第四章 自我の浸食
日記のページは、もはや俺の意思ではめくれなくなっていた。
ページの縁が勝手に指先に吸い付き、ぬるりと濡れた紙が、“続きを読ませる”ためだけに動いてくる。
その湿ったページに、また知らない文字が浮かんでいた。
> 5月3日
> 読んでくれてありがとう。
> あなたの目で、私を思い出してくれてありがとう。
> だから、次はあなたの手で、続きを書いて。
読み終えた瞬間、ぞくりと背筋を冷たいものが這いのぼった。
たった今目にしたはずの文章が、**まるで自分に向けて語りかけてきた**ような錯覚。
紙の向こう側に“誰か”がいる。
「……俺に……言ってるのか……?」
ページは濡れているのに、インクは滲んでいない。
むしろ、**文字の一画一画が脳に直接刻み込まれるような鮮明さ**だった。
読んでいるのか。読まされているのか。
気づけば、指先が次のページへと吸い寄せられていた。
> 5月4日
> 書くことで私は浮かび上がれる。
> 書くことをやめると沈む。
> 書くことで私は、私になる。
その文章を読み終えたとき、
俺はふと、自分の名前が思い出せなかった。
「……え?」
心の奥をかき回されるような焦り。
すぐに思い出せるはずのものが、なぜか浮かんでこない。
生年月日、電話番号、家族の顔。
どれも薄く、滲んで、遠ざかっていく。
代わりに、頭に浮かんだ名前は――
「ヒナ」
気づけば、口がそう呟いていた。
水は、膝まで来ていた。
室内のはずなのに、水面が揺れる。微かに波が立ち、床下から冷たい泡がぼこ、ぼこと浮いてくる。
鏡を見る。
そこに映っていたのは、長い黒髪の少女だった。
目が合った。
笑っていた。
口元だけが、にやりと歪んでいた。
俺は叫びながら振り向いた。
だが、そこには誰もいない。
次の瞬間、鏡の表面が波打ち――その“顔”がこちらに一歩、近づいてきた。
水面の中から、俺に成り代わるように。
耳の奥で、水の音が止まらない。
心臓の鼓動さえ、遠くに感じる。
そして手元のページに、また文字が滲んだ。
> 5月5日
> もうすぐ、沈める。
> 書ききったら、全部終わる。
> だから、最後まで、私といてね。
ページが、指先にぴったりと張り付いた。
誰かの声が、耳の奥で囁く。
「あなたの言葉で、私を完成させて――」
それはもう、俺の声ではなかった。