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溺れる日記  作者: 揺蕩う夜
本編
3/50

第三章 境界の崩壊

読み続けているうちに、床ににじんでいたはずの水は、

気づけば、足の裏に染み込むほど広がっていた。


最初は薄い膜のようだったものが、今では靴下がびしゃりと濡れる程度には溜まっている。


俺は窓を開け、換気をして、床をタオルで拭いた。

何度も拭いた。バケツがいっぱいになるまで絞っても、水は乾かない。


「……なにこれ、湿気とかじゃない」


それでも理屈を探してしまうのは、

この異常に“現実の説明”を与えなければ、心が壊れそうだったからだ。


> 4月28日

> 泳げないの。

> でも、ここでは泳がなくちゃいけないって、誰かが言う。

> 起きたら、のどが痛かった。

> 水、飲んでないのに。


その文章を読んだ瞬間、俺は激しく咳き込んだ。


喉の奥に、冷たい何かがひっかかっている。水のような、生ぬるい粘り気のある感触がこみ上げて――


「ッ……ぶはっ!」


洗面所で吐いた。

だが、出てきたのは胃液ではなかった。透明な、水だった。


「……冗談だろ……?」


鏡の中の自分の顔が、どこか“にじんで”いた。

ピントが合わない。輪郭が揺れて、他人のような顔がそこにあった。


いや、違う。

俺の中に、“誰か”がいる。


> 4月30日

> 書かないと、消えちゃう。

> 私、ここにいるよね?

> 名前、なんだっけ?

> 私って、誰?


そのページを読み終えた瞬間、

机の上に置いたはずのボールペンが勝手に転がり、日記のページに触れた。


ぬる、と音を立てて、文字がにじんだ。


そして、ペン先が勝手に動いた。


――否、俺の手が、動いていた。


止まらない。書きたくないのに、「続きを書かなければ」という衝動が、喉元を押し込んでくる。


> 5月1日

> 俺は、俺の名前を思い出せない。

> 水の音が、うるさい。

> 耳が濡れてる。

> 誰かが、部屋の中にいる。

> 書いてるのは、俺じゃない気がする。

> それでも、書かないと沈む。

> そう言われた気がした。


ページをめくる手が震えている。


床の水位は、足首の中ほどまで達していた。

びちゃり、びちゃりと水音を立てながら、部屋の空気もどんどん重くなる。


鼻の奥が湿気で詰まり、呼吸が浅くなった。


ふと見たスマホの画面には、通知も時間も表示されていない。


ただ、画面の奥で――


水中の泡が、ゆっくりと浮かび上がっていた。


俺はもう、この部屋から出られない。

日記も、手放せない。


境界が、消えかけている。


現実と、日記と、水の世界。


どれが本物なのか、もうわからない。


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