂のなれの果て』
滾々と湧く清水、黒い霧に変えられていくこれは……
すべてこの砂から染み出す人の想いそのもの。
この人たちは、一人残らず、この機装に喰われたんだ。
『王子……助けてください王子……』
指先に残った砂が一粒、弱々しく僕に語りかける。
その若草色は僕の護衛、霧に飲まれた騎士の服と同じ。
『俺は死にたくない……マリーが……去年生まれたばかりの娘が……』
砂が砕ける。
声は消える。『魂は有限』
「…………あ……ぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
目に涙があふれる。声が喉の奥から湧いて出る。
許せない。
僕はこいつが許せない。
例え人間の平和を掲げようとも、人を喰って戦に利用するなど断じて許す事はできない。これが悲劇でなくて何だというのか。
これが平和を願う者の、〈神〉を名乗る者のする事か!
「必ずお前を斬る!
悲劇を持って悲劇を制すなどそんな戯言、絶対に僕は認めない!」
吠え猛った僕の手に、それは忽然と姿を表した。
青い刀身の広刃剣。
それを、僕は井戸の壁に突き立てた。
***
『…………――――――…………!』
声が聞こえた気がした。
胸が熱い。
初めて〈騎士〉になった時のように灼熱の鼓動が骨を伝う。
全身を巡る熱に、髪の一筋までが赤々と燃え上がる。
鼓動の一拍ごとに、僕と〈騎士〉が焼けた鋼のように接合されていくのがわかる。
何がその鎚を振るうのか、いかなる力がそれを成し遂げるのかそれは分からない。
気がつけば機装の手の中。全身を弄んでいた触手が銀の炎を上げて燃えつきていく。
力強い拍動が最後の一拍を打つ。
今や僕が〈騎士〉であり〈騎士〉が僕だ。
お互いの心と記憶を一つにし、瞬時に理解が成立する。
逃れる手は、有り!
爪のわずかなすき間から手を入れ、その内側の絡繰りを握りつぶす。
それだけの事で僕を拘束していた機装の爪が一本、力をなくしてだらりと開く。
それを弱点と知っていたのが騎士なら、見いだしたのは僕だ。
ゆるんだ拘束を破って抜け出す僕を、背後から機装の手が襲う。
すると、口をついて言葉が紡がれる。
「風よ、アラウンの風よ」
霧に開いた穴から夜風の精霊が数匹降りてきて、僕に恭しく礼をとった。
〈騎士〉がスウェリンの言葉を示す。
僕も小人の子……できぬ道理はない。
「我が足に寄りて支えよ!」
機装の爪が閉じる刹那、僕は飛び上がった。
それは跳躍ではなく風を蹴っての疾走。
走り続ける僕を風の精霊が支え、一歩を踏み出すほどに高さと速さが増していく。
空を駆ける僕を紫の瞳で捉え、巨人が再び火柱、いや怪力線砲を放つ。
先ほど必殺の威力を見せたそれを、しかし僕は片手で打ち払った。
手には青い刀身の広刃剣。
僕も〈騎士〉もその銘を知らないが、それを気にすることもない。
「斬る!」
砲丸のように掴みかかる腕をすり抜け、灼熱の怪力線をなぎ払って、僕は一直線に紫の瞳へ突っ込んでいく。
取り付いた眼球はゆうに一抱えもあるが、僕は横から真一文字に斬りつけた。
漆黒の球体が裂け、鮮血の代わりに黒い霧がドクドクと吹きだす。
「Quirrrow! Quirrrow!」
機装が哀れを誘う声を出してのたうち回るが、僕にはもう一片の慈悲すら残っていなかった。
「その罪、例えお前が戦に使われる道具とて許さぬ!
滅べ〈邪神〉! 喰らった人々に慈悲でも請うがよい!」
刃が紫の瞳孔に達して、そこで止まった。
どんなに力を振り絞ろうとも、あと少しそれを切り尽くすには力が足りない。
神殺しに頼らず〈邪神〉を討つには相当な力業に頼る必要があるが、僕にも騎士にも余力はない。
その時。
『レイ君!』『レイ様!』
二人の声がした。
ふり返らなくても、僕の背を支える二人の手を感じる。
『わたしが〈絆〉になるよ。
〈騎士〉、ガサツなあんたに協力してやるなんてイヤなんだけど……
わたしの主に感謝にしなさいよね』
知らない〈神衣〉の声が、僕とカルネ、そしてシンディを繋げ、その力を全て僕へ注ぎ込む。
蒼い剣が火を吹いた。
白銀の炎が特大の剣となり一瞬にして瞳孔を引き裂く。
無音の断末魔を上げて瞳孔が内から爆散し、爆風は機装の骨組みをバラバラに引きちぎる。
蓄えられていた〈魂〉、そこから生まれる〈想素〉が全て揮発し、とてつもない力をもって僕もろとも破片を高く吹き散らした。
「…………――――」
声が聞こえた気がした。
よく、やった……?
高く雲まで達した僕は、落下しながら目を覚ます。
もう次にやるべき事は見えていた。
「城へ、風よ!」
消えゆく黒い霧に向かって喝采を上げながら、灰色の乙女たちが風の道を開く。
向かう先はスィンダイン。
僕は身を翻し、風となって駆けていく。