Chapter1 ②
足に感じる草の固さが心地いい。
いまさらっと頬をなでたのは? 茂みの枝葉か。
僕は歩いている。
僕は歩いてる?
まどろみから覚めるときのようにふっと、僕は自分が歩いていることを感じ取った。
見える風景は暗いが、地の底でも穴の中でもない。
夜の森だ。
「穴の中って?」
ああそうだ、僕はさっき穴に落ちて――――あれ?
声を出そうとして口が動かないことに気づく。
いや、口だけじゃない、目も手も、足すらもまるで自由にならない。
それが動かないならまだいいが、そうではなく勝手に動いているのだ。
まるで他人の身体のように、体の隅々までがひとりでに動き続ける。
手が前の枝をかき分け、足は小さな川に沿って下流へと歩んでいく。
その一挙手一投足まるで身に覚えがないし、考えすらしていない。
「目が覚めた?」
口が勝手に言葉をつむぐ。
「覚めたんだね? よかった、これで何とかなる……かも、だけど」
その声は紛れもなく僕のもの。
なのにこれまた口調と言葉がまったく違う。
普段は使わない母国プリダインの言葉で、それも若い女性の極めてくだけた調子で、口は勝手に言葉を発し続ける。
「いろいろ思うところがあるだろうけど、ま、ひとまず落ちついて――」
『いやちょっとまってよ!』
いきなりの事に、僕は取り乱して叫んだ。
いや、叫ぼうとしたが声は出なかい。
ただ声を出すという意識だけがどんどん空回りするだけだ。
『何で、何で何で!?』
「だからそれは――」
『夢か? もしかして夢を見てるのか?』
「だから落ちつけって――」
『きっと夢だ現実じゃない。さっき襲われたのだって夢だ!』
「…………プッツーン」
『そうだ、僕はまだベッドの中なんだ。もうすぐアデルが起こしに』
「いーいから落ちつけ!!
心の声でギャーピーわめいてんじゃねぇよこのボンクラボケナスビ!!
今すぐ意識を頭からバリバリ食ったろか? あぁ!?」
自分自身による、意味不明の、しかし迫力に満ちた怒号で、一瞬にして頭が真っ白になる。
右手がさも億劫げに髪をかき上げる。
口からは深いため息が漏れた。
「かぁ――っ…………
よし黙ったな、次に騒いだら問答無用で意識を眠らせっからな、いいか?
いいよな!?」
『……はい』
「素直でよろしい。
じゃ、改めて説明すっから耳の穴…………あべっ、地が出しっぱなしじゃん。
…………じゃなくって、心の耳を澄ませてよく聞いてね」
途中からころっと調子を変え、優しい響きになった声。
何が何やらさっぱりだが、この先がなにが起きてもいいようにと身を……いや、心持ちをしっかりと構える。
「んー?
そんなに緊張をしなくてもいいよ。別に取って喰ったりとかしないから。
そうそう、キミの心は読んでるからね。
無理して口動かそうとしなくてもボクに伝わるから」
そして「とにかく」と咳払いを一つ打ち、僕の声、というかそれを操る〈何か〉はさも心苦しそうに小声で切り出した。
「最初にあやまっておくよ、キミの身体を借りてごめん。
ホント今すぐ出て行けたらいいんだけど、ちょっと出られそうにないんで、さらにごめん」
身体を借りる。
その言葉に僕の疑問が向くと、〈何か〉は僕の首をコクリとさせてそれに答える。
「うん、話せば長いしめんどくさいからパスするけど、端的に言って今、キミの身体はボクが動かしてるから。
そこは理解オッケー?」
長くて面倒という理由で説明らしい説明を端折られて、その上理解したかときかれたって困るだけだ。
といってまったく納得できないわけでもない。
ひとりでに身体が動く事への説明として、誰かに動かされているというのは充分にあり得る。
「それ正解だからね、うん。
ところでちょっと質問。
キミはさっきから思考と違う言葉を使おうとしてるけど、ここはキミにとって外国なのかな――」
暗い山道に流れた言葉が、ガサリという大きな音にかき消される。
僕の身体がビクッとはねて動きを止め、そして警戒するように腰を落とした。
「……何?」
『ああ、たぶん――』
僕が〈何か〉にそれを伝えるより早く、近くの茂みから突きだした木の棒が胸にトスンと軽く突き当たる。
「ひえっ!?
