そして彼女は飛び降りた
雲というシミ一つない、何処までも青い空。誰もいない学校の屋上。錆びついたフェンスの上に、バランスを取り座る。裸足の足を宙にぶらつかせれば、制服のスカートがひらひらとはためいた。
とても気分がいい。
バカとなんとかは高いところがお好きと言うが、私はバカだったようだ。
眼下に広がる景色は、冷たく無機質な建物ばかり。それらを青空と一緒に見下していると思えば、気分が高揚していくのがわかる。
靴も揃えたし、この世で最後の手紙も書いた。
あとは1、2の3で飛び降りるだけ。簡単だ。この絶妙なバランスを崩して、体を前に倒せばいい。それだけで、私は空を飛べるんだ。
「おい」
舞い上がっていた私の脳に、突然よく知っている低い声が響いた。顔だけ後ろに向ければ、屋上のドアに背を預けて佇んでいる、制服姿の幼なじみの姿。
「けんちゃん。いつの間に? 全然気付かなかったよ。どうしたの?」
けんちゃんは無言で私を睨み付けている。いつの間にこんな強面になったんだろう。短くツンツンした髪に、長身。しっかりした体つきに鋭い目付き。基本的に無表情なやつだったけど、私は長年の付き合いから彼の感情はすぐわかった。けんちゃんは怒ってる。
「お前いい加減にしやがれ」
「何のこと?」
「……また飛び降りるつもりか」
また? けんちゃんの言っている意味がわからない。
「どういうこと?」
彼が煩わしいと言わんばかりに、奥歯をギリッと噛むのがわかった。
「繰り返すな」
「何を」
「もうやめろ」
「だから何を」
「……頼む」
「けんちゃん?」
「…………お前は、もう3年も前に死んでるんだ」
ザァっと風が吹いて、頭が鈍器で殴れたように真っ白になった。
「お前は毎年この日この時間、ここに現れてはそこから飛び降り続けてる」
ああ、そっか
棺桶で眠っていた記憶が、脳の中を這いずり回る。全部思い出したし理解した。10月も終わりの今日。創立記念日で誰もいない学校に忍び込んで、私はこの屋上から飛び降りた。少し肌寒いけどお気に入りのセーラーの夏服を着て、呑み込まれそうな青空の下で。死んだんだ、私は。そしてそれは一回限りの記憶じゃない。けんちゃんの言う通り、毎年繰り返してる。そして、
「去年も一昨年も、私が初めてここから飛び降りた時も、けんちゃんは私を止めに来てくれてたね」
「……今年こそ、俺はお前を止める」
けんちゃんの眼は、いつだって私を射抜く。
そういえば、私が死んだんのはけんちゃんも私も16の時。あれから3年ということは、けんちゃんはもう19だ。それなのに、彼の今の格好は高校の制服。おまけに私に合わせて夏服の。きっと、あの時と同じに戻そうとしてくれている。プライドの高い彼のことだ、ここまで来るのに相当恥ずかしかっただろう。少し窮屈そうな姿に、私はおかしくて小さく笑ってしまった。
私の姿はあの時のまま。彼はどんどん大人になっていく。
「……俺は、お前に聞きたいことがある」
「何?」
「なぜ飛び降りた」
思わず溜め息が出てしまった。自慢の長い栗色の髪が風で靡く。
「それ去年も聞いてたよね」
「去年ははぐらかされた」
「一昨年も」
「一昨年は誤魔化された」
「理由なんて……どうだっていいじゃない」
そう言ったら、けんちゃんは後ろ足でドアをおもいっきり蹴った。鈍い音がして、パラパラと錆びが剥がれ落ちる。
「なんでだ! 先生に髪を無理矢理黒にされたからか? 親戚連中に陰口叩かれたからか? 女子どもに嫌がらせされたからか? それとも……!」
「違うよ」
自分の声が、妙に冷たく虚空に響いた。
違うよ、違う。
髪は先生たちは信じてくれなかったけど地毛だから、色はすぐ戻る。学校でも浮いていて評判の悪い私を、どこも長続きしなかったけど一時でも引き取ってくれた親戚には、むしろ感謝してるくらいだ。女の嫌がせにいたっては、それこそ気にしてたら身が持たない。
理由なんて、もっとシンプルなものなんだ。
フイっとけんちゃんから視線を外し、私は前に向き直った。やっぱり何度見ても、ここからの景色は私をわくわくさせる。密集した建物に囲まれて、下は入り組んだ迷路のようだ。あんなとこにいたから、私はいつも居場所に迷ってた。いつも、抜け出したいって思ってたんだ。それが、死で得られるゴールだとしても。
「けんちゃんに、私は止められないよ」
「……意味がわからねぇ」
背中越しのけんちゃんの声は、泣き出しそうな震えた声だった。そういえば、小さい頃は泣き虫だったっけ。昔のように、振り返って泣き顔を見て笑ってやろうと思ったけど、やめた。どうせ見るなら、今じゃ貴重なけんちゃんの笑顔がいい。でも、きっとそれはもう見れないから。
ねぇ、けんちゃんは覚えてる?
