聖女の異端審問
「それでは被告人の聖女リーネ、入場せよ!」
審問官ユリウスの号令と共に、異端審問場の大きな両扉が開かれ、そこから項垂れながら聖女リーネが登場した。
聴衆から野次や中傷がリーネに対して飛ぶ。
「お顔を伏せたところで、その罪までは隠せませんことよ!」
「神への寄進を盗むなど聖女の名を汚した、薄汚れた平民の売女め!」
聴衆の大部分は貴族だった。
通常異端審問は非公開で審議されるが、今回は特別に公開されることになっている。
リーネは審問台に到達するとようやくその顔を上げた。すると聴衆の間から、小さく息を呑む音が漏れる。
涙の跡が残る頬、伏し目がちに揺れる長い睫毛。憔悴してなお——いや、憔悴しているからこそ、その美貌は痛々しいほどに際立っていた。
野次を飛ばしていた者たちが、一瞬だけ言葉を忘れる。それほどの美しさである。
一方の壇上に立つユリウスは、審問官としては異例なほど若い。
整った目鼻立ちに切れ長の瞳、引き結ばれた唇。
若くしてこの地位に就いたことが、彼の優秀さを何より雄弁に物語っていた。
ユリウスは聴衆たちの最上部より一段高いところから、眺め見ている人物に視線を向ける。
視線の先の台座に座って頬杖をついて悠然と佇む男。両脇で槍を手にした護衛に守られたロマリア王国の王は無言で頷いた。
「それではこれよりグラティア神の名のもとに、聖女リーネの異端審問を開始いたします! 罪名は聖務背信罪に私腹蓄財罪であります! 聖女の治療という奇跡の行使は教会の厳格な管理下の元、許可制となっております。それを彼女は破り、暴利を貪り私腹を肥やしたという疑いが持たれております。幸いにも今回匿名の通報により、リーネの大罪となる疑惑が明らかになりました!」
審問官が高らかに宣言した後、聴衆たちから歓声と野次が飛ぶ。
この異端審問。審議という形を取ってはいるが、実際は結論ありきの政治的な見世物でしかなかった。
そうであるからこそ今回の異端審問は公開されたと言える。
聖女リーネはこの後、一般大衆たちも見守る、断頭台の露と消えることがほぼ確定している。
要人の処刑は民衆たちの娯楽であり、一大イベントである。
断頭台の周辺ではすでに屋台まで出店されているというありさまだった。
貴族たちの多くはこの異端審問というショーを大いに楽しんでいた。
一方で、前々より稀な平民出身の聖女リーネに目をかけ、支援もしてきた王は苦虫を噛み潰したような表情をしている。
「静粛に、静粛に! 聖女リーネ、あなたは罪状を認めますか?」
リーネは一度俯いた後、意を決したように顔を上げた。
「教会の許可を得ずに治癒を施していたことは認めます。ですが、私は断じて人々の治癒を通して、私腹を肥やしてなどおりません!」
「なるほど。それでは証人を何名か用意しておりますので、その方たちに伺いましょうか。証人、入廷!」
ユリウスの号令の後、二人の人間が審問台の聖女の近くまで入廷する。
一人は、深紅の法衣に身を包んだ初老の男。胸元には黄金の聖印が輝き、その立ち居振る舞いからは、ただならぬ格の者であることが一目で伝わってくる。
もう一人はよれた衣服を身に纏った、明らかに平民と思われる男性だった。
「ヴァレンティス枢機卿猊下。本日はご多忙の所、かくなる場にご臨席いただきました事、至極恐悦でございます」
ユリウスは深く頭を下げ、ヴァレンティスはそれに片手を上げることで応じる。
「いやいや、これも神にお仕えする者の務めにございます。さあ、憐れな迷える子羊のために、速やかに裁きを始めようではありませんか」
ヴァレンティス枢機卿は物腰柔らかく柔和な表情で返答した。
枢機卿は次期教皇を選出する教皇選挙で数少ない選挙権を持つと同時に、立候補することも可能な役職であった。
つまりは教会で教皇に次ぐ権力者である。
そのような人物は通常、自ら異端審問の証人として参加することはない。
彼が証人として参加していることもまた、今回の異端審問が多分に政治的な意図を孕んだものであることを、暗に物語っていた。