……なにこれ?」
茂みがガサゴソと揺れ、かと思うと〈学校〉の制服を着た女生徒がだしぬけに転がり出てきた。
女生徒は手早くランタンを開いて周囲を照らす。その火明かりで彼女が腕に〈防御側〉の目印である赤リボンを巻いているのがわかった。
あの追っ手ではないと知って、僕は少し安堵する。
女生徒は栗色の髪や服についた枝葉を払い落とすと、腰から下げた木製の習剣を抜いて僕に向け、満面の笑みで勝ち誇る。
「にひひひ、はい一匹捕縛だわね。
バートもういいよ、出てきなよ」
女生徒の呼びかけに応え、茂みの奥から木の棒もとい習槍を手に生徒がまた一人抜け出してきた。
薄明かりに照らされた顔はいかつく、その背は高い。
バートと呼ばれた生徒の顔に、僕は見覚えがあった。たしか〈歩兵学部〉の、アデルの受け持ちにいた気がする。
生徒は「バルトロだ」と小さく言うと顔をズイッと近づけて僕を確認し、そして不思議そうに首をひねった。
「うん……?
誰かと思ったらアデル先生の……
……にしても〈軍師学科〉にしてはずいぶん間抜けな真似をしたな。荷物も武器も持たずに単独行とは、もしかして囮か――」
『ちょい、ちょいちょい、ちょっといいかい青少年?』
突然、男子生徒の声にかぶって知らない声が流れる。
真鍮のベルを爪で弾いた、そんな感じの高くて鋭い少女の声。
その、思わず気が抜けそうになるほど軽い口調は、さっきまでの〈何か〉と同じだけど。
『気が抜けそう、ってひどくない?』
……間違いない。
『今ので判断するんですか!?』
それ以外に判断材料なんてないじゃないか。
それに口を動かさずに話せるなら、最初からそうして欲しかった。
『べ、べつにいいじゃんそんなこと今は!
……忘れてたとかそんなんじゃないからね!
とーにーかーく、この人たち何? っていうかどうしたらいい?』
そうだね……とりあえず抵抗はしないで、言われたとおりにして。
演習のルールで、二対一の不意打ちによる捕縛だと、捕らえられた側は抵抗は禁止されてるから。
『演習のルール? 不意打ちの捕縛?
…………まぁいいや、ともかくこいつらに従っとけばいいわけだ』
そのとおり。
『あぁ、もう! しょうがないなぁ』
だるそうな声を僕に向け、でも身体はおとなしく縄をかけられにいく。
文句も言わず、それどころかひと言も喋らずに従う僕を、その生徒たちはしばらく変な目で見ていた。
それでもさすがは〈歩兵学科〉だ。
慣れた手つきで僕を縛り上げると、テキパキと荷物をまとめて沢沿いの道を下流へ向けて移動する。もちろん僕を引っ張りながら。
……向かう先は〈防御側〉の陣地だね。
今年も捕虜で確定。これで三年連続だけど、でも今回は不可抗力だよ。だってほら体動かせないし、それ以前に命狙われて逃げ回ってたわけで。
僕はいろんな事に対して天を仰ぎたくなるけど、もちろん首がいうことを聞くわけがない。
今日はなんて日だろう。
***
やがて僕と、僕の身体を乗っ取った〈何か〉は、〈防御側〉の陣地にある天幕に放り込まれた。
手は縛られたままだから派手な身動きはできない。
案の定、体はテントの端にドカッと座りこむと、所在なげに足首を回しはじめた。
テントに吊された明かりに虫がたかっているせいで、チラチラと明るくなったり暗くなったりして気分が落ち着かない。
草緑に染められた麻布の外からも、気がゆるんだ生徒たちの話し声がひっきりなしに聞こえきて騒がしい。
見回す事はできないけど、チラッと見た限りでは僕らの周りに、僕と同じ〈攻撃側〉の生徒が十人ほどいるようだ。
同じように縛られた格好で座り、正面の生徒などは捕虜になったのがかなり悔しいのか、仏頂面で地面を見つめている。
ま、さもありなん。夜戦ではおおむね〈攻撃側〉が不利だからね。
『……一人で納得してないで、ちっとはボクにも説明しようよ』
耳の中で少女のふてくされた声がする。
説明って、それはこっちの台詞じゃない?
君が誰かとか、そもそもお互いに名前だって知らないんですけど。
『名前?……あ、そっかそっか、うっかりしてたよ。
ボクの名前はカルネヴァル・ド・トラウミィ。
そっちの言葉で言うなら……そう〈夢幻のカルネヴァル〉とでも呼んで』
生まれて初めて聞く名前だった。
発音まで異国めいていて、とても一発でおぼえられそうにない。
『カ・ル・ネ・ヴァ・ル!
