第13話 アスラ伯爵の誤算――逃がした魚は大きい
アスラ伯爵は自室の書斎で書類に目を通しながら、眉をひそめていた。領地の経営、貴族間の取引、税収の計算……日常業務は順調に見える。しかし、頭の片隅には、いつまでも消えない不安があった。
――三女、アイリス。
彼女を開拓村に追いやったのは、自分にとって最善の判断だと思っていた。無属性魔法、外れスキルのネットショップ……伯爵家にとっての価値は低く、政治利用もできない。追放すれば、余計な面倒はなくなる。
しかし、その判断が誤算だったことに、アスラ伯爵は気づき始めていた。
「街……いや、開拓村の成果が、想像以上に大きいと……?」
最近、伯爵家の領地会議や近隣領の商人から耳に入る情報が、次第に現実味を帯びてきた。街の住民数は急増し、商会や交易で莫大な利益を上げている。王都に支店を出し、秘密裏に美容品や食事を販売していることも、取引の噂から間接的に耳に入る。
「たかが三女……しかし、逃した魚は想像以上に大きかった」
伯爵家の従者たちは、伯爵の呟きに驚く。だが、アスラ伯爵は静かに首を振る。
「……いや、これは予想を超えている。彼女が領地を与えられ、自由に活動している。すべては自分の判断で……」
情報はさらに明確になってきた。開拓村の商会が王都や他領との交易で莫大な利益を上げており、街のインフラ、上下水道、温泉、食事、美容製品、教育施設――すべてアイリスが独力で整えている。しかも、秘密のネットショップや空間支配による効率化で、住民も外部も関与できず、街の独自性と利益が完全に守られている。
「この……街全体を……一人で……」
アスラ伯爵の視線は書斎の窓の外に向かう。遠く離れた開拓村は、伯爵家の記録や監督下にない。だが、最近届く報告書や他領の商人からの噂、さらには街で行われる祭りやイベントの成功は、すべてアイリスの手腕の賜物だということを示していた。
「まさか……あの三女が、これほどまでに……」
伯爵は椅子に深く腰を下ろす。彼女を追放したつもりが、逆に自分の領地経営や政治的利益の機会を逃していた。まるで、手元から大きな魚がすり抜けていったような感覚――まさに「逃がした魚は大きい」。
アスラ伯爵は過去の判断を反芻する。
――無属性魔法? 確かに使い道は限られていた。
――ネットショップ? 誰も価値を認めなかった。
――政治利用できない? 確かに当時はそう思った。
だが、時が経ち、アイリスはすべてを覆していた。街の住民は彼女の指導の下で働き、商会の運営、植物紙の開発、教育施設の設立、王都支店の開設――どれも伯爵家では成し得なかった成果ばかりだ。しかも、街の資源を秘密裏に高価買取して経済力を増幅する仕組みも、住民や他領には知られていない。
「……まさか、あの三女がここまで……」
伯爵の心中には、悔しさと同時に驚嘆の感情が入り混じる。彼女の能力は、外れスキルと侮った伯爵の予想を遥かに超えていたのだ。商会による秘密交易、空間支配による物流管理、教育制度の整備――すべてが計算され、街の成長を加速させている。
さらに、街の発展は他領にも波及していた。近隣領は街の繁栄をうらやましがり、伯爵家に対して「三女の街の影響力が強まっている」との報告を挙げている。アスラ伯爵はその度に胸の奥で苦笑するしかなかった。
「政治的にも、経済的にも、これほどまでに強い存在になるとは……」
自室の机に置かれた古い領地図を見つめながら、伯爵は思う。アイリスは無属性魔法で可能な範囲の力を最大化し、暴食スキルと空間支配、そして独自のネットショップを秘密裏に駆使して街を築き上げた。自分の手から離れた自由な領地で、彼女は伯爵家の想像を遥かに超える成果を上げていたのだ。
「……逃がした魚は、本当に大きかった」
アスラ伯爵は深く息をつき、窓の外に広がる空を見上げる。開拓村はもはや小さな村ではない。秘密の商会、王都支店、教育機関、交易ルート――すべてが整備され、街の独自経済圏と文化圏を形成している。
「……いや、これはまだ序章に過ぎない」
伯爵はつぶやく。彼の三女は、まだ街のさらなる発展と繁栄の道を切り開こうとしている。その先に何が待つのか――伯爵には想像もつかない。だが確かなのは、一度手放した魚は、もはや手の届かない存在になってしまったことだった。
窓の外、開拓村の森の向こうに見える煙と光。街の活気、子どもたちの笑い声、商会の忙しげな作業の音……すべてが、アイリスの手による街の奇跡を物語っている。アスラ伯爵はその姿を、ただ静かに見守るしかなかった――。




