第二章 名前が残らない
「記憶違いじゃないと思うんですけど
……あの家、たしかに誰か住んでましたよ」
そう証言してくれたのは、隣家の70代の女性だった。
「若い男の人……だったかな。いや、女の人だったかしら。あれ、いつの話だったかしらねえ」
結局、具体的な名前や日付は出てこなかった。
記憶の色が、ところどころ剥げ落ちている。
けれど確かに、“誰かがいた”という感覚だけがそこに残っている。
他の住人にも話を聞いた。
同じように、「いたような気がする」という断片は出てくるのに、誰も核心には触れない。
顔も名前も、職業も、声も。記憶に引っかかるようで、するりと抜けていく。
不思議だった。
ふつう、近所に人が住めば、些細な情報でも残るはずだ。庭の手入れの頻度、物音、洗濯物の様子、挨拶の仕方……。
けれど、この家の住人たちは、誰の記憶の中にも“定着していない”。
部屋に戻り、取材ノートを開く。
……数分前に書き留めたはずの証言の一部が、薄くなっていた。
ペン先のインクの問題ではない。
さっきまで鮮やかだった筆跡が、まるで水に滲んだようにかすれている。
私は首を傾げながら、スマホで撮ったはずの室内写真を確認する。
フォルダに入っていたはずの一枚が、見当たらなかった。
記録媒体に異常が出ることはある。だが、データの消失と文字のかすれが同時に起こるのは偶然だろうか。
翌日、編集部で同僚に件の家のことを話すと、彼は眉を寄せた。
「……その家、先日から取材してたって言ってたよな。あれ、でも……誰の話だったっけ?」
「誰って……私が今調べてる、あの失踪した……」
言いかけて、止まった。
言葉が、引っかかる。
私自身も、その“誰か”の名前を思い出せなかった。
何度も繰り返し読み返したはずの記録が、胸の奥で靄のように曖昧になっている。
まるで、私の中の“記者”としての役割だけが先行していて、取材対象の実体が少しずつ薄れていくような。
私がこの家について調べているのは、誰のためだった?
私は再び、あの家へ向かわなければ。
なにかが、そこに置いてきぼりになっている気がした。