あーもう、呼びにくいならカルネでもいい』
一音ずつ区切ってくれた上に、それでも僕が飲み込めていない雰囲気を察して短く略してくれる〈何か〉。じゃなくてカルネさん。
『さん付けしないで、呼び捨てでいいから。
で青少年、キミの名前は?』
僕はレイ・アルプソーク。僕も呼ぶときはレイでいいよ。
『よし、レイ君だね。おぼえたよ。
んじゃ、さっそくだけどレイ君、今って大丈夫かな?』
大丈夫って、何が?
『時間と安全があるかってことだよ。すぐに移動させられたりとか、命の危機とかない?』
それなら大丈夫だ、と思う。
あと一時間ぐらいはこのまま座りっぱなしのはず。演習だから拷問もないし。
一瞬、あの暗殺者の事が頭をかすめたが、この人だらけの所に堂々と出てくるはずもないので、取りあえずカルネには伝えない。
『オッケー。よくわかんないけど、大丈夫っぽいなら話しを進めるね。
ボクから話そうか? それともキミ?』
よかったらそっちから聞かせてほしい。
僕から何を説明していいのかなんてわからないから。
『わかった、それじゃボクから……
えっと、まずは、ボクが何者かについてだけど』
うん。
『神さまです。女だから女神でも可』
…………は?
今なんか自信ありげに、あり得ない言葉がさらっと聞こえた気がしたけど。
もちろん気のせいだよね?
『気のせいちゃうわい真実だし!
ボクの世界なら、ボクは〈全権守護者〉っていうれっきとした女神だし!』
怒ったカルネの声が耳の奥でキンキンと反響する。
反射的に耳を押さえようとしても両手が縛られているから無理で、もちろん縛られてなかったとしても動かない。
それ以前にこの声、僕のどこから聞こえてるんだか……
わかったごめん。
それにしてもボクの世界って?
まさかカルネってちょっと妄想がひどい人だったりする?
『だ、か、ら、ボクを危ない人あつかいするなし!
さらっと酷いこと言うなし!
正真正銘の神さま…………とは言えないけど、とにかく|〈ここじゃない世界〉ではボクは神さまなの!
二つ名〈全ての衣装と神話を司る者〉も持ってるし!
どうよ、凄くありませんか!?』
いや、どうって言われても、どう凄いのかもピンと来ない。
『うーん、それは確かに…………
って、キミはボクの説明を聞く気あるの?』
ある、と思うけど?
『なら説明終わるまで黙って聞く! いいね!?』
念を押すカルネの声に、ガルルルッと猛獣じみたうなりが重なる。
あっ、はい。どうぞお続けになってください。
『うん。
とにかくボクは神さまなのです。こことは違う世界〈機装世界〉から来ました。
ちなみにこんな所ね』
こんな所――その言葉と一緒に不思議なイメージが湧き上がる。
空は澄んだエメラルド色、白い塔が天を貫いていくつもそびえ立つ。
それは理解を超えた風景にもかかわらず、奇妙な実感を持って僕に迫ってきた。
幻想的なのに妙に生々しく、耳を澄ませば知らないざわめきが聞こえ、息を吸えば少し苦い香りが胸を満たした。
『キミの意識にボクの記憶をちょっと映したけど、深くは気にしないで。
……先を続けるよ。
でね、ボクはこっちの世界に来てから、ちょっといろいろ問題があって、土の中で動けなくなってたんです。まる』
まる?
『まる!』
カルネは念を押すように力強く宣言する。
丸って……「。」? それだけ?
『それだけ!
……あとは気がついたらキミの身体に〈物理的位相固定〉が設定されていて、ボクの身体はどこにもなくって、で山の中でぶっ倒れてて、途方に暮れて、途方に暮れててもしょうがないから、とりあえず人里に下りようって思って……』
全然ピリオドしてないよ……
ともかくいくつか意味のわからない言葉を飛ばせば、大まかなイメージは充分に伝わった。
気づけば僕の身体に入っていた彼女は、混乱しながらも人里を目指して丘を下っていたらしい。
ということは、僕の身体を乗っ取った経緯はおぼえてない?
