第五章 呪いの継承
喉の奥に、冷たいものが流れ込んできた。
水だ。けれど、ただの水じゃない。
俺の中に、何かが入り込んでくる。
肺に、血管に、脳に、記憶の隙間に――ゆっくりと染みて、這い回っている。
「だれ、だ……おれは……」
声にならない泡が、口の端から漏れた。
視界が揺れる。
部屋はもう水で満たされ、家具の輪郭がにじんでいく。天井も、もうすぐ手が届きそうなほど水面に沈んでいた。
> 5月6日
> 今日も、夢を見た。
> 俺は、あの子の目で世界を見ていた。
> 息ができないはずなのに、なぜか落ち着いていた。
> 水の中にいるのに、冷たいとも思わなかった。
その景色は、俺には――あまりに懐かしかった。
ここにいると、“俺”という輪郭が溶けていく。
ヒナの記憶が染み込んでくる。
もう、区別なんて、つかない。
この日記が、誰かに届きますように。
ページが、ぺたり、と音を立てて閉じた。
俺の思考も、感覚も、音も、言葉も、
ゆっくりと水の底に吸い込まれていく。
“ヒナ”という名前だけが、静かに胸の奥に沈んでいた。
……そして、またページが一枚、音もなく開いた。
誰の手によってかは、もうわからない。
けれど、その白紙には、すでに“次の物語”が始まりかけていた。
まるで、最初から――そう決まっていたかのように。
……数週間後。
「この家、空きましたよ」
不動産業者が鍵を差し出す。
新しい入居者は若い女だった。
部屋の中に残されたものはほとんどなかったが、押し入れの奥に一冊のノートが残されていた。
古びた革の表紙。角のすり切れた背表紙。微かに湿った感触。
めくると、ページの一番上には、こう記されていた。
> はじめまして。
> ここまで読んでくれて、ありがとう。
> 君なら、きっと気づいてくれると思った。
> 俺がいたことを――
> 忘れないでくれ。
女は、ゆっくりとページをめくった。
その紙は、ほんのわずかに濡れていた。
乾いているはずなのに、指先にひやりとした感触が残る。
誰もいないはずの部屋で、
彼女の背後から、ぽちゃん、と水音が響いた。
床が、きゅ、と冷えた音を立てた。
水音のような、それは小さな“はじまり”の音だった。