序章 めくって
夜の空気は紙の匂いがした。
湿り気を帯びた冷たさが、窓も閉め切った部屋にゆっくりと沈んでいく。
照明の下、埃が光の粒となって漂っていた。
壁際の棚は古く、取っ手は錆びつき、木目は灰色に変色している。
長く触れられていないことが、見ただけでわかった。
力を入れて引くと、引き出しの中から乾いた音とともに、
薄い煙のような埃が舞い上がる。
中には、色あせた書類や、表紙の外れた帳簿、宛名のない封筒が無造作に積まれていた。
一番下に、他のものとは明らかに質感の違う一冊があった。
黒い厚紙の表紙。
角は擦り減り、縁がほつれて白く毛羽立っている。
手に取ると、紙の内側から冷たさがじわりと滲み出すようだった。
最初のページは真っ白だった。
けれど、光を傾けると、かすかに凹んだ跡が見えた。
何かが書かれ、そして削られたような痕。
ページをめくると、中央に一行だけ、鮮明な文字があった。
> 明日、あなたは知らない場所で立ち止まる。
インクは乾いているはずなのに、光の角度で濡れているように見える。
読んだ瞬間、喉の奥にひやりとした空気が落ちた。
ページの下半分は余白だった。
だが、見ている間に、その白がわずかに暗く染みはじめた。
にじみが広がり、黒い紙の下から文字が浮かび上がっていく。
> あなたの足音は、もう聞こえている。
背筋に冷たいものが走った。
ノートを閉じようとしたが、指先が表紙から離れなかった。
それどころか、紙の縁が手に吸いつくように貼りついてくる。
部屋の空気が静かに変わっていく。
冷たいというより重く、息を吸うたびに肺の奥まで湿り気が溜まっていくようだった。
背後で誰かが立っている気配がする。
振り返ることはできなかった。
視界の端で、ノートのページがひとりでに揺れた。
めくるでもなく、閉じるでもなく、紙が呼吸をしているように。
新しい文字が浮かび上がる。
今度はゆっくり、何かを誘うような筆跡で。
> めくって
この一言が、紙の奥から直接脳に押し込まれたように響く。
その瞬間、静まり返っていた部屋のどこかで、微かに足音が動いた。