最後で最高のクリスマス
「ねぇ、私、クリスマスは札幌に行きたいわ」
彼女は僕に微笑んだ。その雪のような肌と札幌の雪では、どちらが美しい白だろうか。
「クリスマスって、まだ三ヶ月も先じゃないか」
携帯電話を取り出してディスプレイを覗く。正確には、三ヶ月と二日。
彼女は今度は白い歯を見せて、僕に愛らしい笑顔を向けてきた。
「私のクリスマスは明後日よ」
「どういう意味?」
その問に、ふふ、と笑う彼女。僕はきっと無意識のうちに首を傾げただろう。
「私たち、三ヶ月後も恋人同士だっていう確証はないじゃない」
あぁ、そうか。妙に納得してしまう自分が哀しい。もちろん、三ヶ月後だろうと三年後だろうと、彼女の隣は僕だけの特等席だ。誰にも譲る気はない。
「だけど、どうして札幌なんだい」
すると彼女は両手を合わせてにっこりと笑ってみせた。よくぞ訊いてくれました、と言わんばかりに。
「この時期、雪が見れるのは北海道だけでしょう?」
嬉しそうな笑顔。しかし、その台詞を聞いて、ちょっと待てよ、と思ったのは僕だけじゃないはずだ。だって今は――
「いくらなんでも、九月に雪は降ってないだろう」
僕がそう言うと、彼女はため息をついて首を横に振った。どうして彼女がため息をつくんだ、呆れたのは僕だろう?
彼女は真っ直ぐに僕の目を見つめてこう言った。
「夢もロマンも、何もない人ね」
そんなことを言われるだなんて、全く心外だ。
「でもわかってる。わかってるのよ、そのくらい。とにかく明後日は予定を入れないでおいてね」
そう言い残して、彼女は僕の家を出て行った。まるで我家であるかのように、鍵までちゃんと掛けて。飛行機のチケットは? ホテルの予約は? 色々な心配事があったが、それよりも僕は彼女との初めての旅行が嬉しくて、その日は何もせずにベッドに潜り込んでしまった。
九月二十五日。僕たちは今、札幌のホテルの一室にいる。
「街の中に、大きな公園があるらしいのよ」
彼女の口ぶりからして、行きたいのだろう。よし行くか、と意気込み、荷物もそのままで僕は彼女の手をとった。
北海道と言えば、僕たち東京の人間は真っ先に大自然を思い浮かべる。しかし札幌は、ごく普通の都会だった。安心したような、期待外れのような、複雑な気持ちになる。
それでもやはり、さすが北海道と言うべきか、街の中まで緑で溢れているのには感心した。東京と何ら変わらないデパートの数々、しかしどこにいても緑は側にあって、空気が澄んでいて綺麗だ。
公園に着くと、僕と彼女は白いベンチに腰を下ろした。なるほど、彼女の言っていた通り、大きな公園だ。大きいというレベルじゃない、どこまで続いているのだろうと驚いてしまったほど、果てしなく続くように見える長い公園。
鳩がたくさんいるね、と隣にいる彼女に語りかけると、まるで平和そのものね、と彼女は柔らかな微笑を浮かべた。
「夏ならビアガーデンもやってるんだって」
一体どこからそんな情報を仕入れているのだろうと不思議なくらい、詳しい。よっぽど楽しみにしていたのだろう、下調べは完璧のようだ。
「じゃあ、来年は夏に来よう」
何気なく言った僕の台詞。しかし彼女は寂しげに笑うだけで、何も答えようとはしなかった。
しばらくベンチに座って自然を堪能したあと、彼女はクリスマスプレゼントを買いに行こうと言い出した。
「本当に今日がクリスマスなのかい」
「ええ、そうよ」
彼女はにっこりと微笑むと、僕の手を引っ張って無理やり立ち上がらせた。「じゃあ一緒に選ぼうか、それでプレゼント交換をしよう」
我ながら良いアイディアだな、と思った。しかし彼女はこれをあっさりと否定する。
「私はあなたに形に残る物を、あなたは私に思い出に残る物をプレゼントしましょうよ」
彼女はそう提案した。
「違いは何?」
「物か否か、よ」
つまり彼女は物は欲しくないということだ。
「なら、食事はどうだい?」
このくらいの都会なら、洒落たレストランなどいくらでもありそうだ。彼女は桃色の唇の両端を上げ、いいわね、と頷いてみせた。
色々なデパートに入ってはあちこち見て回り、元々買い物があまり好きじゃない僕は少々うんざりしていた。
少し休んでるよ、と彼女に告げ、僕は入口付近の休憩室に向かう。ふと横を見ると、案内所があるのを見つけた。ちょうどいい。足の向きを変えてそちらへ歩いて行く。案内所の女性は、僕に気が付くと愛想良く微笑んでお辞儀をした。
「すみません、この辺りに夜景でも見えるレストランはありますか」
すると女性は、おそらく同じ質問をしてくるカップルがよく来るのだろう、すぐにフランス料理の店を紹介してくれた。近くのホテルだ。女性はその店に予約の電話まで入れてくれて、大袈裟かもしれないが、なんだか久しぶりに人の優しさに触れたような気がした。
三十分ほどして、やっと彼女が戻ってきた。その手には、どこかのブランド物の紙袋。僕はそういうのに疎いため、全くわからないが。
「結局、私が勝手に選んじゃったわよ」
そう言いながら、彼女は僕の指に自分のそれを絡ませてくる。待たされいたとは言え、自分のために一生懸命プレゼントを選んでくれていた彼女がどうしようもなく愛しくなり、その手をぎゅっと握り締めた。
