ポオとホフマン、 poe and hofmann 試論
怪奇幻想作家としてよく引き合いに出されるのはこの二人だ。
しかし、決定的に違っている二人でもある。
一言で言えばその違いは
ポーは怪奇や幻想を恐怖の美学として冷徹に考え抜いて読者への効果を考え抜いて
構築しているということ。作者のポオはあくまでもクールだということ。
たいして、、
ホフマンは、自分の切なる魂の分裂の叫びとして混濁しながら
よっぱらいながら?
絶叫し吐露しているということ。つまりホットだということ。
たとえば、ポーに、「ベレニイス」がある。
その玲瓏な歯の魔力的な執着にとらわれた主人公は、その歯をすべて抜き取ってしまうのだった。
その描写は重く沈んだ調子で累々と続けられていく。
ホフマンのような激発もないし、小説構成の狂乱も無い。
一方、ホフマンは
常に凶脳するし、激高してはすべてを滅茶苦茶にしてしまうばかりだ。
断定的に結論付けるなら、
ポーにとっては恐怖も幻想も、かれの美学にとってのあくまでも、手段に過ぎない。
しかし、ホフマンにとっては、狂脳も懊悩も彼の人生そのものであったといえようか。
まとめ的に言うならば、、、
ポーはいつだってクールでさえわたって
恐怖を冷徹に凝視している。
たいして
ホフマンは自分の生み出した小説の登場人物と同化しきって
懊悩し、、かつ、狂乱するばかり、、。
物語もどこへ行くのか、、操縦不能?みたいな、、行き当たりばったり?
しまいには
劇中人物と同化しきって
突然、喚き散らしたり
叫んだり、、、
とにかく、、ホット?ですよね。
というかはっきり言って、帰智外沙汰、、の様相を呈してきたりもします。
思いつきで?話が中断して突然、関係ない
挿話が枠小説として挟み込まれたりして
意表を突かれることなんてザラですよ。
つまり小説の構成を、練って
乱れなく、、展開するということなど眼中にない?
ということでしょうか。
断定的に言わせてもらえば、、
酒と酩酊と狂脳との赴くままに
夜の薔薇家で深酒して酩酊しきって
深夜にあの中二階の自宅の部屋に戻り
そのまま早速やおら机に向かって
まるで自動書記のようにペンを走らせるばかり、、、。
そして、、出来上がった原稿を読みかえしてみると、
自分でその原稿の物語の狂脳のすさまじさに、我ながらおびえる、、。
その恐怖に耐えきれず、、
眠っていた従順なポーランド妻「ミーシャ」をたたき起こして
灯りを持ってそばにずっと、ついていてもらったという逸話があるくらいですからね。
まあ、おもいつくままきのむくまま、、
自分の幻想の翼を狂脳の魔界へと羽ばたかせるばかり、、。
それがホフマンです。
それこそがホフマンの真骨頂ですよね。
だから、、
よっぱっらっていないで、、
しらふで、、よーく構成を考えて
書いたとされるいくつかの小説は
私のような熱狂的な?ホフマンファンからすれば
なんか物足りない。
ホフマンって、これじゃないでしょ?みたいな、、
食い足りなさを感じてしまうのでしょうね。
たとえば「スキュデリー嬢」「マルチン親方」などは
まるで?ポーの探偵小説読んでるようで?
冷静で?乱れなくおはなしが進んでいきますよね。
突然意味のない?挿話が挟まれたりもしないし、、
自己韜晦の作者が突然文中に登場し、わめき散らしたりもしないし、、
ボッシュやクラナッハのような奇怪な動植物や妖女などの
狂想的な場面も出てこないし、、
まあ、、ある意味、、よくできたお手本的な小説ですよ。
「スキュデリー嬢」や「桶屋のマルチン親方」は。
でも?
なんか炭酸の抜けたコーラみたいで?
味気ない限りの小説でもあるわけですよ。
こういうよくできた?のよりは
どうしたって、、、、、
「ヒッヒッヒ、、、メダルドウス、、森へ行こうよ。
森へ、、、、、花嫁が待ってるぞ、
ヒッヒヒ、、、兄弟メダルドウス、
行こうよ、、、、
さあ、森へ、、」
というようなセリフこそああやっぱり
ホフマン的だなあ?という感じでしょ?
ホフマンからこうした狂躁的なセリフや
ドッペルゲンガー幻想や
カロー画伯のような奇奇怪怪なカプリチオや
ヒエロニムス・ボッシュのような異界幻想を
もし、削除したとしたら?
それはもう、、気の抜けたコーラみたいなものですからね。
ところでさっきも書いたように
ポオには一切
こうした激高も波乱も構成の乱れもありませんね。
それは登場人物が激高したりする場面はありますが
それを書いてるポオはあくまでも「冷徹」ですね。
ホフマンみたいに自分まで登場人物と一体化して興奮のるつぼに、、ど嵌る、、なんてないです。
ポオは恐怖の美学というようなものを提示したいだけなんですよ。
確かにそれは
「モエラ」とか「アナベルリー」では
透明な恐怖感というか、、
恐怖美学を体現しえていますね。
ただ、、
時としてそれは
あまりにも「ペダンティック」であるという
嫌味にも転化?しがちな要素でもあるのですよ。
ポオの作品にもいくつかそうした「嫌味?」なものも
私的には見受けられますけどね。
モエラとかリジイアではそうした嫌味は感じませんけどね。
計算し尽くされた?ポオのあくまでも冷静な
『恐怖の美学』が好きか?
それとも
狂脳にまかせて、、奔放なペンにまかせて?自らの深刻な懊悩を
書き綴った破たんだらけのホフマンが好きか?
それは読者個人の
各自の判断に任せるしかないでしょうね。