第三章 呼び声
朝から胸の奥がざわついていた。
ノートの一文が、窓ガラスに貼りついた水滴みたいに、
頭から剥がれない。
今日は外に出ないつもりだった。
そう決めていたのに——
昼前。
郵便受けを覗こうと階段を降りた。
ポストの奥に、差出人のない白い封筒が一通だけ入っている。
手に取ると、中は空だった。
それなのに、紙の内側だけがしっとりと湿っている。
「……何これ」
呟いた瞬間、耳のすぐ後ろで——
「……アキ」
水の底から絞り出すような女の声。
振り返ると、廊下には誰もいなかった。
ただ、床の一角だけが濡れていて、小さな波紋が広がっていた。
部屋に戻り、ノートを開いた。
勝手にめくられたページに、濡れたような文字が浮かんでいた。
> 明日、あなたは二度呼ばれる
乾いているはずの紙から、冷たい感触が指先に移る。
その温度だけが、妙に長く残った。
翌日。
できるだけ人のいない道を選び、
仕事の打ち合わせへ向かう。
昼過ぎ、裏路地に差しかかった瞬間——
「……アキ」
一度目の呼び声。
鼓膜ではなく、胸の奥で直接響くような声だった。
周囲の音がすべて吸い込まれ、
世界が一枚のガラス越しになったように遠のく。
振り向くと、行き止まりの壁の下、
コンクリートの隙間から水がじわりと染み出していた。
夕方。
買い物を済ませ、アパートの近くまで戻る。
夕陽が長く伸ばした影の先に、人影が立っている——そう思った。
「……アキ」
二度目の呼び声は、耳の穴を通らず、頭蓋の内側で鳴った。
その瞬間、足首から下の感覚がふっと消える。
視界の端が水面のように波立ち、
人影は影ごと揺らいで崩れた。
部屋に戻ると、ノートはもう次のページを開いていた。
> 明日、あなたは白い花を買う
赤い傘、炭酸水、呼び声——避けても無駄だった。
ページを閉じる前、胸の奥でまたあの波音が小さく弾けた。
その音と一緒に、白い花の冷たい香りが、
なぜかもう知っている匂いとして残っていた。