第五章 底にいた名前
水の底を、私は見つめていた。
床下の中央には、わずかにうねる水面があった。
音はない。風もない。
けれど、その水は生きているように、時折ぴちゃりと震えた。
私はその縁にノートを置いた。
ページのふちが波打ち、紙全体がじっとりと水を含んでいた。
まるで、名前の重さをいまも抱えているようだった。
ページが、一枚、自然にめくれた。
その紙の中央に、“ヒナ”と書かれていた。
それは、私の筆跡だった。
だが、私はその文字を“書いた覚え”がない。
文字の輪郭、力の入り方、独特の癖。
それらすべてが、私自身が書くときの特徴そのものだった。
なのに、私はそれを「読んでいる」感覚しか持てなかった。
その瞬間だった。
耳の奥に、水音ではない“声”が混じった。
——おかあさん……聞こえてる?
——のどが渇いたの、もっと水をちょうだい。
——ねえ、もう怒ってないで、ここを開けて。
——お母さん、まだ息してるよ。見て、ちゃんと見て。
——水の音、ほら……聞こえる? ここに落ちていくの。
——……お母さん、重たいの。痛いの。わたし、まだ……
私は言葉を失い、その場に凍りついた。
次の瞬間、水面がゆらりと揺れ、ふいに冷たい何かが、私の手に触れた。
「……!」
水の中から、手が伸びていた。
小さな、白い指先が、私の手を掴んでいた。
その手は震えていた。
けれど、離そうとはしなかった。
私は引き剥がそうとして、逆に手を取ってしまった。
水面の奥、暗がりの中に、顔があった。
女の子だった。
長い髪、黒い瞳。
その口元が、ゆっくりと動いた。
「……やっと、思い出してくれた」
その瞬間、私の頭に何かが流れ込んだ。
——水を分けなかった家。
——奪われた水。
——殺された声が、耳に残っている。
——井戸に落とされた、母と子。
——名を持っていなかったはずの、あの子。
——記録から消された名前。
私の胸の奥で、何かが暴れていた。
けれど、その記憶は私自身のものではない。
私は名前を呼ぼうとした。
でも、その名前はもう喉の奥に染みついていた。
「……ヒナ」
呟いた瞬間、水の手が少しだけ緩んだ。
引き上げようとした指が、静かに水へと戻っていく。
けれど、水面には声が残っていた。
「この名前は、私のものじゃなかった。だから……誰かが思い出してくれるのを、待ってたの」
名を呼んだのは、私だった。
けれど、その名は、私が“思いついた”ものではなかった。
——名前が、先にあった。
記憶より、言葉より。
ヒナという名前が、ここに最初に染みついた。
誰が書いたかではない。
誰の中に、最初に“現れた”か。
私はノートに手を伸ばそうとした。
だが、その瞬間、水面の奥から冷たい感触が指に触れた。
何かが、水の中から私の手を引いてきた。
冷たい腕。水の中から伸びてくる。
「ヒナ……」
呼んだのか、呼ばされたのかもわからないまま、私は水の中へと引き込まれていった。
視界が揺れる。
音が消える。
指先が溶けていく。
それでも、耳の奥に声が残っていた。
「やっと、来てくれた」
沈んでいく。
名前とともに、記憶も、呼吸も、すべて水に染みていく。
ノートは、誰の手からも離れ、水面に浮かんでいた。
そして、また一枚、ページが音もなくめくられた。