ブラッド・ペインティング
死ぬほど殺してやりたかった奴の血は綺麗な赤色をしていた。
死体と大理石の床の隙間から滲み出すように広がっていくやつの血の色を見て、私は思わず悪態をついてしまう。こいつの血が、腐った性根にお似合いのドロドロでドブみたいな血だったら満足したかもしれない。私のことを叩いても壊れない売り物だと思って散々虐げてきたくせに、どうしてそんな色の血が流れてるんだって私は腹が立ってしょうがなかった。
私は銃を握りしめたまましゃがみこみ、血溜まりにそっと指先で触れる。血はサラサラしてて、近くで見ると色にムラがある。私に流れている血とは違って売り物にはきっとならないんだろう。私はそんなことを考えながら、血のついた指先で白い大理石の上に文字を描く。
みんなしね。
指先を床から離すのと、緊急事態を告げる施設の警報音があたりになり始めるのは同じだった。私は立ち上がり、銃を胸の前に抱きしめる。それから私は、私が殺したここの施設長の死体を跨いで、施設の外へと駆け出していった。
*
人間の血で描いた絵画には天使が宿る。
誰が言ったかわからないけど、もしそいつが私の目の前に現れたら、私はお前のせいだって叫びながらそいつの目に指を突っ込んで、二度と絵画なんて見られないように目玉を引きづり出してやりたい。
そいつがその言葉を残さなければ、頭の狂った宗教画家たちが本当に血を使って絵を描くことはなかっただろうし、自分の血を使えと条件を定めていたら、同じくらい頭の狂った商人が人の血を画材として売ろうと思わなかっただろうし、芸術なんかよりも人の尊厳の方が大事だってことを言い忘れてなかったら、限界まで頭の狂った科学者が人間の遺伝子を組み替えて、画材に適した綺麗な色の血を持った人間を作る技術を発明しなかっただろうし、そもそも絵画なんてものが存在しなければ、私がこんな狂った人間しかいない世界に産まれることだってなかっただろう。
私の身体には絵を描くための血が流れてる。というか、絵を描くための血を流すために、私の身体が存在してる。私の血はどこまでも澄んだ赤。光に透かすと、色の中で光が乱反射して、ステンドグラスみたいに不思議な輝きを放つ。画家どもは私の血が美しいという。私の血で絵を描きたいと金を払う。画家どもは美を追求するためだなんて言い訳を言う。私が母親の胎内にいる間に勝手に遺伝子を書き換えられた、デザイナーベイビーだという事実から目を背けるために。
私は銃を胸ポケットに隠しながら街を歩く。歩道は汚い。タバコの吸い殻とか吐き捨てられたタンの跡、鳥のフン。だけど醜いものの方が安心する。汚いものの方が親近感が湧く。世の中全てが汚れたものでできてたら最高だ。そこには芸術もない。画家どももいない。こんな血が流れる私もいない。
「ねえ、おっさん。ちょっと道を聞きたいんだけど」
止まっていたタクシーの窓ガラスを叩くと、窓ガラスから無精髭を生やしたおっさんが顔を出す。
「州立美術館ってどう行けば良いか知ってる? マグラス・デュオンって画家の展示会をやってるはずなんだけど」
「ここの通りを真っ直ぐ行け。自然公園が見えてきたら、角にデカい時計屋がある交差点で曲がるんだ。その通りを5分くらい歩けば右手に見えてくる」
それからおっさんは出っ張った腹を膨らませながら大きくため息をつき、そして私の身なりを上から下までジロリと観察し、訪ねてくる。
「それにしてもお前みたいな場違いが美術館に何のようだ?」
「ちょっとね、展示会をやってる画家に用事があるんだ」
私の言葉におっさんが下品な笑い声を上げながら返事をする。
「なんだ? 金でも借りに行くのか?」
私は返す。
「逆だよ逆。今までの借りを返してもらうんだ。腹にでっかい鉛玉をお見舞いしてな」
おっさんは私の言葉を冗談だと受け取って笑う。私はお礼を言って、歩き出す。胸元に手を突っ込み銃を確かめる。ずっしりと重たく、冷たい銃身を指先で感じながら、私は美術館へ歩き続ける。遠くの通りから、パトカーがサイレンを鳴らしながら走り抜ける音が聞こえた。
*
血を抜かれている間、施設長はよく、これは名誉あることなんだと言っていた。だけど、高い指輪を10本の指全てにそれぞれ二個ずつつけて、それでもはめる場所が足りなくなったから耳に宝石を埋め込んだピアスをぶら下げている、そんな守銭奴から、名誉なんて言葉を聞くだけで吐き気が込み上げてくる。天使の血を身体に流すことと引き換えにお前はこの世に生を受けたのだから、この美しい血にお前は感謝しなければならない。あと、私にもな。私が施設長を銃で殺す前に奴が残した言葉。何が感謝だ。糞食らえ。
