第一章 名前のない家
きっかけは、社内掲示板に貼られた“地方面向け特ダネ募集中”の一文だった。
若手記者の私は、特に深い期待もなくその下に吊るされた取材ネタ一覧を眺めていた。
その中のひとつ、「旧白浜町、空き家での二重失踪案件(※記録調査中)」という記載に目が止まった。
空き家、二重、失踪。
三拍子揃えば話にはなる。
けれど注目度は低く、上層部も真面目に掘る気はなさそうだった。
地元紙の片隅に載せる“風変わりな話”としてまとめられれば、それでいい。
そう思って、私はその家に向かった。
旧白浜町。
今は統廃合されて“中海区”の一部になっている。
バス停から徒歩十五分。駅から離れた場所にその家はあった。
平屋造りで、築年数の割には外観はしっかりしている。けれど、玄関脇の雨どいは外れていて、庭の雑草は膝丈まで伸びていた。
玄関の鍵はすでに外されていた。
地域の管理団体に連絡済みだった私は、そのまま中に入る。
……空気が重い。
空き家特有の埃臭さではない。
濡れた木材のような、ぬめりを帯びた匂いがあった。
リビングの畳は少し歪んでいた。重さで沈んだような跡が、一箇所にだけある。
収納スペースは最小限。けれど、誰かが手入れをした形跡がある。
窓枠は比較的新しく、壁紙の一部は貼り直されていた。
だが、全体として“不自然な修繕”の印象が拭えない。
床を歩くと、ある一角でコン、と音が響いた。
同じ板張りのはずなのに、そこだけが空洞を含んだように響く。
私はしゃがみ込み、その床に手を当てた。わずかに段差がある。補修跡だ。
不動産管理者の話では「二件の入居記録があったはずだが、書類が散逸していて確認できない」とのことだった。
いずれも賃貸契約が曖昧で、引き払った記録もなければ退去連絡もない。
一人目の失踪は数ヶ月前。男性、二十代。職業不詳。近隣との接触もほぼなし。
二人目はその数週間後。女性、年齢不明。郵便物の宛名すら曖昧だった。
この家に住んでいたはずの二人は、記録の中からも、町の記憶からも、すっぽりと抜け落ちている。
けれど、確かに誰かが住んでいた形跡はある。
私は床の補修跡に手を置いたまま、息を吐いた。
この家には、“名前”が残っていない。
だが、“気配”だけがずっと、ここに染みついている。