元経理、異世界のダンジョンギルドで帳簿の不正を見つけてしまいました
残業帰り、いつもの路地裏を歩いていたら、見覚えのない扉があった。
安西真央は、二十八年の人生で培った危機察知能力を総動員して、「これは絶対に開けてはいけない扉だ」と判断した。判断したのに、気がついたら把手に手をかけていた。残業続きで判断力が鈍っていたのだと思う。
扉の向こうは、木造の受付事務所だった。
カウンターの奥には、獣の耳を生やした受付嬢と、筋骨隆々の大男が立っている。壁には剣や盾が飾られ、掲示板には「討伐依頼」「魔石買取」などと書かれた紙が貼られていた。
(ファンタジー……?)
混乱している暇はなかった。真央の視線は、カウンターの脇に無造作に積まれた帳簿の山に吸い寄せられていた。
積み方が悪い。重ねる順番も、日付順になっていない。上の方に古い記録が乗っていて、下に新しいものが埋もれている。ぱっと見ただけで、整理整頓が壊滅的な部署だと分かった。前の会社にも、こういう机の先輩が一人いた。
頭の隅で冷静な自分が「いや、それより先に驚くところがあるでしょう」とツッコんでいたが、体はもう帳簿の方に向かって動き出していた。
「……この収支、合ってなくない?」
思わず声が出た。
「な、なんだお前! どこから入ってきた!?」
大男――ガロンと名乗ったこのギルドのマスターが、警戒した様子で身構えた。武器はないが、その気になれば素手で真央を三秒で無力化できそうな体格だった。
普通なら悲鳴の一つも上げる場面だと思う。だが真央の目は、すでにガロンの背後にある帳簿の山に釘付けになっていた。五年間、決算期のたびに似たような山と戦ってきた身体が、勝手に反応していた。
真央は帳簿を指差したまま答えた。
「すみません、それより先に。この月次の収支報告書、支出の合計と、下の内訳の合計が合ってません。差額、金貨にして四十枚くらいですよ」
ガロンの動きが止まった。
「……お前、経理が読めるのか!?」
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成り行きで、真央はギルドの帳簿を見せられることになった。
積み上げられた帳簿は、控えめに言って地獄だった。
「これ……レシートじゃなくて、木の板……?」
「魔石取引の記録板だ。焼き印で金額を刻む」
「検収印、これ全部同じ人が押してません?」
「担当が一人しかいないからな」
「じゃあ、この査定額の欄、なんで筆跡が二種類あるんですか」
ガロンが黙り込んだ。
「あと、この経費の欄。『会食費』ってざっくり書いてありますけど、誰と何のための会食か、一切記録がありません。うちの会社なら、これだけで経理から差し戻し三回コースです」
「さ、差し戻しってなんだ」
「『詳細不明につき再提出願います』の紙を貼って突き返すことです」
ガロンが、心底恐ろしいものを見るような顔をした。
真央は、五年間の経理事務で培った反射で、次々と帳簿の穴を見つけていった。二重計上、根拠不明の端数、日付の矛盾。現代の会社なら間違いなく監査で指摘される代物だった。付箋があれば、この帳簿は今頃、色とりどりの紙でハリネズミのようになっていただろう。
受付嬢のリタが、目を輝かせて真央を見ていた。
「真央さん、まるで魔法みたいです……!」
「魔法じゃなくて、Excelの経験です」
言ってから、この世界にExcelはないのだと気づいた。
「エクセル……様、というお方ですか?」
「ううん、道具というか……そう、魔法の羊皮紙みたいなもの。数字を入れると、勝手に計算して並べ替えてくれるの」
「そんな便利な魔道具が!?」
「魔道具じゃないんだけど、まあ、便利ではあったかな」
リタは目を輝かせたまま、それ以上は聞いてこなかった。真央は曖昧に微笑みながら、この世界にスプレッドシートがないことを、地味に惜しく思った。
半日かけて、真央は帳簿の全体像をようやく把握した。ガロンはその間、口を挟むこともできず、ただ見ていることしかできなかった。