私は復讐する。施設長への復讐だけじゃない。私の血で嬉々として絵を書いていた画家どもも同じだ。
そしてその中の一人、つまりは施設長の贔屓客の一人がマグラス・デュオンっていう画家だ。あいつは何度かうちの施設に直接来たこともある。私は遠目からそいつの顔を見たことがあった。死神に取り憑かれてるんじゃないかってくらいに痩せ細っていて、顔の小ささにしては不自然に大きな目を魚みたいにぎょろぎょろ動かしては、時々発作みたいに自分の頭を掻きむしっていた。
そして、そいつが施設に来る前日は、私にとって最悪の一日だった。やつは私の血を買いにこの施設に来る。施設長は画家に私の血をできるだけたくさん売りつけたい。だから、本当は最低一週間は開けなくちゃいけない私の採血を、奴が来る前日には、そんなのお構いなしにやりやがる。私は血管に針を突き刺され、朦朧とした意識のまま、殺してくれと心の中で呟き続ける。
そして、そんな最悪の時間の中。私は天使を見た。天使は私の真上に舞い降りて私の顔を覗き込む。私が幻か現実かもわからないまま天使を見つめ返していると、天使は口角を上げて私に笑いかける。天使の口はファスナーで閉じられていて、天使は喋るとき、自分でそのファスナーを開けた。口は天使の頭を一周していて、天使が口を開けると天使の顎は外れそうになる。そして天使は私を見つめながら囁いた。
もうみんなぐちゃぐちゃしまえよ。
そう囁いた天使を、幻覚ではなく、本物の天使だと思った。なぜならその天使は、画家や宗教家が想像しているような美しさは一ミリも持ち合わせていない、死ぬほど醜くて気色の悪い姿をしていたから。
美しいものが嫌い。美しいとみんなが言っているものが嫌い。みんなが美しいと言っているものを美しいと思ったことなんてない。そんな美しいものなんて、この世から消えてしまえ。天使が頷く。施設長を、そして私の血を使って絵を描いている画家を殺してやると決心したのはそのときだった。
私は繋がれた管を通っていく私の血をじっと見つめた。絵を描くために作られた私の血は、目が冴えるような鮮明な赤色で、処置室の切れかかった照明の光を反射して煌めいていた。
パトカーのサイレンの音が近づいてくるような気がする。それでも私は警察に捕まることなく州立美術館にたどり着くことができた。美術館の入り口を入ったすぐ横には画家の写真が載せられたポスターが貼られていた。私はそのポスターに唾を吐きかける。偶然そばを通りかかった職員がそれを見つけて、何をしているんだと私に怒鳴りかかってくる。
私は彼を見る。彼の身なりは私よりもずっと綺麗で、美術というものを疑いもせず、この場所で働けていることを名誉に思っているようなクソみたいな人間だった。職員が私の腕を掴んでくる。私は無表情のまま彼を見上げ、それから掴まれていない方の腕で銃を取り出し、目の前の職員の足を銃で打ってやった。
館内に銃声が響き渡り、それから悲鳴が響きわたる。脚を撃たれた職員がその場でうずくまる。藍色のタイルに彼の血が流れ始める。彼の血は施設長よりも黒くドロドロしていて醜かったから私は少しだけ彼のことを好きになれるような気がした。そして、私は展示会の受付へと歩いていく。受付の女性は恐怖で縮こまっていた。私はポケットから施設長から奪い取っていた有金全てをトレイの上に置き、「チケット一枚」と伝えた。だけど、受付の女性は怯えるだけでチケットを切ってくれなかったから、私はお金を置いたまま展示ブースの中へと入っていった。
展示会ではマグラス・デュオンのこれまでの歴史をたどりながら、彼が今まで書いてきた絵を時系列に沿って展示していた。マグラスは伝統的な風景画からそのキャリアをスタートさせ、それから宗教画へと移行し、そして、現在の人間の血による絵画へと描く対象を変えていった。その節目節目で彼の人生には大きな出来事が発生しており、彼が宗教画、特に血による絵画へ進んでいった背景には、彼が愛していた両親の死が深く関わっていると説明されていた。
展示物の間に飾られていた、少年時代の写真に目が止まる。少年の両側にいるのは品がよく、心から少年のことを愛していることがわかる両親の姿。
私の母親はお金と引き換えに私の遺伝子編集を受けることを承諾し、私が生まれてすぐ、お金とともに私の元からさっていった。写真もない。記憶もない。彼女が置いていったのは、私の名前だけ。
アンジェラ。それが私の名前。ギリシャ語で天使を意味しているらしい。母親は私がどのような遺伝子編集を受けて、どんな扱いをされるのかを知らなかったらしいから、その偶然はあまりにも皮肉が効き過ぎている気がした。
