第一章 明日の出来事
引っ越しの荷ほどきは、思った以上に骨が折れる。
段ボールの山の前で、私はひと息ついた。
「……まだこれだけあるの?」
自分に呆れながら、押し入れの下段を開ける。
古い木の板の匂い。
そこに、ひとつだけ色の違う段ボールがあった。
ガムテープは半分剥がれかけ、角は擦り切れている。
中をのぞくと、雑多な古道具の下に、黒い革のような表紙のノートがあった。
持ち上げると、ひやりと冷たい。
革の表面は乾いているのに、指先に湿りが移る感触。
「……誰の?」
表紙に名前はない。
試しに開くと、一枚目に短い文章が書かれていた。
> 明日、あなたは駅前で赤い傘を拾う。
……なんだこれ。
日記というより、占いのメモみたいだ。
ページをめくっても、他は白紙だった。
誰かの遊び心かもしれない。
そう思って机の上に置いたが、心のどこかで、その一文が引っかかった。
翌日。
買い物帰り、駅前の横断歩道で信号が変わるのを待っていたときだった。
足元に、赤い傘が転がっていた。
ビニール地に水滴はなく、柄の先が少しだけ欠けている。
誰のものか分からない。
人通りは多いのに、誰もそれに気づいた様子がない。
胸の奥がじわりと冷たくなる。
昨日、ノートに書かれていた言葉が、そのまま光景として立ち上がってくる。
拾わなければいい。
そう思った。
けれど、気づけば私は手を伸ばしていた。
駅の落とし物窓口に届け、形式的な手続きを済ませる。
係員の笑顔に頷きながらも、心の中では別のことを考えていた。
「本当に……当たった」
偶然と言ってしまえばそれまでだ。
けれど、偶然にしてはタイミングがあまりにも鮮やかすぎる。
夜。
買い物袋を置き、机に向かう。
ノートは昨日と同じ位置にあった。
開くと、二枚目のページに新しい文字が記されている。
> 明日、あなたは缶コーヒーを落とす。
昨日と同じ淡々とした筆致。
インクは乾いているのに、文字の縁がまだ呼吸しているように見えた。
ページから目を離せなくなっていた。
指先に、またあの冷たい感触が戻ってくる。