第四章 名のしずく
私は町の管理窓口に連絡を入れ、あの家への立ち入り許可を正式に得た。
床下の井戸跡に、再び踏み込むためだ。
鍵を受け取って現地へ向かい、扉を開けた瞬間、空気が変わった。
前よりも湿気が濃く、何かが呼吸しているような気配があった。
リビングの補修板を外し、私は慎重に、床下の空間を覗き込んだ。
石を組んだ縁が、丸く、深く、静かに闇を囲っていた。
その中心に、木の板がある。
手袋をして、それをゆっくり持ち上げる。表面は湿っていて、指先にぬめるような感触が残る。
裏返すと、板の裏には染みのような文字があった。
“ヒナ”
それは墨ではなく、インクでもなかった。木の繊維に染み込んだ、にじんだような痕跡だった。
私はしばらく見つめていた。
なぜか、それを自分が書いた気がした。
けれど、その記憶はどこにもなかった。
そのとき、板の下から、ぴちゃりと音がした。
水が、静かに湛えられている。
透明なはずなのに、その奥行きだけが異様に深く感じられた。
光を当てても反射せず、ただその表面に、“何か”の気配だけが揺れている。
私は手帳を取り出し、メモを書こうとした。
だが、その瞬間、ペン先からインクが滲み、紙にしみ広がっていく。
書こうとした文字が、書く前からにじんでいた。
“ヒナ”——そう書こうとしたはずの一文字が、紙の上にすでに現れていた。
私は手を止めた。
水の中に、誰かがこちらを見ている気がした。
その目は、まっすぐに、名を問うていた。