第三章 母の沈黙
施設の玄関は、外の冷たい風を遮るように二重扉になっていた。
案内してくれた職員の後をついて、静かな廊下を進む。
個室の前で足を止め、軽くノックした。
「……どうぞ」
中に入ると、窓際の椅子に腰掛けた女性がこちらを見た。
白髪が目立つが、姿勢はすっと伸びている。
あの家の元住人――ヒナの母だ。
私は名刺を差し出し、軽く会釈した。
「以前もお話を伺いましたが、今日は改めて……」
彼女は名刺に目を落とし、小さく笑った。
その笑みが消えないうちに、切り込む。
「ヒナさんは、本当に病気で亡くなったのですか?」
室内の空気が、一瞬、固まった。
「……そうよ」
やわらかい声。しかし、視線がわずかに泳いでいる。
「学校の記録には、小学五年まで在籍していた痕跡があります。
けれど、公的な死亡記録では享年三歳……」
私の言葉が途切れた瞬間、視線が鋭くこちらを射た。
「……あの子は、学校になんて行ってないわ」
否定ははっきりしていたが、その声には微かな揺れがあった。
机の上に置いたバッグの口が、いつの間にか開いていた。
中から日記を取り出す。
母の視線が、それに吸い寄せられるように動く。
開くつもりはなかったが、ページが勝手にめくれた。
そこには、稚拙な筆跡でこう記されていた。
> みさきちゃん まだきてない
――みさき?
知らない名前だ。
だが、どこかで耳にしたような気がして、指先が止まる。
そのすぐ下に、別の行が浮かび上がる。
> おかあさん まだいきしてるよ
インクのにじみが、まるで水滴のように紙面を歪ませている。
母の唇がわずかに震えた。
「……あの子だけじゃないのよ。みんな……笑ってたの」
その言葉を残し、母は視線を窓の外に逸らした。
それ以上、何も言わなかった。
私は日記を閉じた。
ページの間から、微かな水音が耳に残った。