第三章 誰が最初に
ヒナの母は、もう自分の名前を名乗ることが難しくなっていた。
再会した彼女は、記憶の深いところにだけしがみつくような目をしていた。
施設の職員に許可をもらい、私は簡単な聞き取りを試みた。
「“ヒナ”という名前に、覚えがありますか?」
彼女は少し首をかしげた。
「名前……そうねえ……聞いたことが、あるような……」
けれど、すぐに表情が曇り、目を伏せた。
「その子の顔は、思い出せないの。声も。
でもね……名前だけは、なんだか残ってるのよ。不思議ね」
私の喉が、少しだけひりついた。
職員の許可を得て、彼女の私物の中を一時的に確認させてもらった。
小さな木箱の中に、ノートが一冊あった。
中は何も書かれていない。
なのに、どこか“使い終わったもの”のように、ふやけていた。
表紙をめくった裏に、筆跡か染みか判別のつかないにじみがあった。
そこに、“ヒナ”と読める文字が浮かんでいた。
私は言葉を失った。
彼女に訊いてみた。
「このノート、いつ手に入れましたか?」
彼女は数秒考え、こう言った。
「昔ね。どこでもらったのかは覚えてないけれど……でも、なんとなく、“あの子”にあげた気がするの」
あの子。
私は尋ねた。
「“あの子”って、誰のことですか?」
彼女は少し笑った。
「わからないの。でも……
“あの子”がいなくなったあとも、ノートは戻ってきてた。
だから、また書こうかと思って……でも、何を書けばいいか、わからなくなって」
ノートは再び、彼女の記憶とともに白紙に戻っていた。
だが、“ヒナ”という名前だけが、そこに染みついていた。