Chapter1 ~女神は王子と入れ替わる~ ①
深い夜の、その帳の下で。
僕は走り続ける。
暗く湿った森を、わずかな光を頼りに走る。
ノドが荒い息に悲鳴を上げ、凍えた胸が早鐘で痛む。恐ろしさに脇が引きつり腹は泥水がたまったように重い。
僕は逃げ続けている。
ここは〈学校〉の演習林。
ヤブもツタも払われ、あるのは木と根っこばかり。
冬が明けたばかりで草もほとんど残っていない。
邪魔がないのを幸運だと思い、それは追いかける側にも同じだと気づく。
僕は幸運という考えを撤回する。
ふり返らなくても足音でわかる。
静かに、しかし力強く地面を蹴って追ってくる。
あれは女だった。
少女だった。
僕と同じくらい小柄で、同じ制服を着ていた。
黒い覆面を顔に、手に剣を、黒く鋭い馬上剣を持っている。
僕の首を狩ろうとしている。
靴ごしにザクッとした固い下生えを感じる。
地面の様子が変わった?
方向の感覚が消えた。
せめて方位だけでもと思っても、生いしげった枝葉が夜空も星も隠している。
仮に見えたとして、走りながら方角を確かめる術はない。
僕はまだ三学位。地勢から方角は読めない。
ふいにつま先が何かに触れた。
そして何を思うひまもなく、僕は前のめりで森土に突っ込む。
幸いにも怪我はない。
腐った落ち葉が僕を正面からふわりと柔らかく受け止めてくれたおかげだ。
土を噛み、口に満ちたかび臭さにむせる。
と、目の前の土から頬をふくらませた精霊がピコッと顔を出し、翅を振るわせて威嚇してきた。
六個の真っ赤な眼を少女の容貌に持つ〈緑の精霊〉。
彼女は土のすき間から細い緑の身体を引き抜くと、カゲロウの翅をふるわせてあたりを飛び回りはじめる。
その声は聞こえずとも、激しく震える仕草と明滅する淡い〈精霊光〉でその立腹は僕に充分に伝わってきた。
でも今は取り合っている場合ではない。
怒れる精霊の光を松明の代わりにして、僕は急いで周囲を確認する。
すぐに気づいたのは正面、ほんの二歩ほど先に壁。
その石積みは僕の背よりも高く、そして隙間なく組み上げられている。
足下の何かに引っかからなければ、全力でその壁に打ち当たっていただろうか。
薄い光に目が慣れてくると壁が左右に弧を描いて続いているのが見て取れる。
苔やツタに覆われヒビが幾重にも入るその姿は、かなりの年月を経たものだと言っていいだろう。
おそらくは古代の墓だ。ということは……
「ここはまさか〈塚森〉?」
演習林のすぐ外の丘、その頂にある暗い森。
一学位のときに上級生の案内で来たことがある。
千五百年前の古代ロマヌスの墓が点在する暗い森。
〈学校〉でも飛び抜けて不気味な、その雰囲気だけで夜はもちろん昼にだって近づきたくなくなる場所。
僕は追い込まれた。
そう悟ったときに、背後から小枝を折る音が響く。
ふり返る僕の、もうすぐそばまで奴が迫っていた。
精霊光に浮かび上がった濃い緑のシルエットは、恐ろしいほどゆっくりと土を踏み、そして確実に近づいてくる。
覆面の奥から冷えた視線がまっすぐ僕に注がれ、間合いに入ったと見たのか、サーベルが横に引かれる。
その動作に無駄はない。息づかいすら感じられない。
そして静かなだけに、有無を言わせぬ殺気に満ちていた。
「くっ……」
あまりの恐怖に立ち上がる事さえできなかった。
精いっぱいに歯を食いしばっても、後ずさりするのがやっと。
それも背に石壁が突き当たるまでだ。
もう逃げ場はない。
少女がサーベルを引き絞り……
小石の転がる音が聞こえ……
少女が動きを止め――
だしぬけに、僕の背にしていた壁が崩れた。
背中の支えを失い、僕は後ろに向かって頭から落ち込んでいく。
周りで石壁から丸石がボロボロとはがれ落ちる様子がやけにゆっくりと見える。
視界はすぐに暗くなり、ぽっかりと開いた穴の口に少女のシルエットだけが残る。
そしてなにもかもが消え、僕の周囲に黒が満ちていった。
***
「……かっ、はっ」
背中の痛みに息が詰まり、覚えないうめき声がもれる
ずいぶん長く、まるで地の底まで落ち切った感じだ。
しかし動転しているときの体感ほど、およそ当てにならないものはない。
とにかく現状把握。〈遊撃戦〉の講義の通りに。
暗闇で頼れるのは耳と肌。
背中に感じられるのはしっとりと冷え、ゴツゴツとした平面。
おそらくは石が敷き詰められた床か。
両手で辺りを探ってみるが、壁らしきものには触れられない。
広い空間のようだ。
ここは〈塚森〉、古代ロマヌスの貴族たちが永遠の眠りについている場所。
ならばその地下にあるこの空間は、たぶん石室と見ていいだろう。
幽霊が出てもおかしくはない、か。
ちらっとそう考えただけで不気味な気配がただよう気さえ…………!