「では猊下。リーネの罪状についての証言を、お聞かせ願えますでしょうか」
ヴァレンティスは組んでいた指をゆるりとほどき、一度深く頷いた。そして、審問台に立つリーネへと、慈愛に満ちた眼差しを向ける。——少なくとも、表向きには。
「ああ、哀れなリーネよ。私は今でも信じたくないのですよ。あなたのような聡明で敬虔な娘が、このような罪に手を染めたという事実を」
枢機卿の声は、審問場の石壁に柔らかく反響した。怒りも嘲りも含まぬ、ただ深い悲しみを湛えた声音。それがかえって、聴衆の胸に「この娘は本当に罪を犯したのだ」という印象を刻み込んでいく。
「事の発端は、今より半年ほど前のことでございました。教会のもとに、一通の書状が届いたのです。差出人の名はなく——しかし、そこに記されていた内容は、到底看過し得ぬものでございました」
ヴァレンティスは聴衆を一瞥し、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「書状には、こう記されてございました。『王都の外れ、スラムにほど近い一角にて、許可証を持たぬ聖女が治癒を施し、信徒より法外な金銭を貪っている』——と。そしてそこには、治癒を受けた者の名、支払わされた金額、日時までもが、事細かに書き連ねられておりました」
聴衆の間から、ひそやかなざわめきが漏れた。貴婦人の一人が扇で口元を覆い、隣の夫人と囁き交わす。リーネは信じられぬといった面持ちで、枢機卿を見つめていた。
「最初、私はその告発を信じませんでした。聖女リーネに限って、そのような振る舞いに及ぶはずがない——そう、固く信じておりましたからな」
ヴァレンティスは一度目を伏せ、指を組み直す。その仕草には、深い逡巡を滲ませるだけの計算された間があった。
「ですが、私は教会に仕える者としての務めを果たさねばなりませんでした。書状に記された者たちを一人ひとり訪ね、話を伺いましたところ——告発の内容は、残念ながら一つ、また一つと裏付けられてゆきました。治癒と引き換えに金銭を要求された、高額な『お布施』を強要された、払えぬ者は門前払いされた……」
聴衆たちから、どよめきが広がる。貴婦人たちの扇が小刻みに震え、男性貴族の眉間には深い皺が刻まれた。
「違います!」
リーネが叫んだ。涙を浮かべた瞳で、枢機卿を真っ直ぐに見上げる。
「違います!私がいただいていたのは、治癒院の維持と薬草の購入に充てるための、ごくわずかな実費のみ! 払えぬ者を門前払いしたことなど、ただの一度もございません——!」
「静粛に! 被告人、発言は許可を得てからになさい!」
審問官の鋭い叱責が飛ぶ。リーネは唇を噛みしめ、震える拳を握りしめた。
ヴァレンティスは、そんなリーネの様子を哀れむように見つめたまま、静かに首を振った。
「……そう、あなたはきっとそう言うだろうと思っておりました。ですから私も、証拠が揃うまでは決して動かなかったのですよ、リーネ。あなたを信じたかったからこそ」
枢機卿の声は、どこまでも優しかった。
枢機卿がユリウスに目配せをする。彼は心得たように頷いた。
「証人、前へ!」
よれた衣服の男が、おずおずと一歩前へ進み出た。
「へ、へい……マルコと申します。王都の外れで、妻と娘と暮らしております」
男は深く頭を下げ、掠れた声で語り始めた。
「半年ほど前、娘が高い熱を出しまして……藁にも縋る思いで、聖女様のもとへ連れて参ったのでございます。リーネ様は確かに娘を治してくださいました。それは本当のことでございます」
男は一度言葉を切り、震える手で顔を拭う。
「ですが……治療が終わった後、リーネ様はこう仰ったのです。『お布施として、金貨五枚をいただきます』と」
どよめきが審問場を駆け抜けた。
「金貨五枚ですって!?」
「一度の治療で平民に払える額ではないぞ!」
「……審問官殿」
リーネの声は、先ほどとは違っていた。震えてはいる。だが、その奥に芯があった。