『そう、おぼえてないんだよね。
何度試してもキミの身体から離脱できそうにないし、そもそも離脱しても本来の身体がないと物理世界で迷子になっちゃうし。
どこ行っちゃったんだろ、ボクの超絶可憐な絶世の美少女まちがいなしのラブリー肉体ちゃんは――――』
そのままカルネは愚痴っぽい口調で意味不明の言語をぶちぶちと呟きはじめた。
なんだかなぁ……
黙って聞けと言った本人に説明する気がない、ような気がする。
にしても絶世の美少女、か。
そういえばあの石室、水晶に眠った少女は確かに美しかったけど……
ん? カルネちょっといい?
『んにゃ、何?』
カルネって、もしかして僕より小さな女の子だったりする?
それもすごく長い銀髪で、ちょっと鋭い顔してる?
『うんうん、そんな感じ。
…………えっと?
ちょっとまってレイ君、もしかしてボクの身体を見たの?
美少女ですらっと細くてスタイルのいい』
うん胸が小さい――
「誰の! 何が!!
ミニマムバストかぁぁ――――――ッ!!!」
牙を剥いて吠えるという行為を僕は初めて体験した。
それも自分の口で。
カルネの発した突然の大声に周囲の生徒たちから驚きの声と、咎めるような目が向けられる。
カルネは誤魔化すように笑って頭を垂れると、静かな、しかし有無を言わせぬ口調で僕に耳打ちする。
『レイ君、そこには二度と触れないで…………
今度言ったらテメエの口を縫い合わせて、レースで飾り付けしてから熱々のアイロンでプレスするからな、あぁ?』
ドスの効いた声でそう凄まれれば僕にできるのは黙って同意を帰す事だけ。
後半部分の脅しが意味不明だけど、歓迎できない雰囲気なのは間違いないし。
それはさておき、石室にあった水晶の棺の中身は、やはりカルネの身体らしい。
『石室? それってどこ?』
〈塚森〉のどこか……だと思うけど、詳しい場所とかは全然憶えてないよ。
状況が状況だったから。
『状況って――
ねぇレイ君、どうしてそこに行ったのか、そもそも何があったのか、よかったらついでにキミの事とか、ボクに詳しく教えてよ』
詳しく、って僕もあまりおぼえてないんだけど。
『どんな手がかりでも歓迎するから。さ、話して話して』
うん…………
今日は〈陸士学部〉の〈春の夜戦〉の日なんだ。
この演習には学部の生徒が全員参加してて、演習林で〈攻撃側〉と〈防御側〉に別れて大規模な夜戦をやる。
僕も〈学校〉に住む学生で〈陸師学科〉に所属している。
〈学校〉っていうのは通称だよ。
この〈西方大陸〉で〈学校〉って言ったらこの町、この都市国家の事を指すんだ。
ここは町全体が全体が学びの場になっている。
学ぶべき学問はただ一つ。軍学、つまり戦争の学問。
身分や出身、貧富の差に関係なく入学できて、最先端の軍学を教えてもらえる。
卒業すればその技術は保証されるし、上流社会へだって入れる。
ちょっと話がそれたね。
〈春の夜戦〉は半分お祭りみたいな、ゆるい雰囲気なんだ。
僕は偵察班に入ったけど、陣地の周囲警戒だけだから楽に終わる。
そのはずだったんだ。
僕は突然、覆面の女生徒に襲撃された。
女生徒は腕にリボンを巻いていなかった。
手にしていたのは、演習では持ち込み厳禁の実剣。
僕は逃げ出した。
死にたくない一心で荷物を放り出し、一時間近くもなりふりかまわず演習林を走り回った。
そして最後にたどり着いた、いや追い込まれたのがあの〈塚森〉。
地図も目印もないし、案内しろと言われても直行できる自信は、正直まったくない。
その後の事については、残念だけどぼんやりとしか憶えていないよ。
暗闇に謎の気配。銀の腕と水晶の棺。そして銀髪の少女。
――ということなんだけど。
『キミは話が長い。15点』
説明も含めてあらかた今日の出来事を語り終わった頃には、相づちを打つカルネの声はずいぶんとしょぼくれ返っていた。
『あーと、じゃ、要約するとこうかな。
キミは誰かに命を狙われ、無我夢中で走り回ったあげくに穴に落ちて、ボクの身体を見つけた……案内しろって言っても無理だ、と』
申し訳なく思う僕に対し、首がひとりでに左右に振れる。
『ううん、命からがら逃げ回ってたなら仕方ないよ。
それに今の状況じゃ、たぶん身体を見つけてもボクは戻れないから……』
言葉を濁すカルネに、僕はそれはどういう事なのかと疑問をぶつけてみる。
ややあって返ってきた声はどこか湿っていて、なんだかもやっとした響きだった。
『隠すつもりじゃないんだけど、ね。
その、ボクはね、じつは今、神さまとしての力をほとんど持ってないんだ。
身体に置いてきたり、それより前に無くしたりしてて。
だから確実なことは何も言えない、んだけど』
そこでまたカルネが言葉を切った。
何をどう言うべきか迷っている。そんな雰囲気が伝わってきて僕を不安にさせる。
心配する僕に気がついたのか、カルネはまたポツポツと言葉を繋げはじめた。
『えっと、うん。とにかくダメ、なんだよ。
キミとボクを繋いでいる……〈絆〉が何かわからないんだ。
キミの身体とボクの心がくっついてるから、何かあるはずなんだけど』
〈絆〉って?
