第一章 戻ってきた
目を開けた瞬間、空気が湿っていた。
重い——呼吸が一度で肺まで届かない。
胸の奥に、見えない水が溜まっているような圧迫感があった。
耳の奥で、かすかに水音が響く。
それは遠くからではなく、頭蓋の内側から漏れてくるようだった。
視界の端に、見覚えのある木の枠。押し入れだ。
その前に、私は立っていた。
足元は畳ではなく、冷たく濡れた板の感触。
踏むたび、板の隙間からじわりと湿りが吸い上がってくる。
歩いた記憶はない。
ここまで来た理由もない。
あのノートを開いたとき、私は自分の名前を思い出せなくなった。
ページをめくるたび、誰かの記憶と声が入り込み、気づけば息をすることも忘れていた。
最後に覚えているのは——
暗く深い水の中で、音も光も奪われ、ゆっくりと沈んでいく自分の感覚だけ。
その重みと、鼓膜を圧し潰す水の圧力は、今も皮膚の裏に冷たくこびりついている。
……二度と戻れないはずだったのに。
視線を落とすと、両手にノートを抱えていた。
革の表紙は氷のように冷たく、しかし指先に吸いつくようにぬめっている。
湿った革の匂いが、鼻の奥にこびりつく。
開いたままの最初のページに、こう書かれていた。
> おかえり。
その二文字を見た瞬間、背筋を氷柱でなぞられたような感覚が走った。
筆跡は、私のものだった。
震えた“り”の形、筆圧の強弱、行間の詰まり方まで、間違いようがない。
……なのに、この一行を書いた覚えが、まるでない。
喉が細く鳴り、息が浅くなる。
背中に、氷水を垂らされたような感覚が走った。
鳥肌が、耳の後ろまで一気に駆け上がる。
ぴちゃん。
押し入れの奥から、小さな水音がした。
風もないのに、机の引き出しがほんのわずかに開いている。
その隙間から、一滴、水が落ちた。
床にできた水たまりは、丸く広がるのではなく、
静かに深みを持って沈んでいくように見えた。
呼吸が、ひとつ、遅れた。
吐いた息が白く煙り、湿った空気の中で溶けた。
ページの隅が、勝手にめくれようとしている。
指を離しても、紙の端はまるで見えない手に引かれているようだった。
その動きはゆっくりだが、抗えない。
奥へ奥へと、私を引き込もうとしていた。
> おかえり。
その文字が、インクではなく、水のにじみで書かれていることに気づいたのは、
次の瞬間だった。