第三章 境界の崩壊
読み続けているうちに、床ににじんでいたはずの水は、
気づけば、足の裏に染み込むほど広がっていた。
最初は薄い膜のようだったものが、今では靴下がびしゃりと濡れる程度には溜まっている。
俺は窓を開け、換気をして、床をタオルで拭いた。
何度も拭いた。バケツがいっぱいになるまで絞っても、水は乾かない。
「……なにこれ、湿気とかじゃない」
それでも理屈を探してしまうのは、
この異常に“現実の説明”を与えなければ、心が壊れそうだったからだ。
> 4月28日
> 泳げないの。
> でも、ここでは泳がなくちゃいけないって、誰かが言う。
> 起きたら、のどが痛かった。
> 水、飲んでないのに。
その文章を読んだ瞬間、俺は激しく咳き込んだ。
喉の奥に、冷たい何かがひっかかっている。水のような、生ぬるい粘り気のある感触がこみ上げて――
「ッ……ぶはっ!」
洗面所で吐いた。
だが、出てきたのは胃液ではなかった。透明な、水だった。
「……冗談だろ……?」
鏡の中の自分の顔が、どこか“にじんで”いた。
ピントが合わない。輪郭が揺れて、他人のような顔がそこにあった。
いや、違う。
俺の中に、“誰か”がいる。
> 4月30日
> 書かないと、消えちゃう。
> 私、ここにいるよね?
> 名前、なんだっけ?
> 私って、誰?
そのページを読み終えた瞬間、
机の上に置いたはずのボールペンが勝手に転がり、日記のページに触れた。
ぬる、と音を立てて、文字がにじんだ。
そして、ペン先が勝手に動いた。
――否、俺の手が、動いていた。
止まらない。書きたくないのに、「続きを書かなければ」という衝動が、喉元を押し込んでくる。
> 5月1日
> 俺は、俺の名前を思い出せない。
> 水の音が、うるさい。
> 耳が濡れてる。
> 誰かが、部屋の中にいる。
> 書いてるのは、俺じゃない気がする。
> それでも、書かないと沈む。
> そう言われた気がした。
ページをめくる手が震えている。
床の水位は、足首の中ほどまで達していた。
びちゃり、びちゃりと水音を立てながら、部屋の空気もどんどん重くなる。
鼻の奥が湿気で詰まり、呼吸が浅くなった。
ふと見たスマホの画面には、通知も時間も表示されていない。
ただ、画面の奥で――
水中の泡が、ゆっくりと浮かび上がっていた。
俺はもう、この部屋から出られない。
日記も、手放せない。
境界が、消えかけている。
現実と、日記と、水の世界。
どれが本物なのか、もうわからない。