第四章 名前を呼べない
インターホンが鳴った瞬間、背中に冷たいものが走った。
軽いはずの音が、胸の奥に沈むような重さを持って響く。
その間隙に、耳の奥で水が一滴落ちる音がした気がした。
玄関のドアを開けると、女性が立っていた。
二十代半ばほどだろうか。
肩までの髪は外に流れるように整えているが、目元には眠れない夜が続いたようなわずかな影がある。
「突然すみません。地元で記事を書いている者です」
声は低めで落ち着いているが、どこか探るような響きが混ざっていた。
「……この家のことを調べていて。実は、以前ここを取材していた先輩がいまして」
胸の奥がざわめいた。
彼女は一拍置き、視線をこちらに固定した。
「その先輩は……ある時を境に、連絡が取れなくなってしまったんです」
口の中が乾く。
その名前は聞きたくなかった。
だが、彼女は名を告げず、代わりに鞄から小さな録音機を取り出した。
「少しお話を聞かせてもらえますか? 録音させてもらっても構いませんか」
頷くしかなかった。
リビングに案内すると、録音機の赤いランプが点り、湿った空気の中でいやに鮮やかに見える。
「では……この家で何があったのか。覚えていることを、あなたの言葉で」
息を整え、ゆっくりと声を形にしようとする。
——けれど。
最初の名前を口にしようとした瞬間、喉がきゅっと締め付けられた。
ごぼっ。
冷たいものが逆流してくる。
肺の奥まで入り込んだ水が、一気にこみ上げ、口から溢れた。
床に広がったのは水だけではない。
白く濡れた布片が混ざり、そこからかすかにインクの匂いが漂った。
女性の目がわずかに見開かれる。
録音機を覗き込み、小さく首を振った。
「……声が、入っていません」
「え……?」
「全部、水滴の音です。……まるで深いところから落ちてくるみたいな」
録音機のスピーカーから、ぽちゃん、ぽちゃん……と規則正しい音が流れる。
その響きは、井戸の底から届くような、異様に深い音だった。
「誰の名前を言おうとしたんですか?」
問いかけに口を開く。
だが、声は出ない。
代わりに、小さな泡がいくつも舌の上で弾け、喉の奥に消えていった。
そのとき——
背後で、紙の擦れる音がした。
振り返ると、机の上のノートが一枚だけ開かれている。
そこに記されていたのは、たった二文字。
> まだ。
首筋から背骨へ、冷たい水が一気に流れ落ちた。