「金貨五枚を私が受け取ったと仰るのなら——どうか、私の住まいをお調べください。王都の外れの、あの小さな治癒院を。金貨五枚どころか、銀貨一枚すら蓄えのないことがお分かりになるはずです」
聴衆の間に、微かなざわめきが走った。
「哀れな……」
ヴァレンティスが、慈愛に満ちた溜息をついた。
「使い込んだ金の行方など、今さら問うたところで詮無きこと。隠し、あるいは散じた後では、何の証にもなりますまい。——リーネよ、これ以上、自らの傷を広げるのはおよしなさい」
柔らかな声が、リーネの反論を絹のように包み、窒息させた。
マルコは一瞬だけリーネを見た。その瞳の奥で、何かが光る。——が、次の瞬間にはもう、涙に濡れた哀れな父親の顔に戻っていた。
「払えずにおりますと、リーネ様のもとから人が参りまして。『払えぬのならば、娘の熱をもう一度ぶり返らせる』と……私は、恐ろしくて……!」
「嘘です!」
リーネが悲鳴のような声を上げた。
「嘘です! マルコさん、どうしてそのような——!」
「静粛にと言っている! 次に勝手な発言をすれば口を塞ぐぞ!」
リーネはぐっと唇を噛み、震える手で口元を押さえた。
ヴァレンティス枢機卿は、その一部始終を慈愛に満ちた眼差しで見守り——誰にも気づかれぬほど小さく、満足げに口角を上げた。
「被告人、このような証言を受けてもまだ嫌疑を否定するのですか? 大人しく罪を認めればまだ温情により、死刑を免れる可能性もあるのですよ」
「やっていないものはやっていません! 証人のマルコさんは嘘をついていらっしゃいます!」
リーネは断固として認めなかった。
「……分かりました。こんなこともあろうかと、別の証人も用意しています」
「べ、別の……?」
そこでヴァレンティスの表情が変わる。
柔和だった表情がどんどん猜疑の色が強くなっていく。
「ちょっと待ちなさい! 審問官は私の言う事が信じられないとでもいうのですか!?」
ヴァレンティスはユリウスに睨みを効かせながら問う。
「そんな、猊下のことを疑うなど滅相もございません」
恐縮しながらユリウスは答える。
「ならば追加の証言を精査する必要はないでしょう。これにて審議は閉廷、さっさと刑を確定させなさい」
「ですが……」
ヴァレンティス枢機卿はユリウスの近くまで行って、耳元で彼にだけ伝わる音量で警告する。
「貴様、私の言うことが聞けないのか。審問官の職を解いた後に、貴様の信仰を問うこともできるのだぞ?」
「それは……」
ユリウスの顔が青ざめる。信仰を問う——それは審問官である自分自身が、次の被告人としてあの台に立つことを意味していた。
喉が干上がる。逡巡の末、彼は枢機卿に無言で頷いた。
枢機卿は満足そうに表情を変える。
壇上に戻る途中、ユリウスの視線が審問台のリーネを掠めた。震える手で口元を押さえながら、それでもなお折れていないあの瞳。
ユリウスは小さく息を吸い、拳を握った。
「それでは証人、入廷!」
「貴様ぁ!」
予想に反したユリウスの行動がヴァレンティスの逆鱗に触れる。
先程までの柔和な表情はどこへやら、彼は顔を真っ赤にして青筋を立てていた。
「猊下からは必要な証言はいただいたのでお下がりください」
「自分が一体何をしているのか、分かっているのか? 職を解くだけでは済まさんぞ!」
「分かっております。お下がりください。陛下の御前ですよ?」
ヴァレンティス枢機卿はその時はじめて王を仰ぎ見る。
王は薄っすらと笑みを浮かべていた。
ここに来て彼ははじめて子飼いだと思っていたユリウスに裏切られていたことを知る。
金も地位も握らせた。この審問は完璧な筋書きだったはずだ——王廷派を叩き潰し、教会の威信を天下に知らしめる、そのための舞台だったはずなのだ。
「証人、証言をお願いできますか?」
「はい」
進み出たのは、痩せた中年の男だった。顔色は青白く、まだ病み上がりの気配を残している。だが、その眼差しは真っ直ぐで、怯えの色はなかった。