『ボクらが人間との間に結ぶ契約、あるいは根っこみたいなものさ。
キミの身体にはおそらく、ボクに触れるより前に〈絆〉があったんだ。
それがどんなもので、解除するにはどうしたらいいのか……
ボク自身と同化しちゃっててさっぱり分からないんだよ』
同化してるとだめなの?
むしろ自分の事だから簡単のように思うけど。
『キミは鏡なしで自画像を描ける?
手探りするだけじゃ、形はぼんやりだし色も分からないでしょ?
それとまったく同じとは言わないけど、状況的には近いんだ』
指一本動かせない僕に、感触としてカルネのジリジリとした心が伝わる。
悔しさと不安だろうか。
そこに少しだけ、氷のように冷たい焦りが混じっている気がした。
『ごめん、ほんとにごめん』
彼女の謝罪を、僕は心の中でやんわりと打ち消した。
どんな事情があれ起きてしまったことは仕方がない。
責任を感じて互いに謝っているだけじゃ、事態は前進しないよ。
『……そうだね。そのとおりだ。
ありがとねレイ君、前向きな言葉が助かるわ』
カラッと明るい調子を取り戻し、彼女はにゃははっと笑って言葉を続ける。
『にしてもキミ、神経太いよね。
こんな状況で前向き発言できるって肝が据わってるっていうか、物事に動じないっていうか……キミって変人?』
変人とは違うから。ちょっと人生いろいろあっただけだから。
『いろいろ? なになに聞かせ――』
そこでだしぬけに、天幕の外から角笛の音が何重にも重なって響いた。
どうやら勝敗が決したらしい。
〈防御側〉の角笛が鳴ったということは、今年も〈防御側〉の優勢勝ちで決着か。
『ふーん、終わったんだ。
で、これからどうなるの?』
捕虜になった生徒は、全員演習の後片付けに強制参加。
『マジ?』
うん、だからだよ。できれば捕まりたくなかったのは。
そろそろ縄を解いてくれるはずだから、あとは片付けに付き合うしかないさ。
『うわ、なんか急にダルくなってきたナー。
サボり方とか知ってる人いないかナー』
知ってるけどサボっちゃ駄目だよ。
『即却下かい』
僕の、いや家族のモットーは手を抜かないことなんだ。
コツとかは教えてあげるから、とっとと片付けちゃおうよ。
『はいはい、しょうがないにゃぁ……
……ま、ありがとね』
カルネがクスリと喉を鳴らす向こうで、浮かれた〈防御側〉生徒たちの足音が聞こえる。
捕虜の生徒たちは縄を解かれ、自由になったその手にはシャベルが配られた。
目に見える形で渡された罰を嫌そうに振りながら、彼らはあきらめ顔で三々五々に片付けに散っていく。
カルネは僕の指示で、陣地まわりに掘られた落とし穴の埋め戻しに向かった。
一人でするならここが一番楽。他の場所は共同作業が多いし。
『これが二人の初めての共同作業でーす。なんてね』
土山にシャベルを突っ込みながらおどけるカルネに、僕も釣られて笑う。
何が可笑しいかなんてわからないけど、その気持ちのいい笑い声だけですっと気持ちが楽になる。
まるで古くからの友人と一緒にいるみたいに。
予想外の出来事の連続で、僕はまだ不安を拭えない。
でも、少なくともカルネは信頼できる。
直感ではあるが彼女が悪い存在だとは感じない。
『そう思ってくれてありがとね』
どういたしまして。
『じゃ、片付け頑張りますか!』
こうして僕とカルネの、短くて長い出会いの日々が始まった。