表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
溺れる日記  作者: 揺蕩う夜
第八部 溺れる名前
33/50

第三章 母の沈黙

施設の玄関は、外の冷たい風を遮るように二重扉になっていた。

案内してくれた職員の後をついて、静かな廊下を進む。


個室の前で足を止め、軽くノックした。

「……どうぞ」


中に入ると、窓際の椅子に腰掛けた女性がこちらを見た。

白髪が目立つが、姿勢はすっと伸びている。

あの家の元住人――ヒナの母だ。


私は名刺を差し出し、軽く会釈した。

「以前もお話を伺いましたが、今日は改めて……」


彼女は名刺に目を落とし、小さく笑った。

その笑みが消えないうちに、切り込む。


「ヒナさんは、本当に病気で亡くなったのですか?」


室内の空気が、一瞬、固まった。

「……そうよ」

やわらかい声。しかし、視線がわずかに泳いでいる。


「学校の記録には、小学五年まで在籍していた痕跡があります。

けれど、公的な死亡記録では享年三歳……」


私の言葉が途切れた瞬間、視線が鋭くこちらを射た。

「……あの子は、学校になんて行ってないわ」


否定ははっきりしていたが、その声には微かな揺れがあった。


机の上に置いたバッグの口が、いつの間にか開いていた。

中から日記を取り出す。

母の視線が、それに吸い寄せられるように動く。


開くつもりはなかったが、ページが勝手にめくれた。


そこには、稚拙な筆跡でこう記されていた。


> みさきちゃん まだきてない


――みさき?

知らない名前だ。

だが、どこかで耳にしたような気がして、指先が止まる。


そのすぐ下に、別の行が浮かび上がる。


> おかあさん まだいきしてるよ


インクのにじみが、まるで水滴のように紙面を歪ませている。

母の唇がわずかに震えた。


「……あの子だけじゃないのよ。みんな……笑ってたの」


その言葉を残し、母は視線を窓の外に逸らした。

それ以上、何も言わなかった。


私は日記を閉じた。

ページの間から、微かな水音が耳に残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