表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
溺れる日記  作者: 揺蕩う夜
第四部 記録者
9/47

第二章 名前が残らない

「記憶違いじゃないと思うんですけど

……あの家、たしかに誰か住んでましたよ」


そう証言してくれたのは、隣家の70代の女性だった。


「若い男の人……だったかな。いや、女の人だったかしら。あれ、いつの話だったかしらねえ」


結局、具体的な名前や日付は出てこなかった。

記憶の色が、ところどころ剥げ落ちている。

けれど確かに、“誰かがいた”という感覚だけがそこに残っている。


他の住人にも話を聞いた。

同じように、「いたような気がする」という断片は出てくるのに、誰も核心には触れない。

顔も名前も、職業も、声も。記憶に引っかかるようで、するりと抜けていく。


不思議だった。

ふつう、近所に人が住めば、些細な情報でも残るはずだ。庭の手入れの頻度、物音、洗濯物の様子、挨拶の仕方……。


けれど、この家の住人たちは、誰の記憶の中にも“定着していない”。


部屋に戻り、取材ノートを開く。


……数分前に書き留めたはずの証言の一部が、薄くなっていた。

ペン先のインクの問題ではない。

さっきまで鮮やかだった筆跡が、まるで水に滲んだようにかすれている。


私は首を傾げながら、スマホで撮ったはずの室内写真を確認する。

フォルダに入っていたはずの一枚が、見当たらなかった。

記録媒体に異常が出ることはある。だが、データの消失と文字のかすれが同時に起こるのは偶然だろうか。



翌日、編集部で同僚に件の家のことを話すと、彼は眉を寄せた。


「……その家、先日から取材してたって言ってたよな。あれ、でも……誰の話だったっけ?」


「誰って……私が今調べてる、あの失踪した……」


言いかけて、止まった。

言葉が、引っかかる。


私自身も、その“誰か”の名前を思い出せなかった。

何度も繰り返し読み返したはずの記録が、胸の奥で靄のように曖昧になっている。


まるで、私の中の“記者”としての役割だけが先行していて、取材対象の実体が少しずつ薄れていくような。


私がこの家について調べているのは、誰のためだった?


私は再び、あの家へ向かわなければ。

なにかが、そこに置いてきぼりになっている気がした。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