ああ、でも確かにあの女からしたら私は天使なのかもしれない。私と引き換えに、普通に働いてるだけでは得られないような大金を得ることができたんだから。
私は銃を取り出し、目の前に飾られていたマグラスの家族写真をケースごと打ち抜いた。額のガラスが割れ、笑顔で微笑みかけてる少年時代のマグラスの額に穴が開く。それを見ると少しだけ気持ちがすっきりした。
遠くから聞こえてくる悲鳴とパトカーのサイレンの音を聞きながら、私は私の血で描いた絵を銃で撃ち抜いたらさぞかしスッキリするだろうなと思った。私は拳銃を握りしめたまま奥へ進む。
展示されている絵が風景画や人物画から、宗教画へと変わっていく。無意識のうちに歩みが速くなるが、頭は冷静で、呼吸は落ち着いていた。みんなぐちゃぐちゃになればいい。頭の中にあるのはそんな言葉だけ。みんな私がぐちゃぐちゃにしてやる。施設長も母親も絵も写真もクソ画家どもも、そして私も。
そして、私は立ち止まる。長い廊下を抜け、最後の展示フロア。そこに壁一面のキャンバスで描かれたマグラスの絵が展示されていた。
絵の中には私の血で描かれた天使がいた。荒廃し、岩肌が露出した赤い荒地。紅色の天使の羽根は引き裂かれ、身体中に傷を負い、ありえない角度に曲がった足と共に地面に座っていた。天使の身体からは絶えず血が流れ、岩と岩の間を天使の血が流れている。
天使は瀕死の状況で、今にも息絶えそうだった。だけど、天使は天を見上げていた。天使は天を力強い眼差しで見上げていた。誰もが、天使自身でさえも、その命は消えかかっていて、その運命が覆ることはないのだと理解している。それでも、その天使の目だけは、まるで運命に抗うように、強い意志の力をそこに宿していた。気高さ。きっと一言で言えばそんな言葉に表されるのかもしれない。でも、それだけでは表せられない。言葉だけで説明できるような何かがそこにあった。
『鮮紅色の天使』。それがその絵の名前だった。私は私の血で描かれた紅の天使をじっと見つめ続けた。バカにしてやる、コケにしてやる、くだらないものだと唾を吐いてやる。心の中に渦巻く怒りと憎しみが叫んでいる。
だけど、気がつけば私は泣いていた。
自分でもなんで泣いているのかわからなかった。考えれば考えるほど混乱したし、こんな感情を私は知らなかった。そしてこんなくだらないものに心を揺さぶられている自分のことが一番許せなかった。こんなもので、この程度のもので、今まで私が受けてきた屈辱や苦しみが消えて無くなるはずがないのに。私は頬を流れる涙を拭いながら、自分で自分に言い聞かせるように悪態をつく。
「ふざけんな。私の血で……こんな絵を描きやがって……」
みんなぐちゃぐちゃにしてしまえ。こんな絵なんてクソ喰らえだ。私は握りしめた拳銃を握りしめる。だけど、いくら頭で命令しても、私の腕はその命令に従って目の前の絵に銃口を向けてはくれなかった。
私はふと作品の横に貼られていた作品の紹介に目が止まる。そこには絵の象徴や描かれた時代背景についての説明文とともに、マグラスが残したという言葉が載せられていた。
『この絵が、君がここにいることの意味の一つになれることを、祈る』
その瞬間だった。後ろから複数人の足音が近づいてくる音が聞こえてきたのは。私は振り返る。そこには銃を構えた二人組の警察がいた。銃口はまっすぐこちらを向いていて、彼らは私が握りしめていた拳銃をじっとにみつけていた。
私は反射的に拳銃を構えようとする。だけど、その動きをトリガーにし、私に狙いをつけた拳銃から銃声が響きわたる。私は拳銃を床に落とし、拳銃は大理石の地面の上をくるくると回転して、ゆっくりと動かなくなっていく。
痛みはなかった。感じられたのはフロアに広がった火薬のにおいだけ。身体の力が抜けて、私はその場にゆっくりと倒れ込む。私を撃った警官たちの声も遠くから聞こえてくる騒々しい足音も全てが輪郭を持たず、まるで水中にいるみたいな感覚だった。
頬が床に触れる。固くて冷たい感触。だけど、その間を生暖かい何かが入り込んでいく。それは私の血だった。いつも管の中を流れているところしか見ていなかったから、こんなにも間近で自分の血を見るのはひょっとしたら初めてかもしれない。
私の血は白い大理石の床に広がっていく。吸い込まれそうなほどに鮮やかな紅色で、照明の光を反射して夏の日の水面のようにきらめいている。私は真紅に浮かぶ瞬きを見つめながら、これが画家どもがこぞって求めていた血なのかと乾いた笑いを浮かべた。
「やっぱり、美しいものは大っ嫌いだ」
私は吐き捨てるようにそんな言葉を呟き、深く、そして二度と目覚めることのない眠りの中へと落ちていくのだった。




