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溺れる日記  作者: 揺蕩う夜
第七部 沈みゆく証言
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第一章 戻ってきた

目を開けた瞬間、空気が湿っていた。


重い——呼吸が一度で肺まで届かない。

胸の奥に、見えない水が溜まっているような圧迫感があった。


耳の奥で、かすかに水音が響く。

それは遠くからではなく、頭蓋の内側から漏れてくるようだった。


視界の端に、見覚えのある木の枠。押し入れだ。


その前に、私は立っていた。


足元は畳ではなく、冷たく濡れた板の感触。

踏むたび、板の隙間からじわりと湿りが吸い上がってくる。


歩いた記憶はない。

ここまで来た理由もない。


あのノートを開いたとき、私は自分の名前を思い出せなくなった。

ページをめくるたび、誰かの記憶と声が入り込み、気づけば息をすることも忘れていた。


最後に覚えているのは——

暗く深い水の中で、音も光も奪われ、ゆっくりと沈んでいく自分の感覚だけ。


その重みと、鼓膜を圧し潰す水の圧力は、今も皮膚の裏に冷たくこびりついている。


……二度と戻れないはずだったのに。


視線を落とすと、両手にノートを抱えていた。


革の表紙は氷のように冷たく、しかし指先に吸いつくようにぬめっている。

湿った革の匂いが、鼻の奥にこびりつく。


開いたままの最初のページに、こう書かれていた。


> おかえり。


その二文字を見た瞬間、背筋を氷柱でなぞられたような感覚が走った。


筆跡は、私のものだった。

震えた“り”の形、筆圧の強弱、行間の詰まり方まで、間違いようがない。


……なのに、この一行を書いた覚えが、まるでない。


喉が細く鳴り、息が浅くなる。


背中に、氷水を垂らされたような感覚が走った。

鳥肌が、耳の後ろまで一気に駆け上がる。


ぴちゃん。


押し入れの奥から、小さな水音がした。


風もないのに、机の引き出しがほんのわずかに開いている。

その隙間から、一滴、水が落ちた。


床にできた水たまりは、丸く広がるのではなく、

静かに深みを持って沈んでいくように見えた。


呼吸が、ひとつ、遅れた。

吐いた息が白く煙り、湿った空気の中で溶けた。


ページの隅が、勝手にめくれようとしている。


指を離しても、紙の端はまるで見えない手に引かれているようだった。

その動きはゆっくりだが、抗えない。


奥へ奥へと、私を引き込もうとしていた。


> おかえり。


その文字が、インクではなく、水のにじみで書かれていることに気づいたのは、

次の瞬間だった。

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