「お前……本当に、何者なんだ」
「ただの経理です。元、ですけど」
真央は帳簿から顔を上げずに答えた。
「早く元の世界に帰りたいんですけど、この帳簿を見なかったことにするのは、無理でした」
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翌日から、真央は「臨時の帳簿整理係」として、ギルドに通うことになった。元の世界に帰る扉は、なぜか一度閉じると二度と同じ場所に現れないらしく、当面はこちらで生活するしかないという事情もあった。
「じゃあ、この半年分の査定記録、日付順に並べ直しますね」
「頼めるか。正直、俺には何がどうなってるのか、さっぱりでな」
「大丈夫です。数字は、正直ですから」
真央はそう言って、腕まくりをした。誰も見ていないところで、少しだけ気合いが入っていた。異世界に迷い込んだ動揺は、いつの間にかどこかに消えていた。
午前中は伝票の分類、午後は日付順の並べ替え。リタが差し入れてくれた木の実のお茶を飲みながら、真央は淡々と作業を進めた。
「真央さん、休憩しないんですか?」
「集中が切れる方が怖いの。ミスに気づかなくなるから」
「かっこいいです……」
リタが尊敬の眼差しを向けてくる。悪い気はしなかった。
真央は帳簿を時系列に並べ直しながら、査定記録を一件ずつ確認していった。冒険者が持ち込んだ魔石や素材の査定額、それに対する報酬の支給額。数字の羅列を追ううちに、あるパターンに気づいた。
「……あれ」
「どうした」
「この査定士――ノルドさんって人が担当した案件だけ、査定額と、実際にギルドの金庫から出た支給額に、微妙な差があります」
「差、というと」
「毎回、査定額より少し多めに金庫から出金されてるのに、冒険者への支給記録は査定額通り。差額がどこに消えてるのか、帳簿上は分からないようになってます」
ガロンの顔が、みるみる険しくなった。
「それ……つまり」
「典型的な中抜きのパターンです」
真央は淡々と言った。
「ノルドか……薄々、感づいてはいたんだが」
ガロンが低く唸った。
「なんで、確かめなかったんですか」
「証拠がなかった。あいつは口達者で、詰めても言い逃れされるだけだったからな」
「証拠なら、これから作ります」
真央は帳簿の山から、該当する伝票を一枚ずつ抜き出しながら答えた。
「証拠を、ちゃんと固めましょう」
真央はそう言うと、過去半年分の伝票を机いっぱいに並べ始めた。職業病というより、もはや使命感に近かった。日付ごとに整理し、査定額と支給額を並べて書き写し、差額に赤い線を引いていく。かつて上司の不正経費を突き止めたときと同じ手順だった。異世界だろうと、数字の嘘を暴くやり方は変わらない。
夜遅くまで作業を続ける真央に、リタが心配そうに声をかけた。
「真央さん、根を詰めすぎでは……」
「大丈夫。こういうのは、勢いが落ちる前に終わらせた方がいいの」
真央はペンを止めずに答えた。目の下にはうっすら隈ができていたが、表情はどこか生き生きとしていた。
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三日後、証拠が揃った。
ガロン立ち会いのもと、ノルドがギルドマスター室に呼び出された。
「な、なんですか、急に」
ノルドは愛想笑いを浮かべながら、椅子に座った。真央は、日付順に並べた伝票の束を机に置いた。
「ノルドさん。過去半年で、あなたが査定を担当した案件、二十三件について確認させてください」
「は、はあ。何のことだか」
ノルドは笑みを崩さなかったが、視線だけが忙しなく泳いでいた。真央はその視線の動きも、静かに観察していた。会社員時代、経費精算の不備を指摘するたびに、似たような目をする人間を何人も見てきた。
「このA案件、査定額と実支給額の差は金貨二枚。このB案件は三枚。このC案件は……」
