第一章 引き継ぎ
鍵を受け取ったのは、午後のことだった。
管理人に案内されて入った部屋は、驚くほどがらんとしていた。
畳の匂いと、わずかに湿った空気。
窓を開けると、隣の建物の壁が間近に迫っていて、日差しはほとんど差し込まなかった。
「前の入居者は、急にいなくなりましてね」
管理人はそれ以上の説明をしなかった。
けれど、長く住んでいた気配はどこにもなく、荷物も何ひとつ残されていない。
……机の上に置かれた、一冊のノートを除いては。
黒い革のような表紙。
角は擦り切れ、持ち上げるとひやりとした感触が手にまとわりつく。
「忘れ物ですか?」と聞いたが、管理人は眉をひそめて首を振った。
「その部屋に元からあったものらしいですよ」
「……元から?」
「そういうのは処分してもいいんですけどね。誰も触りたがらないんで、そのままにしてあります」
管理人が去り、一人きりになった。
ノートを机に置く。
開くのは気味が悪かったが、好奇心の方が勝った。
最初のページには、短い一文が記されていた。
> 明日、あなたは郵便受けの前で足を止める
インクは乾いているのに、文字の縁がまだ濡れているように見える。
胸の奥がざわついて、思わずページを閉じた。
その夜。
寝る前にもう一度机を見た。
ノートは、いつの間にか次のページを開いていた。
そこには、さらに別の一文が浮かび上がっていた。
> そのとき、隣人も立ち止まる
一瞬、背筋が冷えた。
——なんで……こんなことが書いてあるの。