時計の針は既に五時半を差している。楽しいと時が経つのは早いというのは、本当らしい。
「少し早いけど、行こうか」
「どこへ?」
僕はあえて答えなかった。驚かせてやろうと思ったのだ。まさか店を決めてあるとは、思っているまい。
ゆっくり歩いたのだが、二十分程度でホテルに着いた。
「泊まるホテルはここじゃないわよ」
彼女は僕の顔を見上げて言った。いいから、と言って彼女の手を引き、エレベーターに乗り込む。僕の指が押すボタンは、最上階。エレベーターの窓から見える夜の札幌、それは絶景だった。観覧車まである。僕も彼女も、言葉を失って見惚れていた。
エレベーターの扉が開くとそこには、少し薄暗い、美しく静かな空間が広がっていた。
「すごい!」
店のオレンジ色の光が瞳に映り、文字通り彼女は目を輝かせる。僕も、期待していた以上の光景に感動した。
窓際の席に案内され、僕と彼女は向き合って座る。ワインで乾杯しようとすると、彼女は細く白い人指し指を立てて、こう言った。
「今日は、クリスマスよ」
一瞬考えて、すぐに彼女の意図したことを理解した。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、こんな台詞を口にする。
「メリークリスマス」
彼女は満足そうに笑いながら、メリークリスマスと返して互いのグラスをカチンと鳴らした。
「ねぇ、私、こんなに星を見たのって初めてよ」
彼女は空を眺めながら呟いた。
「僕もだよ。やっぱり空気が綺麗なんだね」
「東京の空はこんなに澄んでないわ」
細いのに、決して見失ったりはしない三日月。その存在を人々に伝えるかのように、強く輝いている。僕は、そんな三日月と彼女を重ねてしまった。そうだ、彼女が月なら僕は星だ。彼女の美しさを引き立てるのは、僕だ。
「はい、私からのプレゼント。札幌に連れて来てくれてありがとう」
彼女は紙袋を渡してきた。開けてもいいかいと訊くと、まだ駄目よと笑う。
「開けるのは、三ヶ月後にして」
なんだそれは、と文句でも言ってやろうかと思ったが、なんとなく彼女の言う通りにしようと思ってやめた。
「今日は人生で最高のクリスマスよ」
そう言うと、彼女は今までで一番優しい笑顔を見せてくれた。三ヶ月後、またこの笑顔を見たいと思った。
一日はあっという間に終わり、翌日、朝一の便で僕たちは東京へ戻った。札幌に比べて暖かかったが、空は寒々としていた。疲れただろうから、今日はゆっくり休もうということになり、僕たちはお互い家へ帰った。
僕が彼女の母親から連絡を受けたのは、確か夕方頃だったと思う。パニックになっていて、時計なんか見なかったから詳しい時間はわからない。
彼女が、マンションの屋上から飛び降りた。
彼女のマンションは二十階建てで、頭が潰れて即死だったという。
僕は会わせてもらえなかった。彼女の両親に、見ない方が良いと言われた。
その日以来、僕はずっと自分の部屋に閉じ籠っていた。何をしていたかは覚えていない。多分、何もしていなかったと思う。考えてすらいなかっただろう。いわゆる放心状態だった。
しかし、なぜかある日突然、プレゼントを見なくては、と思い立ったのだ。その日はちょうど十二月二十五日、クリスマスだった。
例えば観ようと思っていたテレビ番組があって、それをすっかり忘れていたとする。はっと思い出して時計を見ると、ちょうど始まる時間だった。こんなことなら割とよくあるが、三ヶ月という時を経てちょうどその日に思い出すなんてあるだろうか。
僕は思う。彼女が教えてくれたんだ、と。いや、そう思いたかった。
よくわからないブランド物の紙袋を手に取り、中身を取り出す。その小さな箱を見てすぐに中身が何かわかった。
「指輪だ……」
三ヶ月ぶりに出した声は、かすれていた。あれから三ヶ月経ったのかと、嫌でも実感してしまう。
箱を開けると、中に小さく折り畳んだ紙を見つけた。すぐに開いてみる。そこには確かに彼女の字で、僕へのメッセージが書かれていた。
『約束通り、クリスマスまでプレゼントを開けるのを待ったのなら、メリークリスマスね。きっと私はあなたの隣にはいないでしょう。
でもあなたに直接メリークリスマスって言えたわ。三ヶ月前にね。私にとっては、間違いなくあの日がクリスマスよ。今日じゃないわ。
私は癌だったの。黙っていてごめんなさい。でも、治らないのがわかっていたから、入院もしなかった。何もできないのにただ生き延びるより、あなたと最後の時を過ごして潔く死のうと決めたの。この手紙を書いている今日は二十四日、明日の私はきっと笑ってる。きっと後悔していないわ。
今まで本当にありがとう』
やっと、彼女の死を悲しいと感じた。僕の目から涙が出ていた。
あれから一年が経ち、またクリスマスがやって来た。僕の左手の薬指で、指輪が光っている。紛れもなく、彼女の指輪が。僕は誰ともクリスマスは祝わない。僕にとって、あれが最後で最高のクリスマスだったからだ。
僕は祈った。彼女にとっても、最後で最高のクリスマスでありましたように、と。