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溺れる日記  作者: 揺蕩う夜
第二部 二冊目
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二冊目

この家に越してきた日のことが、思い出せない。


鍵を受け取った記憶も、荷物を運び込んだ記憶も、誰かと会話した記憶もない。


それなのに、私はここにいる。

ちゃんと住んでいる。


生活の音もあるし、冷蔵庫の中には私の名前のついた調味料まで入っていた。


なのに、“ここに来るまで”がまるごと抜けている。


ただひとつ、はっきり覚えているものがある。


押し入れの奥にあった、一冊の黒いノート。


それだけが、この部屋の中で“私が確かに見つけた”と断言できるものだった。

表紙には何も書かれていない。

けれど、開いた瞬間、一枚の紙が勝手にめくれた。


> はじめまして。

> ここまで読んでくれて、ありがとう。

> 君なら、きっと気づいてくれると思った。

> 俺がいたことを――

> 忘れないでくれ。


筆跡は男のようで、でもどこか、女の子の文字にも似ていた。

にじみかけたインクの端が、なぜか“自分の字”に似ていた。

読んだ瞬間、胸の内側で、水音のようなざわめきが走った。


ページをめくるうちに、ノートの中には“私しか知らない記憶”が並びはじめた。


> 高一の春。あの子のスマホを盗んだ。

> みんなで探したふりをした。

> 見つけたとき、泣きそうな顔が忘れられなかった。


それは、誰にも言ったことのないことだった。

ずっと心の奥底に沈めて、見なかったふりをしてきたことだった。

でも、それが書かれていた。

次のページには、もっと古い記憶が刻まれていた。


> 小四の図工室。

> あの子の絵を破ったのは、私だった。

> 担任はあの子を叱った。私が黙ってたから。


その記憶を読み終えたとき、私はふらついて立ち上がった。


なぜか足元が濡れていた。

最初は床が結露しているのかと思った。

けれど、窓も壁も天井も乾いている。

濡れているのは、床の一点だけだった。

そこに、小さな水たまりができていた。


私はしゃがみこんだ。

反射する天井の白い蛍光灯。


……そのすぐ下、水の中に、小さな紙切れのようなものが沈んでいた。

目を凝らすと、それには文字がにじんでいた。


「黒…板……」「図……室……?」


その瞬間、頭の奥がズンと重くなった。


記憶が抜け落ちるような、逆流するような感覚。

まるで水たまりの中に、自分の思い出が“沈んでいる”のを見てしまった気がした。


私はタオルで拭こうとした。

けれど水は、拭いても消えなかった。

むしろ、拭き取った布の先に、ほんのわずかにインクの匂いが移った。

ノートのほうを見ると、ページがまたひとりでに開かれていた。


> 6月3日

> 書けば、少しは軽くなる。

> 忘れたことは、もういらないこと。

> 水になって、流れていく。


私は、自分がペンを持っていることに気づいた。

いつ手に取ったのか、覚えていない。

けれど、確かに自分の字で、何かを書き始めていた。

読み返そうとしても、書いた内容が頭に入ってこない。

文字は見えるのに、その意味が浮かばない。


私は“私のこと”を、読んで理解できなくなっていた。

足元の水位が上がっていた。

くるぶしの上まで、音もなく沈んできている。


ペンが止まらない。

私は記憶をノートに刻みながら、少しずつ“自分”から離れていく。


> ごめんなさい。

> あの子の声を聞いたのに、知らないふりをした。

> そのまま扉を閉じた。


その一文を書いたとき、部屋の水が音もなく広がった。

濡れていない場所を見つけるほうが難しくなっていた。


私は立ち上がれない。

水に足を取られているのではない。

自分で沈んでいるのだ。


ノートのページが、また勝手にめくられた。

白紙だったはずのそこに、文字が浮かび上がっていく。


> 6月5日

> あの日、あの子を呼び出した。

> 放課後の階段裏で、誰にも見つからないように。

> 私は、笑っていた。

> 震えてるあの子に向かって――


その一文を読んだとき、

頭の奥に“何か”が溢れそうになって、同時に音を立てて崩れた。

心臓の鼓動が遠くなる。

手が、ページをめくるのを拒むように震える。


続きを読もうとした。

けれど、文字が読めなかった。


“何が書かれているのか”、


それ以前に、“何を読もうとしていたのか”がわからなかった。

その記憶が、“今まさに水に溶けた”と、直感でわかった。


見ているのに、知らない。


自分で書いたのに、思い出せない。


私の知らない私の罪が、ノートの中にだけ存在している。

喉の奥が、ゆっくりと冷たくなっていく。

胸の底に、何かが沈んでいく。


そして、水音がした。

たった一滴。

静かな、けれど決定的な音。


それは“この記憶が、私から完全に抜け落ちた”という合図だった。


私は、たしかに“何か”をしていた。

でも、それが何だったのか――もう二度と思い出せない。


水は、今、唇のすぐ下まで来ている。



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