両親が死んだとき、一番に駆けつけてくれたことや。
先生に嫌がらせで難しい問題ばかり当てられたときに、さりげなく答えを教えてくれたこと。
クラスの女子に教科書を隠されたときは、放課後まで残って一緒に探してくれたこと。
私が軽い気持ちで「死にたい」って言ったら、いつも本気で怒ってくれたこと。
けんちゃんにはきっと何でもないことが、私の数少ない「生きる意味」をつくってくれていたこと。
きっと、けんちゃんは知らないよね。
「ねぇ、けんちゃん。あの子は元気? あの、私とは違う黒髪が綺麗で、胸の大きな子」
「……誰のことだ?」
「結局私が死んだあと、付き合うことにしたの?」
「一体何の話をしている……!」
この調子だと、あの子の作戦は失敗したみたい。
私という邪魔者を排除して、けんちゃんを一人じめする作戦。
『あなたが、けん君の幸せを邪魔しているの。あなたがいなければ、けん君はもっと自由になれるのに』
けんちゃんは無自覚だけど、結構かっこよくなっちゃったから、けんちゃんを狙う女の子はいっぱいた。そんな子から暴言を吐かれることは、私の日課のようなものだった。
でもね、あの子に言われて、私わかったんだ。
―――――私の存在は、きっといつか、けんちゃんを殺す。
私は私が、すごく厄介でとても面倒くさい生き物だって知ってる。
けんちゃんが傍にいない未来なんて、私は想像できなかったし、けんちゃんという「生きる意味」がなくなれば、私は絶対におかしくなってしまう。だから、本当はずっとずっと一緒に居たかった。
でもそれを告げれば、優しいけんちゃんは本当にずっと私の傍に居ようとしてくれることもわかっていて。そして私はきっと、そんなけんちゃんの優しさにつけ込む自分を許せない。けんちゃんは「自分が望んだことだ」とか言うだろうけど、そう望ませた私が私を許せないんだよ。
ある意味では、あの黒髪の女の子は、私とけんちゃんを救った恩人かもね。
あの子のおかげで、私は自分がおかしくならないで、けんちゃんを解放する方法を見つけられた。その方法は至極単純で、かつ、私がいつも口にしていたことだった。ただ、それだけの話だよ。
だから私は今、とても幸せだ。
「……もう時間だから、逝くね」
グッとフェンスを握る手に力を入れた。毎年言えずにいるのだけど。今なら、言ってみてもいいかな。
「けんちゃん、好きだよ。バイバイ」
なんて。
もしかしたら、来年までまたねかもね。
体が前に傾いて、フェンスからゆっくりと指が離れていく。空は青色、地面は灰色。私はこれから、青と灰に挟まれて、汚くくすんだ水色になるんだ。
にっこりと、私は彼に笑いかける。
――――瞬間、けんちゃんが叫んだ。
「待て!! 飛び降りるなら……!」
けんちゃんが、私に向かって走ってくる。思わず動きを止めて振り返った。けんちゃんはバッと大きく手を広げ、私の目をしっかり見据えて、言った。
「飛び降りるなら、こっちだ」
「!」
私は目を見開く。けんちゃんの腕は、私の背後の空ごと抱き締めてくれそうなほど大きくて。思わず目の奥が熱くなった。
「お前の考えとか、何で飛び降りたとか、そんなことは知らん! もうどうしようもないことだ! けど、まだお前はそこにいて、まだ俺がここにいるのなら、俺はお前を諦めない! 毎年毎年飛び降りやがって、このバカ! そんなに飛び込むのが好きなら、こっちに飛び降りろ! 俺が、俺が必ず――――受け止めてやるから!!」
……ずっと、憧れてたこと。彼の腕に飛び込む私の姿。そこはきっと暖かくて、生きてる者の音がする。去年も一昨年も、こんなことしなかったくせに。触れたいって、抱き締めて欲しいって、思っちゃうじゃん。
「バカだな、本当にけんちゃんは」
今さら私にこんな思いさせて、何の意味があるっていうの。今も昔も、生きてようと死んでようと、私があなたの胸に飛び込んでいい資格なんてないのに。
彼を自由にして、私もくだらない世界から自由になったっていうのに、なんでこんなにも苦しいんだろう。
幸せ、な、はずなのに。こんなにも胸が痛いのはなんで。
どうして、どうして今さら。私は彼を求めているの。
ねぇ、どうすれば、あなたからも自分の本音からも逃げられる?
――――どうすれば、どうすれば、本当の自由になれる?
……また飛び降りれば、今度こそ自由を掴めるのかな。
ねぇ、けんちゃん。
「おいっ、こっちだ!」
その時、一陣の風が吹いて。
「美月……!」
「っ!」
悲鳴が空に木霊して。
そして私は飛び降りた。