「名をトマスと申します。王都の石工でございます。半年ほど前のことでございます。私は現場で足場から落ち、背骨を砕かれました。動くことも叶わず日々衰弱して、このままでは死ぬと医者に見放されまして……妻が教会の治癒院へ駆け込んだのでございます」
トマスは言葉を切り、拳を握りしめる。
「教会では、確かに聖女様がいらっしゃいました。リーネ様とは別の聖女様です。治癒にかかる正規の料金は、銀貨十枚と定められております。それは私どもとて工面のつく額でございました」
トマスは一度深く息を吸い、声を低める。
「ですが……窓口の神官はこう申したのです。『聖女様の治癒を受けたくば、正規の料金とは別に、教会への特別なお布施が必要である』と。——その額、金貨三十枚」
聴衆がざわついた。
「石工風情が、すぐに用意できる額ではございません。妻が縋り付いてもなお、『払えぬ者に神の恩寵は下らぬ』と、門前で追い返されたのでございます」
男は顔を上げ、声を震わせた。
「家に戻った妻の話を聞いた私は、もはや死を覚悟しておりました。ですがその時、近所の者が申したのです。——『王都の外れに、貧しき者を分け隔てなく癒やしてくださる聖女様がいらっしゃる。ヴァレンティス猊下が枢機卿の座に就かれて以来、教会の治癒院はあのような有様だ。助かりたくば、あの聖女様を頼るしかない』、と」
ヴァレンティスがその顔を青くする。
「藁にも縋る思いで、妻に背負われて参りました。その聖女様こそ——そこにおわすリーネ様でございます!」
男は、リーネへと深々と頭を下げた。
「リーネ様にお支払いしたのは、銅貨三枚。薬草代にも満たぬ額でございます。それでもリーネ様は、私の背骨を元通りに癒やしてくださいました。——リーネ様は、私の命の恩人でございます」
審問場が、水を打ったように静まり返った。
「う、嘘だ! そ、そんな話は私を陥れるための捏造に決まっておる!」
「猊下、申し上げにくいことではございますが、彼と同様の証言をする者を既に数十名確保しております。その全てをこの場にお呼び立てし、一人ずつ証言させることをお望みでしょうか?」
「ふん、証言などと言うても、貧民どもに金を握らせればどうとでもなるものだろうが! 皆さん、よくお考えくだされ! この愚かな一介の審問官と、教会にて高位に就くこの私。どちらの言葉を信ずるに足ると思われるか!」
審問場がざわめく。
いかに貴族と言えども枢機卿に向かって野次などを飛ばすものはいなかった。
「いいですか? このような不正がまかり通れば、神罰がロマリア王国に落ちることでしょう!!」
枢機卿のその宣言の後、水を打ったように審問場が静まり返る。
絶大な権力を誇る枢機卿のその警告は、最早明確な脅しだった。
そこで皆を見渡せる高所で静観していたロマリア王が立ち上がる。
「どうやら枢機卿殿は、思い違いをしておられるようだ。——ここは、教皇猊下の治める神聖グラティア教皇国ではない。何が不正であり、何が真実であるかを判ずるのは貴殿ではなく、このロマリア王国の王である余である!」
皆の視線が王に集まる。
「——どうやら、教会の治癒院にて許しがたい不正が行われているのは、もはや疑いようのない事実らしい。審問官よ、一切の責は余が負う。何者にも臆することなく、公正な裁きを下すがよい」
「はっ! 御意にございます!」
審問官は深く頭を下げ、壇上へと向き直った。その顔からは、もはや枢機卿を怖れる色は消えている。
「——被告人、聖女リーネ」
凛とした声が、審問場の石壁に響き渡った。
「本審問におきまして、聖務背信罪および私腹蓄財罪の嫌疑が掛けられておりましたが、その罪状を裏付ける証言は、証人マルコによるもののみ。対して、聖女リーネが貧しき者たちを分け隔てなく癒やし続けていたことは、複数の証言により明白となりました」
審問官は一度、ヴァレンティスの方を見た。枢機卿の顔は、屈辱と怒りに紅潮している。
「よって本法廷は、被告人聖女リーネに掛けられた両罪状を——不成立と認め、これを棄却いたします」
