補章 浮かびあがる名前
あの家は、もう立入禁止の札が貼られていた。
理由は「安全性に関わる構造不備」。
けれど、それを本当に知っていた者は、もうどこにもいない。
あの床の下にあったのは、ただの構造物ではなかった。
“名前”そのものが染み込んだ場所。
誰かが書き、誰かが忘れ、誰かが沈めた――
そんな、記憶の墓のような場所だった。
ノートは、誰のものでもなくなっていた。
けれど、誰の記憶からも切り離されてはいなかった。
ページはふやけている。けれど、濡れてはいない。
乾いているはずなのに、紙の芯だけが、じっとりと冷たい。
表紙は無地。
だが、裏返すと、滲むようにこう書かれている。
> はじめまして。
> あなたの名前を、教えてください。
その一行の下、白紙だったページの中央に、何かが浮かび始めている。
それは、誰かが“書いた”ものではない。
——“名”そのものが、浮かびあがろうとしている。
記憶よりも先に。
言葉よりも先に。
名前は、いつも“そこにある”。
その名前が、誰に読まれるのか。
誰の中に染み込んでいくのか。
それは、まだ誰にもわからない。
ページが、静かに、風を孕みながらめくられていく。
白紙だったはずの紙面に、またひとつ、“声”がにじんでいく。
ふたたび、新しい“誰か”の名前が記されようとしていた。
けれど、今回それは、前とは少しだけ違っていた。
その名前のすぐ下には、こう続いていた。
> ずっと、あなたを待っていました。
> まだ、終わっていません。
そして、どこかでまた、水の音が――
“すぐそばで”鳴っていた。