第五章 記憶の底
取材を終えて宿に戻った夜、私は机の上に日記を置いた。
表紙は薄暗い部屋の光を吸い込み、かすかに湿っている。
開くと、紙の繊維が指に吸い付くような感触がした。
ページは勝手にめくれ、ヒナの字が現れる。
> みさきちゃんが よんでる
> たかひろくんも よんでる
たかひろ――誰だ?
けれど、この名前には覚えがあった。
数か月前、失踪事件の資料の中に記されていた名前と同じだ。
その人物は、あの町の空き家で消息を絶ったと報告されていた。
次の行に、文字が続く。
> よんで みずに おとす
> およげないから みんなわらってる
インクが滲み、最後の文字が水の波紋のように揺れている。
耳の奥で、幾つもの笑い声が重なった。
甲高い声、低い声――二人、三人……もっといる。
「……私は押してない」
昼間、あの女性が繰り返した言葉が甦る。
ページの下に、小さな文字があった。
そこだけ筆圧が深く、紙を破りそうなほどだ。
> みんな わたしをみてた
指先で触れると、冷たい水がじわりと染みてきた。
瞬きをした途端、その水は文字ごと紙の奥へ沈み、消えた。
私はそっと日記を閉じた。
外は静かなはずなのに、耳の奥ではまだ、誰かの笑い声が消えずに残っていた。