第五章 最後の記録
部屋に戻ると、息がひとつ深く沈んだ。
玄関を閉めた途端、背後で小さく水が跳ねる音がした。
靴を脱ぐ間もなく、足元の冷たさに気づく。
廊下の板の隙間から、じわりと水が染み出している。
リビングの机の上には、ノートがあった。
閉じた覚えはあるのに、白紙のページを開いたまま待っている。
近づくにつれ、革表紙から漂う湿った匂いが濃くなる。
鼻の奥に張り付き、呼吸を遅くする。
ページの中央に、透明な水滴がぽたりと落ちた。
波紋が静かに広がり、その中から黒い線が浮かび上がっていく。
> 川沿いに追い詰めた。
> 笑っていた。
> あの子の声は、もう聞こえない。
視界の端がわずかに揺れる。
その文字を読んだ瞬間、記憶とも幻ともつかない光景が溢れ出す。
雨の日、濁った川の水が膝まで迫る足元。
滑る土手の端に、小さな影が立ち尽くしている。
私はその前に立ちふさがり、声を奪う水音を背後から浴びせていた。
——もっと近くで見なさいよ。
笑った唇の形を、はっきりと覚えている。
それが私自身のものだと気づいたとき、喉の奥がひりついた。
壁際の隙間から、一筋の水が床に滲み出す。
それは音もなく広がり、ノートの下へと吸い寄せられていく。
紙の端がかすかに震え、ゆっくりと次のページがめくられた。
新しい紙の上に、また水滴が落ちる。
> まだ、書き終わっていない。
文字がにじむと同時に、足元の水がくるぶしを越えた。
冷たさが骨まで染み込み、膝へと迫る。
ふと、足首に何かが触れた。
白く細い指が二本、そっと絡みつく。
指は驚くほど冷たいのに、握る力は柔らかく、逃げられない。
呼吸が浅くなる。
胸の奥に水が重く溜まり、肺がきしむ。
視線を落とすと、水面の奥から無数の顔が浮かび上がっていた。
その中のひとつが、私と同じ笑みを浮かべている。
次の瞬間、ページが、水の流れに揺れながら一枚——めくられた。