第七章 白紙の名
目を開けたとき、私は押し入れの前に立っていた。
呼吸は浅く、胸の奥にはまだ冷たい重みが残っている。
足首は濡れたまま、靴下の布が皮膚に張り付き、じわじわと冷えが這い上がってくる。
……沈んだはずだった。
暗い水の底で、視界も音もなくなり、名前も声も、すべて手放した。
あの冷たさは、皮膚の裏側にまだこびりついている。
なのに、私はここにいる。
机の上には、あのノートがあった。
白紙のページを開いたまま、まるで私を待っていたかのように。
近づくと、革表紙から湿った匂いが立ち上り、喉の奥が冷たくなる。
紙の中央には乾ききらない水滴の跡があり、その輪郭が淡く揺れていた。
指先で触れると、冷たさが骨まで染み込んでいく。
その瞬間、繊維の中から黒い線が滲み出し、文字を描き始めた。
> まだ終わらない。
> あなたは“記録”のために戻された。
喉がひくりと鳴った。
声を出そうとしても、息が冷たく散るだけ。
ページをめくる。
そこには見知らぬ名前がいくつも並び、その多くが途中で掻き消されていた。
残っているのは——私の名前だけ。
裏表紙に指を滑らせると、水で染みた文字が浮かび上がった。
> 名前が揃ったとき、すべて沈む。
耳の奥で、遠くから水の音がした。
ぽちゃん、ぽちゃん……。
それは、最初にこの家で聞いた、小さな“はじまり”の音だった。
私はノートを閉じられなかった。
指先は紙の端に吸いつき、白紙が次の言葉を待っている。
> 書かなければ、また沈む。
その確信だけが、胸の奥に冷たく沈んでいた。