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溺れる日記  作者: 揺蕩う夜
第三部 前日譚
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―書いたことは、いつのまにか“思い出”ではなくなっていた―


日記をつけはじめたのは、中学一年の春だった。


お母さんがくれた、少し背伸びした革のノート。

青いリボンで閉じるタイプで、「大事なことを書くといいよ」と笑って渡してくれた。


最初は、学校のことや友達のこと、空の色や好きな香水の匂いを記録していた。

何気ないことを書くたびに、少しだけ安心した。


書いているあいだだけは、自分が自分でいられる気がした。

けれど、あるときから“違和感”が混じるようになった。


> 4月12日

> 放課後の教室で、あの子の席に手紙を入れた。

> でも、やっぱり黙って捨てた。

> 怖かった。誰かに見られることより、

> 自分の中にある“本当”を、この手で言葉にしてしまうことが。


その日の夜、私はなかなか眠れなかった。

ずっと、足元が冷たかった。

湯船の底に、何かが沈んでいる気がして、動けなかった。


> 4月16日

> お風呂で、誰かに足首を掴まれた気がした。

> でも、私しかいなかった。

> 目を開けてたのに、見えなかった。


お風呂から出ると、脱衣所の床に水たまりができていた。

こぼしたはずはないのに。

その中心に、小さな文字のような染みが浮かんでいた。

読めなかった。でも、なぜか――秘密が漏れている気がした。


それから私は、怖かったことだけを書くようになった。

そうしていないと、“それ”が近づいてくる気がしたから。

“空白”を残すと、そこに何かが入り込んでくる気がした。


> 4月20日

> また夢を見た。

> 暗い水の中で、私は浮かんでいた。

> でも、目は開いていたし、息もできた。

> 誰かが、耳の奥で囁いていた。

>「ねえ、交代して」

> その声が、自分の声だった。


日記を書くたびに、手が冷たくなっていく。

書いたあとで何を書いたのか、すぐに思い出せなくなることが増えていった。


> 4月22日

> 放課後の廊下で、あの子を見つけた。

> でも、声をかけなかった。

> きっと私のせいで、あの子はひとりだった。


ページに並ぶ自分の文字を、ただ“読んでいる”ような感覚になっていた。


書いたのは自分なのに、記憶がなかった。

何かが、私の中から抜け落ちていく感覚。


そのとき足元で、ぴちゃん、と水音がした。

見れば、床の木目の隙間から、水がにじみ出ていた。


中心に、小さな破片のようなものが沈んでいた。

手紙の切れ端のような、小さな文字のにじんだ紙片。



>だいじょうぶだよ。

>ばれないようにすればいいんだよ。



それをいつ書いたのかも、誰に言ったのかも、もう思い出せなかった。

でも、水たまりを見つめていると、頭の奥がひんやりと空っぽになる。

そのかわりに、何かが“部屋のどこか”に増えている気がした。


私はもう、何を忘れたのかを覚えていない。


> 4月25日

> 鏡に映った私は、笑ってた。

> 私は笑ってなかったのに。


鏡のなかの私の口が、こう動いた。


「もうすぐ、こっちに来れるね」


それは、私の声ではなかった。

部屋のあちこちから水がにじんでくるようになった。

机の下、ベッドの隙間、ふすまの溝、教科書の間――

静かだった。でも、湿っていた。


> 4月28日

> 明日で終わる気がする。

> 私の時間。私の体。私の名前。

> 書いておかないと、私がどこにも残らなくなる。

> これを読んでくれる、誰かへ。

> 私のことを、覚えていて。

> 忘れないで。

> そうすれば、私はまだ、ここにいられるから。

>書いて。書いて。書いて。


私は、その下に名前を書いた。


>ヒナ。


書いたのに、すぐに読めなくなった。

文字がにじんで、溶けて、水の染みになって、

やがて、そのページの筆跡が変わっていた。


> 見つけてくれて、ありがとう。

> 私は、たしかにここにいた。

> 忘れられても、ここだけは――まだ濡れている。


“私”は、もうノートの中にいる。


ページが開かれるたび、誰かが思い出すたびに、


そこに一瞬だけ、私は浮かび上がる。


声を出しても、誰にも届かない。


でも、ノートがめくられれば、私はそこにいる。

私の声は、もう届かない。


けれど、日記だけが――まだ、ここにいる。



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