真央は一枚ずつ、伝票をめくりながら差額を読み上げていった。
「合計で、金貨およそ四十二枚。すべて、あなたが査定を担当した案件でのみ発生しています」
「そ、それは……その、計算違いというか……」
「計算違いが、毎回同じ査定士の案件でだけ、同じ方向に発生するんですか?」
真央の声のトーンは変わらなかった。だが、それがかえって、ノルドを追い詰めているようだった。
「し、しかし、証拠と言っても、これはただの記録で……」
「金庫の出納記録と、あなたのサインが入った受領書も揃っています。照合すれば、差額がどこに消えたか一目瞭然です」
真央は追加の書類を机に広げた。
「念のため、出納係のダリルさんにも確認を取りました。金庫からの出金時、いつもノルドさんが『査定額の修正があった』と口頭で伝えていたそうですね。修正の書面は、一枚も残っていません」
「そ、それは……口頭でのやり取りだから、記録がないのは当然で……」
「当然ではありません。うちのギルドでは今日から、査定額の修正は必ず書面で残すルールにします」
真央は淡々と言い切った。ガロンが横で、感心したように腕を組んでいる。
ノルドの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……申し訳、ありません」
小さく、消え入りそうな声だった。
ガロンが深いため息をついた。
「話は、後でじっくり聞かせてもらう」
ノルドは、うなだれたまま部屋を連れ出されていった。緊迫した空気が、少しだけ和らぐ。
「にしても、たった三日でここまで暴くとはな……」
ガロンが呆れたように呟いた。
「三日もかかってすみません。本当は一日で終わらせたかったんですけど、この世界の伝票の書式に慣れるのに、少し時間がかかりました」
「いや、そこは謝るところじゃない気がするが」
真央は帳簿を軽く整えながら、小さく息をついた。長年、誰にも気づかれずに消えていたはずの金貨四十二枚分の不正が、ようやく白日の下に晒された。達成感より先に、山積みだった伝票がようやく綺麗に片付いたことへの満足感の方が大きかった。
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処分の詳細をリタに任せ、ガロンは真央に向き直った。
「助かった。本当に」
「いえ、職業病なので」
「頼む。うちの経理として、正式に残ってくれないか」
真央は少し考えるふりをした。実際は、もうこの世界でやっていくしかないことを分かっていたし、帳簿の整理は嫌いではなかった。むしろ、五年間くすぶっていた経理魂が、久しぶりに満たされている感覚があった。
「残業代は、出るんですよね?」
ガロンが目を丸くし、それから声を上げて笑った。
「……前向きに検討する」
「即答してください」
「わ、分かった、分かった。出す」
真央は小さく笑った。
「じゃあ、決まりですね」
リタが扉から顔を出し、目を輝かせながら言った。
「真央さん、今日から先生です! 私にも経理、教えてください!」
「まずは伝票の分類からね。日付順に並べるところから」
「はい!」
リタが元気よく答えた。ガロンが、その様子を見ながら苦笑した。
「しかし、まさか経理事務が、これほど頼りになるとはな。冒険者を雇うより、よほど頼もしい」
「褒められても、給料以外は出ませんよ」
「わ、分かってる。今月分から、正式に俸給を出す」
「賞与も、決算期に検討してくださいね」
「決算期って、いつだ」
「これから、私が決めます」
真央がきっぱりと言うと、ガロンが降参したように両手を挙げた。
窓の外では、異世界の夕日が、いつもと変わらない色で沈みかけていた。元の世界に帰る扉は、まだ見つかっていない。それでも、目の前に山積みの帳簿があるかぎり、真央の手が止まることはなさそうだった。
「さて」
真央は帳簿の山に向き直り、袖をまくり直した。
「来月分の予算、ちゃんと組みますよ。どんぶり勘定は、もう終わりです」