冗談を抜きに誰かの気配を感じて、シャツの下で肌がいっせいに粟立つ。
第一に考えたのはもちろん追っ手のこと。
しつこく僕を追いかけ回した相手が、穴に落ちたぐらいで諦めてくれるとは考えにくい。
むしろ闇に忍び込んで首を狙っている方が自然だ。
心臓を締め上げる危機感に、僕は音を立てないようにそろりと立ち上がり、気配を探って闇の奥に耳を澄ませる。
淀みなくじわじわと動いている。
僕とは違う息づかい。わずかな衣擦れ、鎧が触れあう金属音。
そしてかすかな足音。
耳が捉えたその動きを、僕は見えもしない目を開いて追いかけた。
もう間違いない。この暗闇の中を誰かが歩き回っている。
暗闇?
僕は今になって強烈な違和感に気づく。
世界に真の暗闇なんて存在しない。少なくとも僕にとっては。
精霊のいない場所があるのか……そんなものがあり得るのか?
いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない。
誰かが、何かが僕のすぐそばにいる。
人間に見通せない闇を探りもしないでうろつく。
そんな離れ業ができそうなのは、よほど手練れの暗殺者か、もしくは――
(幽霊?)
吐息で僕が問うた次の瞬間、だしぬけに強い光が目を灼く。
不思議に熱を感じない青みの強い光。
色を訊ねられたら銀色が近いだろうか。
それが飾りのない石室を、まるで昼間のようにはっきりと照らし出した。
光の中心に誰かの人影が焼き付く。
だがそれは、僕がまばたきする間に光に白く溶けてしまった。
代わりに奥に見えた異様な物が僕の目を釘付けにする。
それは交差した腕のようなもの。
左右一対の物体が、石の壁から場違いなほど唐突に突き出していた。
腕だと言い切れないのはそれが明らかに大きすぎるから。
下腕らしき部分だけ見ても丸太より太く、馬の胴より長い。
岩から飛び出した石垣のようにゴツゴツと角張った手甲。
その先に四角張った籠手を付けた半開きの手が、まるで何かを抱くように組み合わされていた。
僕はそれらを目にした途端、追いかけられていたことも妙な気配のことも一瞬で忘れてフラフラと近寄っていく。
ちょっとためらってから、思い切って表面に指を這わせてみた。
鎧の表はとても滑らかで、わずかな引っかかりすらも感じられない。
丹念に磨き上げられた巨大な銀無垢の像。でもなぜ腕だけ……
「……あれは?」
両腕の奥、指のすき間から覗いた透明なものに目が止まった途端、背筋にゾクリと何かが走った。
それは例えるなら好奇心と忌避心の混合物。
近づきたくあると共に遠ざかりたいと願う相反する心の衝動。
だが、気づいたときには巨大な腕に自分の足をかけていた。
我知らず角張った表面をよじ登り、その上から向こう側をのぞき込む。
そこで目にしたのは、およそ奇妙としか言いようがないもの。
高さ10フィート(3メートル)ほどの、アーモンドのような形の水晶。
それが尖った先を床に向けて直立している。
「棺?」
反射的にそう思ったのは、透きとおったその中に少女の姿を見たからだった。
細い身体と長い髪、そしてしなやかな手足。
わずかにふくらんだ胸と少しくびれた腰回り。
一糸まとわぬ生まれたままの姿で、少女は水晶が水であるかのように身を縦に伸ばしてたゆたっている。
あっけにとられてその姿を眺めながら、僕は誰にともなくつぶやく。
「古代ロマヌスの亡骸じゃない、よね。さすがに……」
死体にしてはちょっと新鮮すぎる。
しっとりとした白磁の肌には、血の通ったバラ色が差す。
目を閉じてきゅっと口を結んだ、今にも動きだしそうな表情の生々しさ。
そこに干からびた様子は全くない。
そして鋭利な刃物のような鋭い顔立ち、銀糸のような細くまっすぐな髪。
どちらもロマヌス人の特徴、ふっくらとした顔と太く縮れた髪からかけ離れている。
僕は確信する。
この少女はロマヌス人でも、ましてや今から千五百年前の死体でもない。
では幽霊なのか?
そう考えた時に、僕は考えもなく足を半歩引いていた。
革の靴底が鎧の縁を踏み、よく磨かれた角でスルッと横滑りする。
「うわっ!」
たちまちバランスを崩して前のめりになり、僕はデタラメに手を振り回したあげく水晶の棺めがけて倒れ込んだ。
手が水晶の表面に触れる。
それは突然、僕に襲いかかった衝撃。
「ぁぐっ! か……ぁっ……」
冷たいのか熱いのか、それすらもわからない。
ただひどく刺すような感触が、それも一度に何本も、手の平から肩までを一瞬で突き抜け僕の心臓に突き刺さる。
僕から何かがバリバリと音を立てて引き剥がされ、その代わりにするりと別のものが入りこんでくる。
視界が回る、
吐き気がひどい、
頭が割れる身体がむしり取られる誰かが僕に染み入ってくる痛い痛いいたいいたい――
「ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああっ!!」
苦痛のはてに、僕はとうとう気を失って暗い縁へと投げ込まれていった。
『誰? ボクらの目を覚ましたのは……』