わあっ、と歓声が上がった。
先ほどまでリーネに野次を飛ばしていた貴婦人たちが、手のひらを返したように、感極まった表情で涙を拭っている。貴族たちもまた、
「やはり聖女様は清廉であられた」
「我らは最初から信じておった」
と口々に囁き合う。
人の心とは、かくも軽いものであった。
「ただし——」
審問官の声が、歓声を断ち切った。
「教会の許可を得ずに治癒を施した罪は、被告人自身が認めております。これにつきましては、正規の手続きを経て、追って沙汰を下すものとします。ただ教会に不正があったことから、許可を得ることが著しく困難であったと認められる情状がございます。その点は沙汰の際に充分に斟酌されるものと申し添えます」
リーネは頷いた。もはや彼女に抗う理由はなかった。
「陛下……ありがとうございます。この御恩、リーネは生涯忘れませぬ」
深々と頭を垂れたリーネの口元が——ふと、誰にも気づかれぬほど薄く、綻んだ。
——全て、計画通り。
涙に濡れた睫毛の奥で、その瞳だけが冷たく澄んでいた。
教会に届いたという、差出人のない一通の告発状。『王都の外れにて、許可証を持たぬ聖女が治癒を施している』——そう事細かに書き連ねられたあの書状を教会に送りつけたのは、他ならぬリーネ自身であった。
そして拘束される直前、リーネはもう一通の書状を——今度は王廷派の重鎮のもとへと、密かに届けていた。そちらに記されていたのは、自らの『罪』ではない。ヴァレンティス枢機卿を頂点とする教皇派が、王国中の治癒院で信徒から『特別なお布施』の名目で不正に金銭を巻き上げていた、その実態を裏付ける証拠の数々であった。
リーネの脳裏に、半年前の冬の記憶が蘇る。
ロマリア王国の北、名もなき農村。六歳の弟のルカが高熱に浮かされ、母の腕の中で自分の名を呼びながら息絶えていった。——村の教会の治癒院が『特別なお布施』として要求した金貨五十枚は、貧しい村人全員の蓄えを合わせても届かぬ額だった。
それが——命を賭してでも、この不正を暴くと誓った始まりである。
リーネはもう一度、深く頭を下げる。
その微笑みは、誰にも見られぬうちに、静かに消えていった。
その時のことだ。
「——ヴァレンティス枢機卿殿」
王が静かに枢機卿の名を呼んだ。
「教会の治癒院における『特別なお布施』の件、貴殿の口からも是非とも説明を伺いたいのだが」
「……っ」
「無論、この場ですぐにとは言わぬ。後日、改めて席を設けさせていただく。——それまで、王都より出られぬようお願い申し上げる」
王の言葉は丁寧だったが、その実質は軟禁の通告に他ならなかった。
ヴァレンティスは真紅の法衣を翻し、何も言わずに審問場から立ち去った。その背中は、先ほどまでの悠然とした枢機卿のそれとは、もはや別人のようであった。
人々を救うはずの教会が、自らの私腹を肥やすために暴利を貪っていた——その事実は、やがて世界中へ知れ渡ることになる。それは王廷派にとって、願ってもない追い風となった。
もっとも、枢機卿がこのまま大人しく王廷派の裁きを受けるはずもない。
この日の敗北は、ヴァレンティスにとって、新たな戦いの始まりに過ぎなかった。
この日以降、リーネの名はロマリア王国中に広まることとなる。
不正に立ち向かい、ただ一人の身で枢機卿の罪を暴いた聖女。王廷派は彼女を祭壇に押し上げ、腐敗した教会に立ち向かう象徴として、旗頭に据えた。本人が望むと望まざるとにかかわらず。
それはリーネが本当に望んだ未来ではなかった。彼女はただ、目の前の人々を救いたかっただけ。英雄になりたかったわけではない。
——ルカ。ようやく、ここまで来ました。
高い窓から差し込む陽の光が、ゆっくりと角度を変え、審問台に立つリーネの肩をそっと包み込んだ。石畳に跪いたままの彼女の白い頬を、淡い黄金色が優しく撫でていく。まるで、この日をずっと見守っていてくれた誰かが、静かに微笑んでくれているかのように。
リーネは光の中で、そっと目を閉じた。




