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溺れる日記  作者: 揺蕩う夜
呼ばれる日記 第一部 本編
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第六章 残された日記

窪みの縁に立つと、下から湿った空気が昇ってきた。


土の匂いに混ざって、白い花の香りがはっきりと鼻を突く。

昨日、買わされたあの花と同じ匂いだった。


「……アキ」


二度目の呼び声が、胸の奥で脈を打つ。


声ではなく、体の内側から広がる波紋のような感覚。

それに触れた瞬間、足首まで土が沈み、冷たい水が肌にまとわりつく。


視界がにじむ。


色が抜け、景色が水の膜の向こう側に変わっていく。

輪郭が溶け、音が遠のき、呼吸が自分のものではないように浅くなっていく。


それでも、手の中のノートだけはくっきりと見えていた。


ページはひとりでに開き、そこに濡れたような文字が浮かび上がる。


> もうすぐ、会える


文字は私の癖に似ていた。

けれど、これは私が書いたものではない。


窪みの奥、暗い水の中に、何かがいた。


白い指先が水面を割り、小さく招くように動く。

その後ろに、笑っているような、泣いているような顔が揺れていた。


……来て


耳の奥で囁く声と、水面から響く声が重なり合う。

どちらも、私の名前を呼んでいた。


土がさらに沈み、膝まで水に浸かる。


冷たさは痛みに変わらず、ただ深いところへと引き込んでいく。


視界が閉じる直前、最後に見えたのは——

水面のこちら側に立つ、自分と同じ顔だった。


その唇が動き、そして、ノートの行のように浮かんだ。


> 次は、あなた


瞬間、その顔が腕を伸ばし、私の手首を掴んだ。


冷たいのに、異様に力強い。


引き寄せられていると思ったのに、

次の瞬間には、私の方が相手を水の奥へ引きずり込んでいる感覚に変わった。


私が沈むのか、あの顔が沈むのか。


もう区別がつかない。


水と視界が、同時に閉じた。


……数日後。


アパートの鍵が、不動産業者によって開けられた。


湿った空気が、廊下にゆっくりと流れ出す。


「ここが空きました」


新しい入居者は若い女性だった。


部屋はほとんど空だったが、机の上に一冊のノートが置かれていた。


古びた革の表紙。

角は擦り切れ、持ち上げると、ひやりとした感触が指先に吸いつく。


最初のページには、こう記されていた。


> 明日、あなたはこの日記を読む


ページの余白には、うっすらと消えかけた名前がにじんでいる。


——藤宮 亜季。


新しい入居者がページをめくった瞬間、

部屋の奥から、わずかに水が揺れる音がした。


その音に紛れて、誰かが確かに彼女の名前を呼んだ。

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