第五章 呼ばれる場所へ
> 明日、あなたは呼ばれた方へ歩き出す
その一文が、昨夜から胸の奥に沈んでいた。
拒む言葉を探そうとしても、
舌の上で全部が重く沈んでいく。
翌朝。
雨は降っていないのに、空気はやけに湿っていた。
起き上がった瞬間から、足元に冷たい膜のような感触がある。
床は乾いているのに、靴下越しに水の気配がついてくる。
机の上のノートは、昨日と同じページを開いたまま。
視線を逸らして着替えようとしたはずなのに——
気づけば、手の中にノートを握っていた。
持ち上げた記憶はない。
革の表紙の冷たさが、指先に吸いついていた。
「……行かない」
声に出した。
けれど、次の瞬間には玄関の鍵を回していた。
靴を履く感覚は遠く、
まるで誰かが代わりに動かしているようだった。
外に出ると、景色が少し違って見えた。
通い慣れた道のはずなのに、
看板の文字は白く塗りつぶされ、
並んでいた植木鉢は消えている。
電線は低く垂れ下がり、風もないのに揺れていた。
足が止まらない。
呼吸の音よりも、胸の奥でざわめく水音のほうが大きくなっていく。
気づけば、町外れの道にいた。
靴下はじっとりと濡れている。
見上げると、雲の切れ間からの光が路面を水面のように揺らしていた。
前方に、ひらけた空き地が広がっていた。
舗装は途切れ、土がむき出しになっている。
その中央に、深く抉れた跡のような丸い窪み。
近づくたびに、胸の奥のざわめきが、声へと変わっていく。
「……アキ」
一度目の呼び声。
耳の外からではなく、頭蓋の内側で鳴った。
足の裏が地面に沈むように重くなる。
それでも前へ進む動きは止められなかった。
手の中のノートが勝手に開く。
新しい行が浮かび上がっていく。
> 今、あなたはもう外にいる
見下ろすと、足元の土がじわじわと濡れ、波紋を描いていた。
その中心から、泡がひとつ、静かに浮かび上がる。
胸の奥で、二度目の呼び声がはっきりと鳴った。
「……アキ」
その声に応えるように、足が自然と窪みの中へ向かう。
背中から冷たい風が押し出してくる感覚。
視界の端で、影がこちらを見ていた。